第21話 狩人のごとく


 自分が見る夢には二種類あると、クロードは認識していた。


 一つは、懐かしい人々の夢。瓦礫にもまれて跡形もなくなった婚約者の柔らかな笑顔。自分を救って死んだ男の横顔。肩を並べた戦友たちの、危険を前にして浮かべた不敵な笑み。


 そしてもう一つは、仕留めるべき標的を見定めた夜に見る、今までに自分が殺した人々の夢だ。大抵は照準の向こうに捉えた姿、あるいはナイフで臓腑を突き刺された苦悶の顔、至近距離で撃ち殺した敵の、血に塗れ色を失った死相。


 照準に捉えた少年の姿を見て、クロードは瞬時にこれは夢だと理解した。もう、いままで何千何万と繰り返された光景。自分の最初の殺人、自分の最初の人狩りマンハント


 アフリカ、治安維持軍PKFの名目で送り込まれた未開の地で自分は部下を率いて監視網を引いていて、目の前に広がる地雷原を監視する役目を与えられていた。


 名目上はそういうことになっているが、実際は警戒線を超える者を射殺するのが与えられた任務だ。地雷原を超え、こちらに入ろうとする盗賊の出来損ないを確実にシャットアウトするのが役目。十数キロ後方の難民キャンプを取材するジャーナリストは知りえない、存在しない戦場。


 少年は、その他大勢の仲間と共に、背後に控える男たちに銃を向けられて歩き出す。隣で、部下の一人が何事かを罵り、照準を男たちに向ける。粗悪なAKを手にし、子供たちを地雷原へと追い立てる男たちに今にも引鉄を絞りそうな部下を、自分は小さく一言で制す。


 任務などという曖昧で形のないもののために、子供を見殺しにするなど正気ではない。しかし、クロードたちが生きる世界、軍人の世界では任務の遂行こそがすべてであり、自分はそのために志願し訓練を受け、ここに来た。


 地雷原を告げる看板の前で子供らが停まる。それを見た男たちが空に向けて銃を撃つ。こちらへ撃ちこんでくれさえすれば、交戦規定に従って彼らを撃ち殺せるのに、彼らはそれを知っているから、そんな愚は冒さない。


 畜生と口の中に罵る。銃声に驚いた子供たちが駆け出し、地雷原へ飛び込む。すぐに一人が地雷を踏んで吹き飛んだ。それに驚いた子供が、逃げ出そうと振り返って地雷を踏む。誰かが踏むたびに血煙が上がり、はじけた四肢が飛んでいく。


 5.5倍の照準の中を最後まで駆け抜けた少年が振り返る。銃口を動かすと、子供たちを送り込んだ男たちは、改造戦闘車両テクニカルに寄りかかり、麻薬を混ぜた煙草を吸いながら、子供に身振りでもっと進めと命じているようだった。


 誰かが撃たせろと無線に吹き込む。先任の下士官がそれを諌める。少年が、定められた射撃規制線へ歩みを進める。心臓が早鐘を打つのが、指先を内側から押し広げる血管の脈動で感じられた。


 祈りは通らない。湿った、重い大気の彼方、多くの仲間の屍を背にして少年が歩み寄る。クロードは自分の手元のカードに視線を落とし、あらかじめ計測してあった距離を確認した。


 720、すぐにエレベーションノブを回して修正値にあわせる。風速、右の風、後方から。修正値は四分の一でいい。


 僕が撃つ、と無線に吹き込む。何人かが、潜伏地点からこちらに視線を投げるのが分かった。俺がと先任の下士官が代役を申し出るのを断る。気持ちのいい仕事ではないが、部下に押し付けるよりは、よほどいい。


 すくなくとも、そのときはそう思った。こうして夢に見るようになった今でも、その判断を後悔してはいない。それはきっと、正しいことだったと思う。


 引鉄に指が掛かる。子供が定められた境界線を踏み越える。風は変わらない。引鉄のスプリングテンションも一定のまま。1.5キロのトリガープルを感じながら引鉄を絞る。子供の歩みにあわせ、自分の心臓のリズムがどんどん加速していく。


 吐いた呼気が震えているように感じた。M40のグリップに添えた右手がこわばっている。あと数歩で子供が境界線を踏み越える。そうしたら容赦なく撃つと心に決め、脳裏にちらつく婚約者を意識から締め出す。


 君は僕が子供を撃ち殺すと知っていても、いつものように笑ってくれるだろうか。


 スコープのフォーカスがずれている気がした。銃の状態がおかしいような気がした。導き出した修正値が間違っているような気がした。すべて気のせいだ。目の前の現実から逃げ出したい、そんな気持ちが生みだす「気のせい」。


 右手でボルトハンドルを持ちあげる。ロッキングラグが解除され、軽くなったボルトをほんのわずかに引く。指先を薬室に潜らせると、冷たい真鍮製の薬莢にふれた。弾は間違いなく装填されている。


「僕が撃つ」


 もう一度、明確に射手を定めるために無線を飛ばした。視線は真っ直ぐ、正しい距離で接眼レンズに正対した。くっきりとした正円の視界にシンプルなクロスヘアを認め、修正値にあわせて右にずらした照準を少年の胸に向ける。


 彼が最後の一歩を踏み出した瞬間、クロードは自分の心臓の動きが正常に、ともすれば普段以上に穏やかになるのを感じ取った。こわばっていた指先は滑らかに動き、静かに引鉄を絞った。


 発砲。反動で視界が揺らぐ。照準のずれは最小で、クロードは自分の撃った少年の胸に飛び込んだ銃弾が、しっかりと効果を果たしたのを見届けた。薄い胸板の中で変形し、横倒しになった銃弾が体組織を容赦なく破壊し、即死した少年が膝から崩れ落ちる。


 彼方でそれを見物していた男たちが、煙草を投げ捨てて立ち去る。走り去る車、取り残された年端も行かぬ子供たちの無残なむくろ。地雷原を走り抜ける幸運が、そのまま銃殺のチケットになった少年を、クロードはスコープでいつまでも見つめていた。





 夢から目覚めると、まず煙草を一本吸う。


 ウィリアムはまだ眠っていた。時間をかけて吸い尽くした煙草を灰皿に押し込んで、ベッドサイドのぬるいミネラルウォーターを飲み干す。


 端末を確かめると、寝る前に送ったメールに返信があったようだった。中身を改め、快諾してくれた部下の好意に笑みが浮かぶ。詳細は電話をと添えた番号を確かめ、それから部屋を出る。空は明るくなり始めていた。


 水場に行って歯を磨き、それから顔を洗うと、クロードは基地内に据えられた公衆電話に向かった。イラクを知らない人間が思い浮かべるイラクと違って携帯電話は普通に使えるが、料金が割高かつ不安定だ。


 受話器をとり、小銭を押し込んで番号を入力する。二つ目のコール音で相手が出た。


『お久しぶりです、大尉。いえ、少佐でしたね』

「僕はもう退役した民間人だよ」

一度なったら、死ぬまで海兵 Once a Marine, Always a Marine.、でしょう』


 電話の向こうで、アラン“マーヴェリック”マクナイトが笑った。クロードもつられて幾分か朗らかになった声音で、確かにそうだけれどもねと頷く。


「それで、例の件たのめるのかい」

『俺ももう、軍をやめた身ですけどね。いまバグダッドにいるんですよ。知り合いの将校に頼んで資料を引っ張ってきてもらうことになりました』

「ありがとう。特にほしいのが、最初のビラに符合する事件の資料だ。ハズレでも何でもいいから、関連ありそうなものは送ってもらえると」

『分かりました。他には何か?』

「8ミリマウザーが使われた狙撃、報告が上がってる分でいいから集めてほしい。もしかしたら、そんなものないかもしれないけども」

『……奴を追っているんですね』

「うん、奴がまた現れた。こんどこそ仕留めたい」


 クロードは頷いた。アランは11年前、“復讐者”と思われる狙撃手を撃った時に隣にいた観測手スポッターだった。クロードが軍を離れてすぐに除隊し、今は政府と契約し、危険地帯を渡り歩いて仕事をしているらしい。


『集められるだけ集めます。あれば、ですけど。少し時間をもらうことになります』

「構わないよ。これは予備の予備、収穫があれば儲けものって程度の話で」


 情報を集め、解析する仕事はそのほとんどが無意味な事実や、事実かどうかも分からない報告の裏を延々と探すだけに終わることばかりだ。しかし、情報がなければ自分のとるべき行動の判断材料が存在しなくなる。


 本来、現場が用いる情報は情報担当職員がその詳細を仕分け、裏を取り、解析を重ねた「確度」の高いものだ。しかしいま、クロードの上に情報担当職員はおらず、情報は自分で解析するよりない。


 普通の、前線に立つことを任務とする兵士は情報解析など門外漢であり触れたこともないだろうが、クロードは第57任務部隊タスクフォース57にいた頃、そういう分野に関わる機会がごまんとあった。上部組織のない独立した作戦部隊ゆえに、自分たちでそういった能力に精通し、自己完結力を高める必要があったからだ。


『こちらの仕分けは不要ですか』

「自分たちでやるよ。自分の目で見て要不要を確認したい」


 “復讐者”に関係ありそうな情報を手当たりしだい集めても、その中に本物の“復讐者”に繋がるものなどない可能性が高い。そもそも、そう多くはないとはいえ8ミリマウザーはこの地域で手に入らない弾薬ではないのだから、それを用いた狙撃の例などいくらでもあるだろう。さらに言ってしまえば、戦場の殺人で、使われた銃をいちいち調べて記録すること事態が稀なのだ。


『分かりました。今からあちこち回るので、もう行きます』


 ああ、それじゃあ頼むよと通話を終えようとしたクロードを、アランが引きとめた。少佐、と階級で呼ばれると、自然と背筋が伸びる。たとえ相手が部下であろうと、自分が失った階級を背負っていたころを思い出すからだ。


『仕留めてください、確実に。もちろん、狩人のごとく』


 アランは言った。狩人のごとく、とはクロードがアランたちを率いていた頃のチームの中での標語だった。狩人は標的を執念深く追い詰め、照準に収めて、一方的に仕留める。狩りとはそういうもので、それこそが斥候狙撃手スカウトスナイパーの殺しにふさわしいあり方だと、クロードたちは常に口にして確かめ合ったものだ。


 決して狩られる側には回らない。撃たれることなく、一撃で仕留める。


「もちろん、狩人のごとく」


 クロードは頷いて受話器を置いた。


 電話を終えると、クロードは早朝から営業する食堂に出向きコーヒーを買った。ホットのブラック、使い捨てのボトルに注いでもらい、サンドイッチを一つ添えて外に出る。遠方に向かう連中と、食事や車両の用意を受け持つ職員らは早朝から動き回っていた。


 コーヒーとサンドイッチに手を付ける間に、外に出る車と入れ替わりで入ってきた物売りのイラク人たちが、決まった位置に店を構え始めた。サンドイッチを片手に様子を見ていたが、装飾品を売るあの老人が現れる様子はない。


 コーヒーとサンドイッチを綺麗に平らげる頃になると、被り物から金髪を垂らした少女が露店のあたりに現れた。立ち止まり、きょろきょろと目当ての店を探し回る彼女は、店がないと分かってなお、その場にとどまり老人を待っているようだ。


「今日はまだ来ないんだね」


 声を掛けると、彼女はぴくりと肩を震わせて驚きを示した。


 振り返った眼差しには、これまでと同じ警戒の濃厚な色合い。クロードはそれを受け、立ち去るべきか迷っている様子の少女の前で立ち止る。それ以上近づけばすぐにでも逃げ出しそうな様子に、クロードは両手のひらを見せた。


 無害のアピールのつもりだが、その意味が伝わらないのか、少女が怪訝に首を傾げる。瞳の奥の警戒色がやや薄れたのだけが救いで、クロードはあてなくさまよう手を下ろした。


「毎朝、こうして見にくるのかい。あのおじいさんの店を」

「……うん」


 消え入りそうな声で、逡巡の後に少女が頷く。警戒の眼差しが和らいだものの、喜ぶどころか申し訳なさが先にたち、クロードは肩を落として眉を下げた。


「いつも、このくらいの時間にはくるのかい」

「……そう、だよ。だから、もう今日は来ない……と思う」

「そうか。残念だね、楽しみにしていたんだろう?」


 こくりと、少女が頷く。こうしてまともな会話が出来るようになると、相手を観察するだけの余裕も生まれる。年齢は恐らく十代半ば前後だろう。まだ大人にとどかない、あどけなさの残る顔立ちにありありと浮き出ている不安げな様子が、こちらの良心にちくちくと刺さる。


「そういえば、彼に聞いたんだけど、あの短剣、予約してあるんだってね?」


 話題に困って、とりあえずでそう問いかけた瞬間、再び少女の瞳に濃い警戒の色が戻る。毛先の痛んだ蜂蜜色の前髪越しに向けられる視線は、どこか獣のような鋭さを裏に秘めている。


 なぜ短剣の話題で警戒心を露わにするのか、訳も分からず目を白黒させるクロードの様子にむしろ困惑したのは向こうのようで、しばらくの沈黙の後、少女が口を開く。


「あなたも……アレがほしいの?」

「いいや、僕はべつに。ただこう、ふっと浮かんできた話題と言うだけ」


 クロードの返しに、少女は首を傾げる。色鮮やかな金髪がこぼれ、上り始めた日差しを受けて淡く輝いた。


「人の先約を掻っ攫うほど無粋じゃないよ、安心してほしい」


 小さく笑って、大丈夫だよとひらひらと手を振ってみせる。しばらくこちらを睨み付けるように――あるいは、心中を探るように目を眇めて見つめた少女は、やがてならいいと言わんばかりに警戒を解く。そう、と感情の薄い声がそれに続き、クロードはようやく知らずのうちに緊張でこわばった肩を緩めた。


 と、少女の視線がこちらの背後に向く。それに気付いて振り返るのと、背後で幼い声が発せられるのは同時だった。


「イヴに、何か用ですか」


 そこに立っていたのは、イヴというらしい金髪の少女と同年代の少女。同じような被り物をし、同じように擦り切れかけの小さなベストを身につけ、同じように使い古されたAKS74Uをぶら下げている。


 違うところは、このあたりの生まれらしい小麦色の肌と真っ黒な髪。そして目鼻立ちの整った、無表情でどこかに鋭さを感じさせる面差しに浮かぶ、青色の瞳だ。着任したその日、ラーキンに小突かれたイヴを庇った少女だった。


「ああ、いや。僕のくだらない世間話に付き合ってもらっていただけ」


 クロードがそう返すと、少女はほんのわずかに眉根を寄せて疑るような眼差しを投げ、視線をイヴに移す。背後で、「ライラ、ほんとだよ」と小さな声がこちらを弁護した。


「ライラと言うのか。初めまして、僕はクロード」


 イヴの返事に、それならばいいと言いたげに無表情をこちらに向ける褐色の少女――ライラに手を差し出す。彼女はそれを見、しかし握ることはなく、はじめましてと機械的な返事を投げる。イブといいライラと言い、大人嫌いは相当のものらしい。


 まあ、それも仕方あるまいと内心に溜息をつく。どだい、戦地で子供兵が大人の、ましてや西洋人に愛想よく対応するところなどろくに見た覚えがない。


「何も、変なことはしていませんね」

「していない。誓ってもいい」

「大人の言う誓いは信用できません」


 にべもない返事をよこすライラに、思わず苦笑ともつかない表情になる。ライラはこちらのことなどお構い無しに隣を通り過ぎ、イヴに歩み寄ると、そっとその手を握った。ちらりと視線を投げると、ライラは柔らかな笑みを口元に浮かべ、イヴに本当に大丈夫かと問うているようだった。


 信用のないことに憤りはしないし、やむないことだと割り切っているが、自分に対するものとイヴに対する態度の余りの落差に、やれやれとため息が漏れた。


「他に何か御用がおありでしょうか」


 振り向いたライラの顔も声も、完全に事務的なそれに戻っている。ライラの背中に隠れるようにして張り付いたイヴを見ると、しっかり者で気の強い姉と、気弱で抜け気味の妹といったところか。


「いや、特には。引きとめてすまなかった、別に意図があったわけじゃないんだけど。と、もうすぐ、君たちが集まる時間じゃないのかい」


 言いつつ腕時計に視線を落とす。時刻は既に、昨日ラーキンがイヴを探しに来た時間に近づきつつあった。時計の文字盤を見せてやると、ライラはほんのわずかに睨み気味の眼差しを緩め、針を読む。


「お気遣いありがとうございます。それでは」


 言って、ライラがイブの手を引いて立ち去る。去り際、イヴがチラリとこちらを振り向き、それからほんのわずかにではあるが手を振るのが見えた。


 いってらっしゃい、と手を振り替えし、二人を見送ると、クロードも自分の仕事のために自室へと引き返す。

 

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