第16話 見知った敵 1

「そういえば、君たちはかまわないのかい、僕らの仕事に付き合って」


 社員食堂、と銘打たれてはいるが、実際は基地にいるすべての人間全員の胃袋を支える大きなホール。イラク政府軍の人間も、この基地にほんの少しだけ駐留する米兵も、食事となれば大抵はここに集まる。


 その例に漏れずホールに集合したクロードたちは、その隅の座席を占有し、五人でテーブルを囲んでいた。人目を避けての位置取りであったが、抜けるような白皙の肌に、同色の髪のセシリア、そして透けるようなブロンドのアネットという、二人の美女が並んでいては無意味というよりない。


 遠目にこちらを見遣るもの、近くを通りかかり、値踏みするような視線を向けるもの。人種も年齢も関係無しに好奇の視線を向ける男たち。一方の女性二人組はといえば、慣れたものと言いたげな態度で右から左へ。


 時たま声を掛けてくる者もいたが、いずれも基地につめる数少ない女性職員ばかり。いずれもアネットの知り合いで、軽い自己紹介をはさんで立ち去っていく。


 そういったわけで、結局本題に取り掛かれたのは、各々食事を終えてからのことだった。セシリアはとっくに自分の分を平らげて食後のドリップティーに、アネットはコーヒー、クルトとウィリアムはそれぞれ炭酸水のボトルを開けている。


「私は構わないわ。まあ、たしかに普通の仕事ではないのは確かだけれど」


 アネットが言う。基地内ということで、カミースを脱ぎさって、ジーパンとシャツに履き替えている。腰には拳銃が刺さったままで、表面塗膜が落ちて地金の覗くベレッタが鈍く光る。


「クルトは」

「構いませんよ。静かに狙われるより、狩るほうが気分もマシでしょうから」


 クルトは言った。空港に迎えに来てから今までと同じ、人懐こい、どこかぼんやりとした顔のままだが、その言葉には剣呑な響きがあった。隣で、ウィリアムが一瞬だけきょとんとした後で、ニヤリと笑う。


「クルトって、意外と物騒というか、荒っぽいのよね」


 それを見たアネットが小さく肩をすくめた。当のクルトは、一体何のことだか分からないといった様子で、テーブルを囲む顔ぶれを見つめている。


「それで、明日からはどうするのかしら」


 安物の紅茶を静かに楽しんでいたセシリアが口を挟んだ。クロードはテーブルの上のハリソンから受け取ったファイルを指でとんとんとつついて、


「日中に狙撃地点を回ってみる。場所を見ておきたい」


 それで構わないかな、とチームメイトに問う。少し待っても、誰からも異論は上がらなかった。


「それで、具体的に対処するとして、どうやるのかしら。私たちは専門家ではないから、分からないのだけど」

「基本的に、狙撃手を狩るなら傾向を調べて網を張る」


 アネットの問いにクロードは答えた。


 戦場における狙撃手は基本的に、その始まりから終わりまで、すべての選択を狙撃手自身が握っている。狩場の選定、標的の選択、射撃のタイミング、撤収の時期。そのうえ少数で活動し、しかも必要とあれば長時間の潜伏を行う都合上、それを狩るとなれば、基本的に人数をそろえ、監視網を敷いてかかるのを待つしかない。


 そして、かかり次第撃ち殺す。あるいは、余裕があれば砲撃や爆撃を要請する。もちろん、こちらにある手札は人員四名、小火器のみであるから、取りえる選択肢は非常に狭くなる。


 そもそも網を張るにせよ、各チームに熟練の射手を配するのが前提条件。専門教育を受けたのがクロード一人である以上、網を張るのは不可能に近い。潜伏、索敵、射撃の技能を満遍なくそろえた狙撃手は、そう簡単に手に入る人材ではない。いまから人員を集めるのも厳しい話だろう。


 ざっと説明を終えてから、それに、とクロードは視線を巡らせる。


 セシリアが、愉快げな眼差しをこちらに向けている。紫の奥に見えるのは、大きな信頼の眼差し。複雑な感情の色合いを見せるそれを、前にもどこかで見たような記憶がある。数え切れない作戦のどこかに埋もれた、引っ張り出せない記憶の中に。


 G&Mに預けられる前にしばらくセシリアの仕事について回った時期があるが、セシリアがこういった眼差しを向けるのは、自分の知り限り二人だけ。一人は、セシリアの保護者の男、そしてもう一人は自分だ。


 そして、殺し合いに身を投じる人間で、彼女の信頼を勝ち取っているのは自分だけだ。もちろん、うぬぼれでなければだが。


 しかし、この女はただの信頼だけで物事を進める手合いではない。この面子で充分という判断なのか、はなから別の目的でこの面子を集めたのか。ウィリアムはともかく、アネットとクルトはほとんど未知数といっていい現状、それを判断する手立てはない。


 今の段階では、クロード単独での対処を考えるよりなく、それで充分だと判断しているセシリアの信頼の出所を信用する以外になかった。もちろん、この女の見立てが狂ったことなど今まで見たこともないわけだが。


「そういえば、前回はどうやって仕留めたんですか」


 撃ったのはクロードさんですよね、とクルトが首をかしげた。それを合図に、セシリア以外の全員から、それが気になっていたと言いたげな視線が突き刺さる。


「イラクだった。同じ北部地域、キルクーク市街、北西」


 ここからすぐのところだよ、とクロード。ウィリアムがすかさず、あらかじめ用意しておいた地図を広げる。このへんだねとクロードが地図を指差すと、チーム全員が顔を寄せる。


「同じ場所に同じ、同じ狙撃手。幽霊だったりしてな」

「幽霊が銃弾を放つんじゃ、この狩りは負けになる。それじゃ困る」


 ウィリアムの冗談に、クロードはニコリともせずに被せた。当然、幽霊なわけはない。クロードはまだ幽霊に出くわしたことはないが、すくなくとも、銃を片手に徘徊する幽霊など聞いたこともなかった。


「だわな。死人が銃を撃つなんて法外な話は聞いたこともない」

「だから殺す。網を張るのは無理だろうけど」


 人数が足りないからね、とクロードが首を振る。狙撃教育を受けていない二人がやや申し訳なさそうにしたが、そもそも、アネットとクルトが狙撃手課程を通っていたとして、用意できるのは二組程度、どちらにせよ足りはしない。


「僕のときは八人、四組用意した。情報を集めて、網を張って、そしてかかるのを気長に待った」

「そのときのこと、良ければ詳しく聞かせてもらえませんか」


 分厚い皮手帳を開き、二〇〇四年夏の記録を探すクロードに、クルトが問うた。ちらりと、クロードの昔話嫌いを知るセシリアが視線を投げたが、そのことに気付いたのはアネットだけ。アネットはといえば、興味はあるが自分から問うだけの勇気はない様子で、グリーンの視線をわずかに伏せた。


「いいよ、覚えている限りのことでよければ」


 昔話は好きではない。自分の半生が血にまみれているのが分かるから。記憶の引き出しを開け、血の匂いを嗅ぐのを好むものはそういない。しかし、同じ仕事に携わる仲間に、情報を与えないわけには行かなかった。


 





 七月のことだった。イラクの夏は細胞すべてが干上がるのではないかというほどに暑い。上から降り注ぐ太陽と、その光を反射する地面に挟み込まれ、脳みそが熱で溶け出してしまいそうなほどに。


 イラク戦争は、その戦いを新たな局面へ移したあとだった。イラク政府軍は米軍を主軸とする多国籍軍の前に完膚なきまでに叩き潰され、サダム・フセイン政権は完全に瓦解した。しかしそれは、戦争の終わりを意味したわけではない。


 イラクを統べていた男が消え去ったあとに残ったのは、混沌と暴力の拡散に過ぎなかった。各地に散り散りになった旧政権派や、抑え込まれていた過激派が場所と時間を問わず武力を手に暴れまわるのが日常になっただけだ。


 この頃になり、イラク戦争はすでにその開戦のお題目を失いつつあった。当初あるとされていた大量破壊兵器は何処を掘り返しても見つからず、サダム政権とアルカイダの繋がりも未だ証拠が出る兆しはない。当初は短期間で終わるとされた米軍の展開自体も、サダム政権の崩壊から始まるイラク各地への暴力の拡大を受け、撤兵は夢物語そのものになってしまった。


 アフガニスタンへの介入とは訳が違うと、クロードはかつてイラク開戦を前に部下に向けた自身の言葉を思い出した。アフガニスタンへの出兵には、明確な理由があった。911を実行して膨大な市民を殺したアルカイダを、アフガニスタンのタリバン政権がかばったからこそ、米軍は武力に寄るアルカイダ・タリバンの殲滅を実行に移した。あの戦いにははっきりとした目的があり、土足で踏み入るだけの大義があったのだ。


 そのアフガニスタンですら、現状においては安定には程遠い。であるというのに、イラクに介入し、サダムを打ち倒したとして、それで終わりにできるわけがない。そういったクロードの言葉は現実になり、今も日ごとに大勢の人間が死んでいる。市民であろうと、武装勢力の兵士であろうと、多国籍軍の人間であろうと関係なしに、暴力に飲み込まれて息絶え、血が流れる。


 そのとき、目の前でいましも息絶えようとしていた伍長もまたその一人だった。


 遠距離からの一発が彼の身体を射抜いていた。肉を引き裂いて侵入した弾丸が変形し、彼の臓器と血管とをぐちゃぐちゃに破壊していた。傷口からは引き裂けた何かがはみ出し、震えるように胸が膨らみ、しぼむ間に、必死に命をつなぎとめようとうごめく心臓が押し出した血液が、無意味に垂れ流されていく。


 そして彼は死んだ。衛生兵が医療搬送を要請してすぐのことだった。


 何のためにこんなところで。死ぬ前に彼が絞り出したその疑問に、答えられる人間はこの場には居なかった。おそらくは、バグダッドの元宮殿に詰める高官にも、そしてワシントンで厳重に守られた、この戦いを始めると決めた当の本人にも答えられなかっただろう。


 理由の失われた戦争ほど悲惨なものはない。とくに現場にいる人間にとっては何よりも。それはベトナムで同じような戦いを演じた祖父の言葉であり、将校となって帰省したクロードに向けられたものだったが、その言葉の意味を理解したときには、クロードはその理由の失われた戦争の中に居た。


 意識が濁るほどの熱気の中で戦う意味もわからないままに伍長が死んだように、イラクにはそういう死が溢れていた。


 それは海の向こうから侵攻してきた兵士だけの話ではなく、戦いに巻き込まれて死んだ国民にも、そしてクロードらと戦って死んだ武装勢力の戦士にも、わかっているものは居ないだろう。政治家や、自分たちの上にいる人間たちが常々口にするような言葉としての説明はできても、実感として理解している人間は、この戦場には誰一人居ない。


 そんな中で、理由もわからず終わりも見えないままに、高価値目標の一言でくくられる誰かしらの首を落とすのがクロードたちの仕事だった。


 すでにクロードのチームは両手指よりも多くの高価値目標を仕留めたあとで、伍長が死んだその日は、とある狙撃手への対処のために呼びつけられ、現地へ到着したばかりだった。


 その時、その狙撃手にはすでに“復讐者”というあだ名が付いていた。あだ名はその狙撃手がばらまいたとされる簡素な声明文が、“私は復讐する”と締めくくられたことに由来しているそうだった。それは十八人目の犠牲者報告を受け、うんざりした顔でクロードたちを出迎えた指揮官からの説明だった。


 訪れた前哨基地では誰も彼もがうんざりしていた。それは多くの同胞が狙撃手の手にかかったせいだったが、同時に、正気を保つほうが難しいほどの暑さのせいでもあるし、自分の人生には関わりのないはずの戦争のせいでもあった。だれだって、理由の失われた戦争を戦いたくはない。自分の人生に関わりのない戦地で死んでいく仲間を見たくはない。ましてや、撃たれるかもしれない、死ぬかもしれないなどと考えたくはない。


 それはクロードも同じだった。アフガニスタン紛争は個人的には望むところですらあった。911では友人が死に、婚約者が死んでいたからだ。奴らを捻り潰してやるという激情があったからこそ、並み居るどの特殊部隊よりも先にアフガニスタンに入り、偵察隊として北部同盟と有志連合の圧倒的な勝利に貢献した。


 しかしイラクは違う、無意味で無価値な戦いになるとわかっていた。そしてそのとおりになった。そこで死ぬのは御免こうむるし、仲間が死んでいくのも同じだ。

だから、やつを殺してくれと言われるまでもなく、クロードは部下を率いて“復讐者”を殺すことにした。仲間が殺されるのが嫌なら殺すしかない。





 復讐者についてわかっていることは何もなかった。こちらが知っているのはそのあだ名と、犠牲者のことだけだ。


 名前も知らない、顔も知らない、歳も知らない。どんな姿で、どんな声をし、どんな立ち振舞をするのかも知らない相手を殺すために、情報を集める。殺された犠牲者の情報には、射手の情報が紛れ込んでいる。いつ、どこで、なにを標的にして撃つのか。そういう情報だ。


 名前も顔もわからない狙撃手を相手取るのは戦場ではままあることだ。しかし名前もなければ顔もない、名無しの権兵衛ジョン・ドゥの大抵の連中と違い、この男は何処かの部隊が敷いた監視網や、たまたま居合わせた攻撃チームの手にかかって死ぬことはなかった。およその狙撃手がそうであるように、偶然に殺されることのない男だった。


 それはつまり腕が立つということだ。偶然に殺されないように、偶然に左右されない要素で身の回りを固めるのは狙撃手の鉄則だ。非常に慎重な男だと、クロードは戦死者報告に付随する情報を整理しながら考えた。


 射距離は長くとってある、短くても600メートルを下回ることだけはない。射撃の数も最小限で、三発以上を撃たずに離脱する。時間の選定は夕暮れ時、日没の直前。標的はただ一つ、米軍車列の機関銃手のみ。


 自分が定めた狩りの条件をどこまでも徹底的に守る。それが人を狩る上で自分の身を守るための鉄則だ。それをクロードはアフリカでの任務と、アフガニスタンでの活動で知っていた。その条件を逸脱し続ければ、いつかは偶然の気まぐれが牙をむく。それで死んだ同胞を見てきたし、それで自分の照準に捉えられた敵はその何倍も見てきた。


 しかしこの男は違った。自分の決めたルールをどこまでも守る。敵をより多く殺すために、目先の標的に釣られたりはしない。最小限の弾数でしっかりと獲物を仕留め、同じ狩場を連続して選ばず、連日での仕事はしない。殺し方を心得た相手の動きだ。こういう相手にお目にかかったのはクロードにとり事実上初めてのことだった。


 およそ武装勢力という肩書を付与される連中に、ここまで腕の立つ人間はそういない。


 こいつは違う。その確信が強くなったのは、クロードとは別の陸軍の狙撃手チームが対処作戦の最中に反撃を受けて殺されてからだ。すでに最初の犠牲者が出てから二ヶ月が経過し、米兵の間では“復讐者”という名前が一人歩きを始めた頃のことだった。


 誰もその復讐の内容を知らなかった。誰がつけたのかもよくわかっていなかったが、その名前だけが恐怖の象徴としてあちらこちらでささやかれるようになりつつあった。





 そしてその日、二三人目の犠牲者が出た。


 相も変わらず干上がるような熱気の中で、頭を撃ち抜かれた兵士が倒れ込み、ヘルメットの下で弾けた頭から血を垂れ流しながら車外へ引きずり出されるのを、クロードはスコープで見た。


 それはクロードのチームが分散し、敵の主要目標であるパトロール部隊を監視していたときのことだった。もっとも狙われやすいと思われる場所を選定し、チームを四分割してその“デッドゾーン”の見張りをしているさなかのことだ。クロードとその観測手は、無人になった建物の二階の部屋に陣取り、すでに四日もそこで監視を続けていた。


 夕暮れ時だった。巻き上げられた砂塵が斜陽で赤く色づき、町並みが血をぶちまけたように赤く変色していた。遠くでは地平に触れた太陽がにじみ、陽炎の中で揺らめきながら、地平に赤を広げていく。それはまるで流れ出る血のようで、ひどく不愉快な眺めだった。


 方位282と隣で言ったのは、同伴の観測手に選んだアラン“マーヴェリック”マクナイト二等軍曹だった。彼は砲弾だかロケットだか重機関銃だかが壁に穿った幾つかの穴の一つを観測用の窓にし、傍らに置いた無線機の声に耳をそばだてている。無線は一方的にパトロールチームの会話を傍受するためのもので、すでにKIA一名を報告する彼らのやり取りから、狙撃手の方向を割り出したあとだった。


「修正、278。遠いです、確認できますか」


 その声が頭に突き刺さるような熱気にうなされる意識を目の前の現実へと向かわせ、クロードは、テーブルの上に二脚を展開したM40の筒先をかすかに動かして指示された方向を見た。


 何処を見ても代わり映えがしない。この地に来てから見飽きた眺めだ。スコープが拡大した輪郭をなぞる。傾いた太陽が、街中に濃い影とまばゆい光の両方を生み出している。褪せた建物の色、乾いた大地の色、祖国とは似ても似つかない痩せこけた血まみれの大地。それを見るたびにうんざりする。


 なぜこんなところで殺し合いをしているのか。自分の人生には何の関わりもない国で、今日もまた仲間が死んでいる。それは他人事ではない。自分もまた、軍にいなければ本来一生関わり合いがなかっただろうこの国で、今まさに敵を殺そうと照準を覗き込んでいる。それはつまり、殺される可能性がありえるということだ。


「見えてる」

「旧放送施設の右側、三階建ての半壊した建造物です」

「ああ、確認しているよ」


 クロードは言った。アランが方位を口にした頃には、その建物に狙いを定めていた。


 その建物は歪な形状をしていた。爆発物を食らった建物特有の、大穴が空いてそこを中心に崩れ落ちたシルエットだ。そこに照準を向けたのは、単なる気まぐれでも適当でもなかった。


 クロードたちはパトロール部隊が狙撃を受ける可能性が高いポイントを幾つかピックアップすると同時に、どの地点で被害が出た場合、どこから射線を通している可能性が高いかもまた、同じように候補地を用意していた。


 “復讐者”と呼ばれる顔も知らぬその狙撃手の手による被害者情報を何度となく読み直し、その平均的な射距離に目安を付け、その距離内で日没前に標的を確実に視認できると思われる位置を、可能性の高い順に並べた結果だ。


 照準内に収めたそれは、その中で上位から四つ目の候補地だった。そして同時に、最も遠くにある候補地でもある。距離は872メートルで、クロードが手にしたM40のカタログ上の有効射程を僅かに超えている。


 クロードは目を凝らした。


 建物の壁に空いた大穴の中は、輪郭の曖昧な暗がりになっていた。沈みゆく太陽は穴の反対側にあり、逆光になるのでそこには光が届かないせいだ。さらに周囲に太陽光が反射していて、それとの対比で穴の向こうはなおのこと暗く見える。


 ともすれば、そこにあるのは闇と砂っぽい空虚だけなのではないか。そんな気さえしそうなものだが、クロードはそこに照準を据えたままだった。かすかに、穴のなかから粉塵が漏れ、風に流されていくのが見えた。


 太陽光を浴びる周囲の建物はもはや砂色というよりは白く輝いて見え、逆に崩れかけの建物の中はほとんど漆黒に近い暗さだったが、その中に何かがうごめいているのが見えた。正確に言えば、闇とは違う色合いの何かを、クロードの目が拾い上げた。


 クロードの得意分野とも言える部分だった。風景を見、その中にあるかすかな動きを拾い上げる。あるいは、周囲とのかすかな色相の差、形状の不一致を見つける。意識的なものではなく、頭のなかで勝手に行われることだ。天性のものといっていい。


 クロードは慎重に、視界がずれないようにスコープの倍率をさらに上げた。半壊した家屋がスコープの円の縁限界まで広がり、その中の闇だけに目を慣らす。闇の中で、動作とすら言えないほどの小さなゆらめきがある。遠く離れ、徐々に濃くなりつつある砂塵に遮られているが、それはまるで、身を潜めた何者かが身じろぎをしているように見える。


「いる」


 クロードは言った。アランにも、見えていなくとも確信に近いものがあっただろう。くずれた穴の中からかすかに漏れ出し、太陽光を浴びながら吹き散らされた粉塵は、発砲の衝撃で、堆積した微細な砂塵が巻き上げられたときに良く見られるものだと考えられた。


「風速、左から4メートル毎秒。修正値2.8」

「了解」


 アランが即座に風を読み、距離に応じた修正値を出す。数値はミルだ。スコープのレティクルの目盛り単位でもある。クロードはその数値を頭に留めながら、872メートルでの弾道の落下量を暗算する。


 角度はほとんどないため距離は予め計測してあった数値に従うだけでいい。ゼロインの距離は600メートルでとってあった。一瞬だけスコープから目を離し、確認のために手元の表を見る。距離ごとの修正値が書き込まれたそれに合わせ、スコープのエレベーションを操作した。


「いける」

「射撃は任意」


 アランは応じた。クロードは頷く代わりにゆっくりと息を吐き出した。


 遠くから、夕刻の礼拝の声が聞こえてきた。聞こえるのは神への祈りを捧げる声と、無線のがなり声、こちらの殺し合いとは無縁の人々の営みの喧騒。どこから狙われたかを把握できていないのだろう、無線は兵士たちの慌ただしいやり取りを垂れ流していた。


 敵は次弾を撃つだろうかと考える。きっと撃つだろう、狙える相手がいれば撃つのが狙撃手だ。視線だけを停車したパトロール車両に向ける。遮蔽をとってなお、無防備な兵士たちの姿が見える。


 クロードはもう一度スコープを覗き込んだ。


 意識をスコープの中心に集め、崩れた穴の向こうの瓦礫の闇を見る。闇の中にもう動きはない。そこにあるのは暗い空間だけなのではないか、そんな気さえするが、クロードは静かに息を潜め、レンズが拾い上げる光の像をじっくりと精査する。先程よりも着実に太陽が傾き、判別をより難しくしている。


 いる、という確信がある。暗がりのなかの輪郭が、わずかに身じろぎするのが分かる。ゆっくりと息を吐きだし、舌で唇を湿らせる。乾いた唇が剥けてザラザラとしている。照準に捉えた暗がりに誰かがいる。顔も知らぬ狙撃手がいる。目の前で同胞を殺してくれた敵が。


 安全装置を外し、人差し指をトリガーガードに押し当てる。深呼吸をして、暗がりの中で息を潜め、次の獲物を狙っているだろう狙撃手に狙いをつける。


 太陽が、最後の力を振り絞って眩い明かりを振りまいていた。先程までは地上を支配していたそれも徐々に力が失われ、夜の色があたりを支配しつつある。


 その中で、ほとんど闇そのものになった穴の向こう、ピタリと身動きをしなくなった輪郭に風速の影響を見込んだ照準を据えると、クロードは引鉄の遊びをせばめた。


 二脚で据えたライフルの固定を確認し、右手をグリップに添え、左手は肩にあてがったストックエンドをつかむ。


 意識が完全に標的に――ほとんど目には見えない闇の中の輪郭――吸い込まれたようだった。それまで聞こえていた無線の音や、礼拝の声が意識から締め出され、指にかかる引鉄のテンションとスコープのクロスヘアだけが全てになる。彼は肺に酸素を送り込み、ほんの一息だけ吐き出すと、引鉄を静かに絞った。



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