第13話 イラクへの路 2

 アフガニスタンからドイツへ。


 そして、ドイツはラムシュタインで機体を乗り換えてイラクへ。どちらも、自分たち以外に乗客はいない貸しきり状態だったが、移動する間、セシリアはそれ以上仕事の話を振ってこなかった。


 ウィリアムはウィリアムで、雰囲気から何かしらの過去を感じ取ったのか、それに乗っかってたわいもない話に花を咲かせるか昼寝をするか。ウィリアムのそういうところを、クロードは気に入っていた。


 元海兵隊員、腕利きの偵察大隊所属、遠征軍付偵察隊フォースリーコンの選抜にも通過しているが、家庭の事情によりこれを辞退している。戦地で七年もの間背中を預けた第57任務部隊タスクフォース57の兄弟らと同じくらいに、この男は信用できる。それが一年と少し、共に表には出せない仕事をこなした上でのクロードの評価だ。


 同じ出身母体ゆえの理解、というのもあるだろうが、それよりももっと深い部分で、ウィリアムはクロードと馬が合った。やかましすぎず、しかし寡黙には程遠く、仕事においては手を抜かない。同じく銃を愛し、熱砂に巻かれる仕事を好んでいる。


 いってしまえば、戦争を忘れられない哀れな手負いの野犬二匹。一方、その両方を管理する飼い主たるセシリアはといえば、クロード個人から見れば信頼できる相手だが、いかんせん謎が多い。


 分かっているのは、クロードは過去に何かしら彼女に貸しを作っていること。そして彼女の法廷後見人、もとい保護者は、クロードの恩人であること。情報機関の所属であること。しかもおそらく、というよりは、明言こそないものの間違いなくCIAの人間。おなじくCIAに長く身を置くクロードの父と何かしらのつながりがあること。後のことは、一切合財が不明だ。


 年齢も大まかにしか分からず、出身地を聞いた覚えもない。その手の話は煙に巻かれるのが常で、彼女は自分の何もかもを知っているというのに、自分は飼い主を何も知らないという不安感はどうしてもぬぐえないものだ。


 どだい、情報機関の人間というのはどうにも好きになれない。それは長い軍務の間に蓄積された不信感の結果でもあるし、CIAに身をささげている父親へのささやかな反発でもあるだろう。が、その情報機関の女に身を救われたのはこっちである。


“選びなさい、ここで心まで腐りきるか、私に身を預けてまた血の大地を歩くか”


 死んだ戦友の思い出と共に鬱屈していくだけの心。瀕死の重傷も癒え、傷痍除隊という形で軍を放逐された自分。家の前に出来る記者の山、私生活を隠し撮りするパパラッチ、電話に混ざる盗聴の気配。それらで腐りかけていた自分を知ってか、許可も得ずに乗り込んできたセシリアは、自らを情報機関の人間だと明言した上でそう問いかけた。


 乗ったのは自分。引きずり出してくれたのはこの女。感謝こそすれ、それに対して不信感をもつなど礼を失するといわざるを得ない。それにこの女は、今のところクロードとの約束を忠実すぎるほどに果たしてくれている。


 そんなことを考えている間に、そしてくだらない世間話に三人で花を咲かせる間に、輸送機はいつの間にか、イラク国境を越え、目的地であるアル・アサド空軍基地に降り立っていた。





「ひでえ、置き去りだ」

「こうなることは分かっていた」


 アル・アサドに降り立ってヘリに乗り換えて向かった先はキルクーク。イラク北部にある都市であり、それなりの規模の空港を備えている。情勢が不安定どころではない今現在、撤兵からの再派兵を始めた米軍主導の多国籍軍とイラク陸軍に接収されて、空港は軍事拠点となっているが。


 到着するなり、私は仕事の話があるから、と言い出したセシリアは、先に手配していたらしい手持ちの武装要員――それも民間軍事会社PMSCの契約保安要員ではなく、政府が抱えている準軍事要員パラミリタリーオペレーター――に迎えられ、車列で立ち去ってしまった。


 残ったのは男二人。哀れ、頭上から照りつける太陽と地面からの輻射熱に焼かれながら、迎えが来るのを待つ。幸いしたのは、置き去りになってそうかからず、気を利かせてくれた職員が駐機している輸送機の陰を貸してくれたことだろう。


 とはいえ、足元アスファルトが放つ熱からは逃げられないわけなのだが。


 軍を辞めてから始めた煙草に手を付ける気にもならず、とっくにぬるま湯に成り下がっているミネラルウォーターのボトルを開ける。既に中身はすっからかん、最後の一口を飲み干し、薄いボトルをひねり潰してバックパックに押し込む。


「で、迎えっていつ来るんだっけか」

「もうとっくに来てるはずだよ、セシリアの伝えた時間が正しければね」

「我らが美しき魔女様が間違えるとは思えんね」


 諦めきった様子で焦点の合わない眼差しを遠くの滑走路に向けるウィリアム。ゆれる陽炎の角度を追いながら風速計算を始めるほどに頭のうだった彼を見、クロードは最早何かを言う気にもならず、転がした膨らみすぎのバックパックにうつぶせに覆いかぶさる。傍目には、正気を失った兵士と行き倒れた戦友のように見えるのだろう。


「つまり、迎えが遅刻してるということだよ、ウィル」

「そうか。で、返事が五分も遅れると間が抜けて見えるぞ」


 ぼんやりと考えること数分、ようやく搾り出した一言に、ついにメモに数字を書きなぐり始める相棒が答える。暇潰しには風速計測が良いと教えたのは自分だが、だだっ広い滑走路をうつろな目で見つめて計算式を並べる様は、どうみても正気とは言いがたい。


「このままここで野垂れ死んだら、迎えのやつらを祟ってやる」

「いい案だ、そうでもしないとおとなしくあの世なんかに行けるもんか」


 おぼえてろ、とウィリアムがつぶやく。そのあとしばらくぶつぶつと続いた不穏な言葉もいつの間にか絶え、彼はバッグにうつ伏せで脱力するクロードのポケットから煙草を勝手に取り出し、それを吸い始めたきり黙りこんでしまう。


 思考を放棄した意識をたたき起こすエンジン音が聞こえたのは、それから更にしばらくしてからのことだった。こちらに近づいてくるロードノイズは、すぐ傍でブレーキ音と共に途絶える。かけっ放しのエンジン音に小走りの足音が混ざり、やがてそれが隣で止まると、遠慮がちだが気遣うような声が掛けられる。


「あのぅ……生きてらっしゃいますか?」

「死んでいたら責任は取ってくれたかい」


 顔を起こして問いに答える。隣ではウィリアムが恨みがましい視線を声の主へと向けている。声の主は、こちらのけだるげな、そして恨みのこもった視線を受けて一瞬たじろいだようだった。


 若い男だった。すくなくとも、こちらの目からはそう見える。かけていたオークリーのグラスを外して使い古されたレンジャーグリーンのキャップにかけると、人懐っこい目元に申し訳なさと幽鬼じみた男たちへの薄い恐怖が浮かんでいる。


 足元はトレッキングシューズ、タクティカルパンツを履いて、上はどこのものかもわからないありがちなチェックシャツ。首から提げたG&Mの社員証には、クルト・マーフィーと名が記してあった。


「すみません、伝達されていた輸送機の番号に不備があって。夕方に着くものだとおもっていたので」

「そりゃいい。あとで伝達したやつに会わせてくれるなら全部チャラにしてやる。危うくここでミイラになるところだったんだぞ」


 頭を下げるクルトに、苛立ちもあらわにクロードから奪った煙草の箱を握りつぶすウィリアム。まだ中身が半分以上残っているそれの無残な有様にクロードが胡乱な目を向けると、ウィリアムは数秒固まってから、いそいそと自分の荷物を担ぎ始める。


「さ、行こうぜクロード。こんなところで干からびたくはないだろう?」

「僕の煙草に関しては後でしっかり話をしよう」


 そっと視線をそらすウィリアム。クロードはそれに笑顔を向けたまま、自分のバックパックを背負う。銃と装備品でパンパンのバックパックは重く、うだりきって汗でぐっしょりの体には堪えた。


「本当に、お待たせしてしまって。彼女が気付かなかったら、それこそ夕刻まで放置でした」


 申し訳ない、と再び頭を下げるクルト。彼自身のミスでないというのにこれ以上責める気に葉ならず、いいよと手をひらひらとさせてから――ウィリアムが、彼女という言葉に気付いて首をかしげた。


「彼女? セシリアのことか」

「いいえ? その方はご存知ありませんが、ウチのチームの同僚です」


 ほら、とクルトが指差す先。砂にまかれて薄汚れた、使い込んだ雰囲気のあるSUVの傍らに女が一人佇んでいる。


 おや、と足を止めないまま目を眇める。車体と比較して、女性にしては長身の部類と判断すると、青いカミースを羽織り、その上にダイアモンドバック社の軽量防弾装備プレートキャリアを身につけた彼女が、こちらに気付いたらしく、笑みを浮かべて小さく手を振った。


「こりゃまた」ウィリアムがぼやいて、「ウチの魔女様とはまた違う美人だな」


 全くの同意見だった。佇む女がカミースのフードを外すと、一房に束ねた豊かな金髪が零れ落ちた。


 目鼻立ちのすっきりとした、化粧気の薄い女だった。戦地にふさわしくない、静かな華やかさをもっている。老けているわけではないが、セシリアよりもいくつか年上のように思えた。すくなくとも、細めた目じりの落ち着いた輪郭には、そう感じさせるだけの落ち着きがある。とはいえ、自分は飼い主たる魔女の実年齢を知らないが。


「ようこそ、イラクへ。なんて、あなたたちに言ったら笑われるわね。お帰りなさい、ベテランさん」


 女が言った。外見どおりのしっとりとした、落ち着いた声だった。ウィリアムは先ほどまでけだるげだった背筋を伸ばし、笑顔でどうも始めましてと返事を投げる。


「まるで僕らを知っているような口ぶりだ」

「少なくとも、貴方のことは知っているわよ、凄腕さん」


 おや、それはどうもと、身についた習い性かそっけない返事が出る。クロードは自分の戦果の話をされるのも、それによって得た名声の話も好きではなかった。仕事をする上で、誰かが語った武勇などは邪魔だからに他ならない。そして、ただ与えられた仕事をしたという点において、他の射手と自分との間に存在するのは、純然たる運の問題、目の前に標的が転がってきたか、という一点につきる。


 少なくとも、クロードにとっては自分の戦果はそういうものだった。確かに、自分が過酷な状況で標的を撃ち抜き続け、狙撃チームを統率し、人狩り部隊マンハンターの指揮官に任命されたのは認める。しかし、自分と同じように訓練を通過し、戦場を生き残った射手であれば、機会が与えられれば同じように遂行しただろうと、そう考えていた。


「でも、僕の名前はクロードだ。そう呼んでくれるかい」


 しかしほんの一瞬の自省が、すぐに次の言葉を送り出した。


 自分の趣向はさておき、自分の噂を聞いた人々がクロード・ビショップを死神として見るのは仕方のないことだ。大勢の過激派戦闘員を射殺した射手、そして首狩り職人。自称元情報機関員の匿名情報筋の話では、クロードは自らの指揮する作戦で七年に五〇を超える最重要標的の首を落としたらしい。年に七人、オーバーワークもいいところだ。


 それに彼女は、自分を死神とは呼ばなかった。もっとも忌み嫌う自分のあだ名を。死神という名は、最も大切だった人が愛してくれた自分はとっくに死んで怪物になったのだと、そう告げられているようで不快だった。そういう意味では、初対面の人間のほとんどが自分を“死神”と呼んだのに比べたら、凄腕というのはよほど慈愛に満ちた呼び名といえた。


 そしてそういう自分の内心の問題を、出会ったばかりの名も知らぬ人に求めるのは間違っているとしか言いようがない。


「あら、ごめんなさいね。それじゃあ、初めまして、クロード」


 そう笑った女はアネット・ベルチェと名乗った。切れ長の目から覗く翡翠の瞳が美しい。口紅を載せていない、健康的な唇が魅力的だ。そのとき、瞳の奥に微かな喜びの色が見えた。なぜ、と考える前に手が差し出される。


 それを握ると、しっかりと銃を握りなれて硬くなった、しかし女性らしい手のひらだった。彼女の指先が、銃をいじる間に自然と生まれるがさついた指の腹を撫で上げて離れる。


「俺はウィリアム、ウィリアム・クロスロードだ。クロードの相方、もとい一番弟子」

「初めまして、ウィリアム。頼りにしているわ、海兵隊員さん」


 二人とも資料は読ませてもらっているわ、とアネット。ウィリアムは彼女と握手を交わし、こいつの次に頼りにしてくれて構わないぜとクロードを示して続ける。


「ところで、もうクルトの紹介は済んだのかしら」

「そういえばまだだ」


 アネットの問いにウィリアムがクルトのほうを見遣る。クルトはといえば、ここまで持ってきていたらしいサンドイッチをかじっているところだった。その視線に気付きあわてて飲み込もうとする彼を、指先一つでアネットが制す。


「彼はクルト・マーフィー。私のチームメイトよ。とはいっても、今はまだ二人。貴方たちを含めてやっと四人だけれど」


 アネットの説明にクルトが口を動かしながらコクコクと頷く。ゆっくりで良いわよ、と笑うアネット。


「二人だけ? どうしてまた」

「色々あるのよ。その辺の説明は車でするわ。いつまでもここにいたら、あなたたちが倒れそうで」


 いまだ貸し出された日陰の中にいるとはいえ、気温は灼熱そのもの。そういうアネットも額に薄く汗をかいている。翻ってクロードとウィリアムはといえば、シャツはぐっしょりと濡れそぼっているが、すでに頭部からの発汗はない。水分の在庫が怪しいようだった。


 ようやくサンドイッチを飲み下したらしいクルトが、それじゃ行きましょうと何食わぬ顔で言うと、運転席へと収まった。


 彼らの活動拠点は、キルクーク市外から北に抜けた先にあるK1空軍基地とのことだった。キルクーク空港に比べては小ぶりだが、いち民間軍事企業が使うには大きすぎる。そう思ったのは自分だけではないらしく、ウィリアムがそれを指摘すると、クルトはこう答えた。


「何社も入ってるんですよ。物資輸送のハブですからね、いまのキルクークは。保安要員が多いに越したことはないです」

「なるほどね。昔はバグダッドのグリーンゾーンにこもっていたものだけど」

「今もいますよ。単にあそこから出ると、仕事の範囲が限定的になるので。いまどきだと、アルビルで警護業務とかもありますし」


 アルビルは北部地方の大都市で、イラク北部に広がるクルド人自治区の拠点である。そもそもイラク北部には、クルディスタンと呼ばれるクルド人が自治権を主張する一帯が広がっており、彼らはいまイラク北部地域において大きな脅威として成長した過激派と、正面切って戦闘を展開している。


 本来であれば、キルクークもクルド人がその権利を主張するクルディスタンの一部であるが、現在は諸般の事情でイラク政府が管理を行っている。もともと、一度はクルド人が支配下におさめたのだが、国内少数派でありフセイン政権時代に迫害された反動か、アラブ人に対する強盗、暴行や殺人などが横行したためだ。


 とはいえ、キルクークをイラク政府の管理にゆだねてすべてが解決したわけではない。

 

 クルド人らの主張するクルディスタンの中にあるこの地域において、いまだにクルド人の支配権は強いままだ。その上、一度は撤兵した米軍とイラク政府軍だけでは過激派武装勢力への対処が厳しい現実がある。それはアメリカの支援を受けるクルド人にとっても同じではあるが、お互いがお互いに牽制している側面があった。更に面倒なことに、キルクークはイラク政府が認める自治区には入っておらず、ここには大きな石油施設が存在している。


 だからこそクルド人はここにこだわるし、それはイラク政府も同じだ。むろんのこと、過激派武装勢力にとっても同じである。結局のところ、このキルクークはその石油資源の存在に振り回されているといっても過言ではなかった。そこに住むアラブ人もまた同じく。


 しかし、この地面の下に幾億の金を生み出す石油が埋まっているとしても、それがクロードやウィリアムにとり何か意味を持つわけではなかった。彼らは石油の採掘業者ではないし、それを世界へ売りまわって金を稼ぐディーラーでもないし、石油価格の高騰に一喜一憂するコンテナ船会社の社員でもない。肩書きはあくまで民間の保安要員だ。


 そして保安要員にとって大事なのは、どこに武器を持った警備員が必要な危険地帯があるかということだけだ。そしてそういう場所は世界中にある。この荒れた大地に居る限り、悩ましいガソリンの価格は彼らの財布にすら関係がない。


 遠く、キルクークから北西に伸びる道路の先で立ち上る黒い線。石油施設から発生したのだろう煙の筋は、青い空に吸い込まれて滲んだインクのように広がってゆく。

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