第1章 神なき大地で

第8話 クロードという男 1

 二年後


 どのような仕事にも、トラブルというのは付きまとう。


 人生とはそもそも進路をふさぐトラブルの山を掻き分け、適切に処理し、どのようにして他人よりも効率よくよりよいポジションにつくかを考えて実行するゲームだと、ジョナサンは認識していた。どう処理するか、という実際的な思考以外は必要ない。


 それはたとえ、最初は小さな帳簿のミスから始まった“トラブル”に、殺された社員、あるいは契約社員の数字が日常的な頻度で混ざるようになったとしても変わらなかった。


 普通であればありえないこと。しかし業界外の人間から、民間軍事企業、あるいは傭兵企業と呼ばれる集団の中においては、むしろ当たり前のことだろう。戦場や、いわゆる危険地域に人員を送り、顧客に安全を売る、あるいは軍事技術の供与や、物資配送の武装警護を主として行う業態において、絶対に死者を生じさせないことのほうが不可能であり、ありえないことだからだ。


 かつては傭兵と呼ばれた存在、それを束ねて法人化し、企業として経営するようになったところで、業務内容の根は変わりはしない。殺し合いを食い扶持にし、その端をかじって金を得るのが彼らの仕事だった。


 米資本の民間軍事会社、グレンGマクダネルM。現在米国政府と契約する数多の企業の中で、頭一つ抜き出た資金力と規模を持つこの会社であれば、末端の契約社員の数も膨大なものとなり、当然、母数が増えれば増える分だけ死人の数も増えていく。


 そういった訳で、月に一度の幹部報告会のたびに死傷者数の報告をするのは彼にとって慣れ親しんだものであり、報告を受ける幹部連中からしても、日々の業務に埋もれていく遠い地での他人の悲惨な末路に、いちいち憐憫をかけ、あるいは一喜一憂するだけの価値はなかった。


 そもそも、死者数として報告されるのは、ほとんどが現地民や途上国から安く雇った使い捨ての人員ばかりだというのもある。


 すくなくとも、今日の報告が行われるまでは、実際にそういうものだった。


「それで、その情報は確かなものなんだろうね」


 ほんのかすかではあるが、険しさを増した声音で幹部の一人が問うた。イラク北部で、一月で九人の死者、いずれも高度な訓練を受けた先進国の生まれの人員ばかり。加えて、同業他社の被害も加算すれば一ヶ月で一七人の犠牲ともなれば、事態の重大さはいちいち念押しするまでもない。


「間違いありません。確認を取りましたが、一般的なIEDなどによる攻撃ではなく、遠距離からの狙撃による攻撃です。攻撃パターンの変化はこれまでもありましたが、保安職員を標的に絞ったものはイラクでは初めてです」


 ジョナサンは資料から目を上げ、背後のプロジェクターの表示を切り返る。狙撃によって保安職員を狙い撃ちにする攻撃が始まったのは一ヶ月前、それ以前に、そういった攻撃目標の変化をうかがわせる兆候はない。


 珍しいことだった。たいていの場合、大きな行動方針の変化が起こる直前には、大なり小なりそういった傾向を示す手がかりが現れることが多いからだ。軍隊経験者の多いこの会社の幹部連は、ひとしきりプロジェクターの映す資料を眺めた後、光を反射し部屋を薄く照らすスクリーンの隣、椅子にひっそりと腰掛ける女へと視線を転じた。


 若い女だった。入室からいままで一言も発さず、身じろぎもしない。薄明かりの中でもわかるほど白に近い銀髪、同じように色素の薄い肌。物言わぬ彫刻のように存在感を消している彼女は、視線に気付くと、はっきりとした線の細い目鼻立ちにわずかな笑みを添えた。


 男女問わず人目を惹く美しい笑みだったが、この場にいる人間は一人としてそれに見とれる様子はない。当然といえば当然で、この女の素性とあだ名を知っていれば、のんきに鼻の下を伸ばす余裕などあるわけがないからだ。


「それで、皆にこの件に関しての詳細な報告をしてもらえるかな」


 女と視線が合う。体質のせいで赤の混じった紫色の瞳がこちらを見据え、すっと視線が眇められる。形の良い唇が薄い笑みを浮かべたまま、こちらを探るような眼差しを向ける女から、ここにいる人間を束ねる男の声に導かれ、逃げるようにして顔を背けた。


「はい、その件に関しては彼女から。……ミズ・セシリア、お願いします」


 既に状況詳細を把握済みの社長に促され、ジョナサンは咳払いしてそれだけを口にすると、カーペットの敷かれた会議室の脇へと移動する。窓一つない、高層階の中央に設けられた幹部用の部屋。ここに入室できるのは、社の幹部か、政府機関……とくに軍、情報機関関係者に限られる。この銀髪の女は後者、情報機関の人間だった。


「どうしてみな、私を呼ぶとこう言うのかしら、“ちょっとしたトラブルが”って」


 女の半分独り言じみた声音には、からかうような甘い響きが含まれていた。か細いわけでもなく、しかし我の強さがにじむわけでもない、静かだが、それでいてよく通る声だ。


「それは君が、彼の調教師ハンドラーだからだろう、ミズ・セシリア」


 上座に腰掛け、度の入っていない眼鏡の向こうから色のない視線を向けた社長が言う。G&Mの創設者の一人、グレン亡き後のこの会社を、業界を代表する規模にまで広げた男、マクダネル。陸軍の特殊部隊に二十五年勤めた歴戦の老人は、自分の娘ほどの年頃の女に、違うかねと重ねた。


 横に下がったジョナサンを追い越すと、セシリアと呼ばれた女は男たちの視線を臆することなく受け止め、小さな笑みを絶やさぬまま言った。


「あら、調教師だなんて。彼は犬ではないわ。クロードは、そんなに可愛らしい人ではないもの」





 誰かに名前を呼ばれた気がして、クロードは閉じたままだったまぶたを薄らと開いた。それが幻聴であることはわかっている。耳に残っていたのは自分の名を呼ぶ女の声であり、共に戦った戦友たちの声でもある。もう遠くへと逝ってしまった良き人たちの記憶を、まどろみの中から浮き上がったばかりの意識で手繰り寄せる。


 壁に預けた背中を丸め、手にはめたグローブで額に薄っすらと滲んだ汗を拭うと、ほこりっぽい部屋の空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。意識が眠りに引き寄せられると、覚醒と同時に過去の出来事が緩んだ記憶の栓から溢れ出す。


 この二年間、クロードはそれを日に何度となく味わってきた。が、この世にある殆どの苦痛は乗り切れるものであるということを彼は心得ていた。それは、実家の問題によって母から引き剥がされた孤独な幼少期や、海兵隊に入隊してから経験したあらゆる苦難に裏打ちされたものである。


 だからこそ、うなされもせず、ただ瞼の裏に蘇る憂鬱な記憶と、それがもたらす痛みを飲み込んで目覚めを迎えることができる。崩れ去った瓦礫の下敷きになった女性や、暗室でなぶられて息絶えた女のことを思い出し、自分とともに戦い、血にまみれて死んでいった仲間たちとともにその安らかな眠りを祈ると、クロードはしびれたように感覚のない右腕を持ち上げ、自分の右肩と胸の間にある銃創に手を触れた。


 とっくに癒えた古傷だが、AKが放つライフル弾に穿たれたそこの神経は目覚めのたびに やかましく喚き立てる。まるで思い出せとでもいうかのように。


「痛むか」


 隣で静かに座り込んでいた相方が、潜めた、しかし明瞭な声で問いかけた。クロードは視線だけを横に向け、ブーニーハットを目深に被り、持ち込んだ保存食を噛み砕きながらこちらへ目を向けた相方に、まあねと曖昧に頷く。


「君だって痛むだろう」

「夜毎に」


 ウィリアム・クロスロードは頷くと、薄らと髭の生えた顎を手でなぞってから右足を投げ出す。がたんと、足を投げ出したにしては硬質な音がした。ウィリアムが右足の裾をめくると、金属フレームの義足が現れる。彼は数年前に右足を失っている。


 クロードがそうであったように、ウィリアムもまた海兵隊員だった。彼が足を失ったの は二〇〇九年のファルージャでのことだ。IEDに吹き飛ばされ、ハンヴィーに巻き込まれて右足を切断せざるを得なくなった。そしてクロードと同じく軍を辞した身でもある。


 一方クロードの胸の銃創はと言えば、特殊な経緯によるものだった。無論、戦闘によって生じたものであることには変わりないが、クロードが胸を撃ち抜かれたのは二年前、パキスタン領内にあり、アフガニスタン国境と接する連邦直轄部族地域FATAでの活動中のことだった。


 当然米軍部隊はパキスタンには公には派遣されておらず、彼がそこで胸を撃ち抜かれたのは、後ろ暗い作戦に関与していた最中のことである。ウリィアムとの違いは、クロードはいわゆるところの第一階層Tier1作戦要員オペレーターだったところにあった。ウィリアムが義足の調子をととのえる間に、クロードはやかましく喚き散らす古傷の神経を丁寧になだめる。


 貫かれたときの衝撃、意識を失うまでに見た、多くの懐かしく、もう二度と会うことがかなわない人々の幻。それらが記憶の底から滲み出すのを押さえつけ、自分の意識を目の前の仕事に集中する。


 クロードとウィリアムが身を潜めているのは、とっくに打ち捨てられた日干し煉瓦の廃屋だった。小さな部屋で、長らく誰も使わなかったせいで砂塵と埃が堆積し、わずかに残っていた家財も風化しかけている。部屋の唯一の明かりは、日干しレンガの壁をナイフでくり抜いて作った、直径三〇センチ に満たない穴から差し込む外界の光だった。


 色づきかけの光の向こうでは、アフガニスタンは北西部、隣国タジキスタンとの国境にほど近い州都クンドゥーズの町並みが、陽炎と砂塵の中でゆらゆらと揺らめいている。


 為すべきことまではまだ時間があるようだった。クロードは薄いスモークのかかったグラス越しに外を見つめながら、絵画のようだなと頭のどこかで考えた。昔、父に連れて行かれた絵画展で、こういう絵画を見たような気がした。日干しレンガの額縁の向こうでは、 人の営みの気配が感じられる。


 翻って、クロードたちの周りは静寂に包まれている。それも当然で、この廃屋を擁する 村は二〇〇一年から始まったアフガン紛争の何処かの段階で爆撃を受け、住人の大半が死んだか、あるいは出ていったかして打ち捨てられているからだ。それ以来、誰も寄り付いていないようだった。だからこそこうして、二人で息を潜めていられるわけだ。


 もうここにきてから半日以上たっているが、誰かに気づかれた気配はない。実際、ここに来る前に行わせた無人機による航空偵察の分析によれば、三週間の間この廃村を訪れた人間は一人もいないそうだ。だからこそ、クロードとウィリアムはこの村を潜伏拠点に選んで、必要な装備を持ち込んだ。


 後はただ、自分の身に備わった技能を発揮する時を待つだけだ。 クロードは夢の余韻が抜けきった意識を確かめると満足し、ウィリアムとともに息を潜め、静かに外の景色に目を凝らした。

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