天使のおやつ

観月

天使のおやつ 

 往来の激しいメインストリートから一本脇道に入ると、そこは灰色のビルに囲まれた狭い路地だった。

 路地の向こうにはフェンスがあって、どうやら行き止まりになっているらしい。

 通り抜ける人だって、いやしない。停めてあるのか放置されているのかわからないような自転車が数台あるだけだ。


 本当に、こんなところにあるんだろうか?


 私は手にしたノートの切れ端に目を落とす。

 薄い罫線の印刷された紙切れには、地図が描かれている。

 紙切れの隅っこには『行けばわかるはず。good luck!』の文字。


「グッドラックって、こんなところ、なにもないじゃない……」


 思わず弱音が溢れたその時、路地の奥まったところに木製の扉があるのに、気がついた。


「え? うそ」


 さっきまで、こんな扉あっただろうか。

 なんだか夢でも見てるみたいな気分で近づく。

 狐につままれたような、っていうのは、こういう気分なのかも知れない。

 レトロ……っていうのだろうか? 重厚な木の扉。

 真上には小さな看板がぶら下がっている。

 看板は、黒っぽい金属がくるくると複雑な模様を描きながら、翼のような模様を形作っていた。

 店の名前もないし、何を売っているのかもわからない。扉にはのぞき窓もなくて、店内の様子を見ることもできない。

 灰色のコンクリに忽然と現れた扉と看板。それだけ。

 本当に商売をする気があるのかしら? と、疑いたくなるような外観だ。

 でもきっとここで間違いがないのだと、私には妙な確信があった。

 深呼吸を数度繰り返して、木製の扉の黒い取っ手に手を伸ばす。

 それでも開ける決心がつかなくて、一度手を引っ込めると、もう一度深呼吸をした。


 このまま帰ってしまおうか……。


 私は進むことも後戻りすることもできなくて、そこに立ち尽くす。

 ようやくのろのろと手を伸ばしたときだった。


「こんにちは。なにかご用ですか?」


 突然かけられた声に飛び上がり、後ろを振り返ると、そこには黒いエプロンを付けた男が立っていた。

 真後ろに立たれるまで気が付かなかったなんて。と、自分が恥ずかしくなる。

 エプロンをしているし、店員だと思うけれど、高校生の私とそう変わらなそうな、少年っぽさを残した優しげな笑顔がこちらを見ていた。

 あんみつに入っている白玉みたいな、つるつるの肌に、私は思わずぽかんと見入ってしまう。

 その人は、ちらっと私の手にした紙片に視線を向けると、笑みを深くした。


「お客様みたいですね。さあ、どうぞお入りください」


 促されて入った先は、私の家のどの部屋よりも小さいのじゃないかと思うような空間だった。

 カウンターが一つあるだけ。それ以外には、テーブルもソファもない。そのカウンターだって、座れるのはせいぜい三人程度じゃないだろうか。


「どうぞ」


 立ったままの私に、カウンター前のスツールを指で指し示すと、自分自身はカウンターの中へと入っていった。

 染めているのだろうか。店員さんのゴールドに近いブラウンの髪がサラサラと揺れて、つるんとした白い肌にすごく似合っている。

 見た目は私とそう変わらなそうなのに、この流れるような動作は、大人の男の人みたいだ。


「いらっしゃいませ」


 店員さんは、カウンターを挟んで私の正面に立ち、姿勢を正して一礼をした。


「天使の質屋へようこそ。ご利用ははじめてでいらっしゃいますか?」


 予期していた言葉だったというのに、私は驚いていた。


 ――天使の質屋っていうんだけどね。穂香ほのかも、一度行ってみたらいいわ。その質屋ってかわっててね、悲しみとか怒りとか、心配だとか、そういう気持ちを預かってくれるの。ああ、悔しさなんかも預かってくれるわよ。爆発しちゃいそうなほど、どうしようもないときってさ、あるでしょう?


 そう言って友人は、手帳の隅っこに地図を書き、切れ端をちぎって私に渡してくれた。


 ――そんなに深く考えないで。引きこもってばかりじゃよけい気が滅入るわよ。散歩にでも出かけると思って行ってみて?


 半信半疑だった。

 でも彼女が私を騙すとも思えなかった。

 いったい彼女はどんなつもりで私にこの紙切れを渡したのか?

 それが知りたくて、ここまで来たのかも知れない。


「はい、知り合いからこの質屋さんのことを聞いたんです。気持ちを預かってくれる質屋さんがあるって……」

「なるほど、そうでしたか。ではどのような気持ちをお預けになりたいのでしょう? 実は、お引き受けできない気持ちもあるんですが……。ああ、その場合は同業者をご紹介することもできますので、とりあえずお話をお聞きしても?」


 私はうつむき、そっと小さな声で「悲しみ」と告げた。


 小さな間があく。

 おかしいだろうか?

 私のような小娘に、預かってもらいたいような大きな悲しみがあるなんて。


「ああ、それはよかった」


 と、どこかホッとしたというような明るい声が聞こえて、私は顔を上げた。


「それならお引き受けすることが出来ますよ。悲しみは、天使の受け持ちですからね。そうですね、憎しみや妬みですと、悪魔の質屋になるんです」


 そう言いながら、店員さんは、後ろ棚から透明な丸い玉を取り出す。

 なんて言ったらいいのだろう。昔おみやげで貰ったスノードーム。あれの大きいやつみたいな形。

 棚には同じものがいくつも並んでいて、ほとんどが透明なものなのだけれど、色のついているものもあった。


「さあ、この珠に手を添えて、あなたの悲しみについて、私に話して下さい」


 私は言われたとおり、玉の上に手を置き、大きく深呼吸をした。

 ひんやりとした透明な玉が、温まっていく。

 そして私は少しずつ、自分の悲しみを語りだした。


 するとどうだろう。話しはじめた時は悲しみでいっぱいだった心のなかが、次第にぼんやりとしていくのだ。

 それと比例するみたいに、透明だった珠は、ほの蒼い靄で満たされていった。


 ◇


 気持ちを預かってくれる期限は三ヶ月。

 返してほしい場合は、三ヶ月以内に利子を付けて借りたお金を質屋に持っていけばいい。

 店員さんは、そう説明してくれた。

 そんな説明はいらないと思った。

 あんな辛い悲しみは、もういらないから。

 苦しくて苦しくて、あんな悲しみなど、もう二度と味わいたくないと思っていた。


 ◇


 なのに今、私はまたあの質屋のカウンターの前に座っていた。

 悲しみを質に入れてからというもの、亡くしてしまった彼を思い出しても、突き刺されるような胸の痛みはなくなった。涙も流れない。嗚咽ももれない。

 私と彼が付き合っているということを知っていたのは、私の親友だけだった。

 だから彼が死んだのだと、亡くなったのだと知った時、私に許されたのは、クラスメイトとしての悲しみだけだった。

 きっと私、誰よりも彼を亡くしたことを悲しんでいるのに、辛くてたまらないのに。

 はみ出してしまった悲しみに溺れてしまいそうで、大声を出して、何もかも壊してしまいたいような衝動にかられて……。

 泣き崩れる彼の母親さえ、羨んで……。

 それなのに。

 私はまた、このカウンターに座っているのだ。


 天使の質屋さんに悲しみを預けた後に、私の中に湧き上がるのは、懐かしさや愛おしさだけだった。

 それを望んだはずなのに、しばらくすると私は、自分の中の欠けてしまったものが、とても大切なものだったのではないかという気がしてきて、そうするともう、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。


「悲しみを、受け取りにいらしたのですね」


 店には、悲しみを預けた時と同じ店員さんがいた。

 わたしは、ゆっくり大きくうなずいて、悲しみを預けた日に受け取り、封を開けてさえない茶色い封筒と、利子分のお金をトレーの上においた。

 店員さんは、後ろの棚からうっすらと蒼い靄の詰まった玉を選び、カウンターの上に置く。


「さあ、ここに手をおいて、そして目をつぶって、帰っておいでと心のなかで語りけかて下さい。そうすれば悲しみは戻ってきますよ」


 そう言われ、私は自分自身の悲しみの詰まった珠に、そっと手を載せた。


 ――帰ってきて!


 祈るように語りかけると、ぞくぞくとするような感覚が手のひらから腕を通り、体の隅々にまで行き渡っていく。胸の奥に「つん」とした痛みを覚えて、ゆっくりと瞼を開いた。

 涙が流れ落ちていく。


「戻ってきたんですね。わたしの悲しみ……」


 ぎゅっと自分自身の体を抱きしめた。

 ああ、私、彼のことが大好きだった!

 ひとしきり泣いて、ようやく私が落ち着いた頃、密やかな声がした。


「利子はお返しします」


 目の前のトレーには利子分のお金が載せられていた。


「なぜ?」


「実は少しだけ味見をしてしまったのです。純粋で深い、とても美味しい悲しみでしたよ」


 そう言って、店員は笑った。


 ――その後、私は何度かあの質屋を探したのだけれど、もう二度とたどり着くことはできなかった。



 了

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