後日談

 それを見たとき、夏生なつきは思わず目を奪われた。雨上がりだろうか、晴れ渡る空の下、花弁に雫を乗せている星型の形をした白い花の写真だ。なんてことのない、いたってどこにでもあるように思えるもの。

 けれどどうしてかその写真に心惹かれてやまなくて。

 その日、夏生は写真家になることを決めた。






 ――ロンドン中心部のとあるギャラリーにて。

 工藤くどう夏生は自分の撮った写真の前に立ち、それを眺めていた。細長い葉の上に乗った小さな露と、朝焼けに染まる空。露にピントを合わせてその中に映る少しだけ歪んだ空がメインになっており、我ながらよく撮れた写真だと思う。事実見てくれた人からもそれなりに好評で、「Excellent!」と褒めてくれた人もいた。


 高い出店料を払ったかいがあった、と思っていれば「Hi!」とまたもや声をかけられ、夏生は振り返る。

 そこにはどこか見覚えのある東洋人らしき女性がいた。しかしどこで会ったのかさっぱり思い出せず、つい首を傾げる。相手が少しニヤニヤとした笑顔を浮かべていることからも、おそらく会ったことあるのだろうとは思うが……なかなかその状況を思い出すことができなかった。


 とりあえず「Hi」と夏生も返せば、女性はきょとん、と目を瞬かせたあと首を捻った。「もしかして覚えていませんか?」

 その言葉は間違いなく日本語で、ということは相手は夏生が日本人だということをわかっているはずだ。その流暢な発音からも、おそらく彼女もまた日本人だろうということもわかる。しかし、ではどうして彼女は日本語ではなくわざわざ英語で話しかけてきたのだろう?


 そこになにかヒントがあるかもしれない、と思い、夏生は記憶を手繰り寄せる。日本人なのに英語で挨拶、ということは、彼女とは外国で会った可能性が高いだろう。だがいったいいつ、どこで……

 とそこまで考えたところで、脳裡でひとつの光景が明滅した。大人っぽい雰囲気を漂わせるパブで、今目の前にいる彼女が躊躇いながらも、勇気を振り絞って白ワインを飲んでいる光景。ちょうど三年ほど前のこと。


 夏生は口角を上げると「今思い出した」と目の前の彼女に言った。「久しぶり。元気にしてた?」

 すると名前も知らない彼女は「はい、元気でした」と言って笑う。


「それにしてもどうしてここに来たの? あたしあなたになにも言ってなかったよね? 自分の名前も」

「写真展に行ったじゃないですか。そこの出展者の名前をひとつひとつ確認して、写真を調べて見つけました」


 それからSNSをフォローしてたんで、そこから今回の展覧会のことも知りました。イギリスですし、ちょうどいいかと思って。そうはにかみながら言う彼女に、ああ、そういえばそうだった、と夏生は思い出す。小さな写真展とはいえホームページもあり参加者の名前もそこで公開されていたため、調べることができたのだろう。それにしても十人以上の参加者の中から見つけるだなんて執念がすごい。

 そんなことを思っていれば、「ちなみに今夜大丈夫ですか?」と尋ねられる。


「いろいろと話したいことがあるんです」

「んー、わかった。ここ六時に閉まるから、それくらいの時間になったら入り口のそばで待ってて」

「はい」


 すると女性は嬉しそうに笑って頷いた。




 約束の六時になって夏生が建物の外に出ると、さぁー、と小雨が降りしきっていた。八月のロンドンは二日に一回の割合で雨が降るが降水量はそれほど多くないのが特徴で、今回の雨も霧雨と言ってもよいのでは、と思うくらい弱々しいものだった。

 夏生はカバンに入れたカメラが濡れてはたまらないと折りたたみ傘を取り出し、きょろきょろとあたりを見回す。そしてすぐに目当ての人物を見つけたので声をかけようとして、そういえば彼女の名前を知らないことに気がついた。


「ねぇ」


 薄い雨のベールの向こうへ向かって呼びかければ、同じように折りたたみ傘をさした女性が振り返った。彼女は夏生に気がつくとへにゃりと表情を緩め、「なんですか?」と尋ねてくる。


「そういえば自己紹介してなかったなって思って」


 夏生が苦笑しながら言えば、女性も「確かにそうですね」と言ってクスクスと笑った。そんな彼女を眺めながら、夏生は自らの胸に手を当ててニッ、と口角を上げると自己紹介をする。


「あたしは工藤夏生。知っての通り写真家。あなたは?」

「私は水瀬みなせ小春です。先日ようやっと内定をもらえたばかりの大学四年生です」


 まだ大学生だったのか、と少しだけ驚いたが、そもそも三年前に未成年だったのだから当然のことだった。ただ夏生が思い至らなかっただけで。

 だけど。

 夏生はすっ、と目を細める。目の前の彼女は年のわりには芯のある、しっかりとした人物のように思えた。以前会ったときはかなり頼りない人物に見えたから、おそらくこの三年の間にいろいろなことがあったのだろう。


 そんなことを思っていれば、女性――小春はまたもや笑った。「とりあえず行きましょうか。どこかでご飯でも食べながら話しましょう」

 夏生は「そうだね」と頷いて口端を上げた。


「近くにいいパブがあるの。行こう」


 色の濃くなった石畳を、ハイヒールでカツン、と鳴らす。小さな水たまりができていたため、ついでに水も跳ねた。

 視界の隅で小春が笑う。


「工藤さんってパブとかよく知っているんですか? 以前もそんな店に連れてってくれましたけど」

「うん、そうだね。ここ数年はイギリスメインで活動しているし、そうなると安くて美味しい店について自然と詳しくなるものよ。健全な精神は美味しい食事からってね」

「確かに食事は大事ですね」


 二人でなにげない会話をしながらゆっくりと雨の中を進む。途中メインストリートを外れて裏道を行き、何回か曲がったりすればしばらくして目的地のパブにたどり着いた。木造で三年前に小春と一緒に行ったパブよりも貧相な見た目をしているが、イギリスにしては珍しく濃い豪快な味付けがこれまた美味しいのだ。少し前にも食べた味を思い出して頬を緩めつつ、「ここだよ」と言って夏生は木の扉を開ける。


 中は外観からは考えられないほどオシャレだった。薄暗い店内にはいっぱいに赤い絨毯が敷き詰められており、奥のほうにはカウンターがあってそこにバーテンダーがいた。彼のすぐ後ろにはずらりと様々な種類のワインボトルが並んでいて壮観な眺めだ。

 夏生の後ろから入ってきた小春は「わぁ……」と声を発してきょろきょろと店内を見回している。その瞳はキラキラと輝いていて、頬も紅潮していて、興奮しているのは明らかだった。


 そんな子供らしい様子に苦笑しながら、夏生は彼女をカウンターに導いた。「なにがいい?」と尋ねれば少しの沈黙のあと「ローストビーフと白ワインで」と返される。それは三年前、同じように彼女を別のパブへ連れてきた際、夏生がなにもわからないであろう彼女の代わりに注文したものだった。

 そのことにくすぐったさを感じながらも店主にそれらを二人分ずつ頼めば、しばらくしてプレートに乗せられて出てきた。ワインのほうを持ってもらい、近くにあったテーブルへ向かう。


「そういえばイギリスってこういう形式の店ばかりですよね」

「あー、うん、そうだね。だいたいこういう感じに自分で注文しに行く感じ。手間だけどまぁ仕方ないかなって」


 前来たときはすっごい混雑していたのに一人で来たせいで席を取れなかったから、立って食べるハメになってそのときは思わず恨んだけど。そう言って肩を竦めれば、隣にいた小春はクスクスと笑った。「大変でしたね」という声は鈴の音のように可憐で可愛らしい。


 夏生は思わず笑みを浮かべながら近くのテーブルにプレートを置いた。カバンを下ろしながら席に腰掛けると小春からワイングラスも一つ受け取る。彼女が対面に座ったのを確認して「では、かんぱーい!」と声を発した。小春はクスクスと笑いながらワイングラスを近づけてきて、夏生もグラスを傾ければカチン、と小さな音が鳴る。


 そのまま二人同時にワインを口に含んだ。甘やかでとろりとした液体が喉を滑り落ちる。

 一口飲むとなるべく音を立てないよう丁寧にグラスをテーブルの上に置いた。ふと視界の隅にワイングラスが映ったのでそちらを見れば小春もまったく同じようにしていて、思わず二人で顔を見合わせて笑う。

 ひとしきりそうしていれば、やがて先に落ち着きを取り戻した小春が「工藤さん」と呼びかけてきた。


「なぁに?」

「私、ずっとあなたに会いたかったんです」


 その表情はどこか嬉しそうで、彼女は懐かしそうに目を細めている。その双眸が映しているのはおそらく三年前のことだろう。


「私、工藤さんに言われてからあまり焦らないようにして、もしかしたら遠回りかと思われるようなことでもいっぱい挑戦してきました。そのおかげでやりたいこと、見つけられたんです」

「……そっか。それなら良かったよ」


 夏生はそっとワイングラスを手元に寄せた。ゆらりと波打つ水面に歪んだ顔が映り込む。

 ああ、これではしんみりした雰囲気になってしまう、と思い、夏生は意識して口角を上げた。


「あたしが言ったことが正しいとは限らなかったからね。水瀬ちゃんがちゃんと見つけられたようでよかったよ」

「ええ、ですから本当にありがとうございます。工藤さんに会わなかったら、私はたぶんずっと焦っていて、結局やりたいことを見つけられなかったかもしれません」


 そう言う小春の表情は晴れやかで、一点の曇りもなくて。


「私は、工藤さんに会えたことで人生が変わりました。本当にありがとうございます」


 ずっとお礼をしたかったんです。そう言って笑う小春を見て、ふと何年も昔のことを思い出した。一枚の写真に心を奪われて、それを撮った女性写真家に無理言って弟子入りをし、高校卒業と同時に親の反対を振り切って家を飛び出したことを。

 師匠は夏生に様々なことを教えてくれた。美しい写真の撮り方然り、写真家としての生き方然り。彼女がいなければ夏生の人生はもっと色褪せた、退屈なものとなっていたことだろう。


 小春は、そんな師のように夏生が人生を変えた存在だと言う。

 そのことがなんだか気恥ずかしくて、夏生はぐいっと白ワインを嚥下した。しかし甘やかな液体は頬の火照りを冷ましてくれることはなく、むしろ体の内側で燃え上がるように熱くなり。

 仕方なく「……あ、ありがと」と少し視線を彷徨わせながらとりあえずそう返事をすれば、視界の隅に映った小春はわずかに目をぱちくりさせたあと、ふわりとまるで花がほころぶかのように微笑んだ。


 クスクスと笑ってからかうような雰囲気で「いえいえ」と言う彼女に、年上のはずなのにどことなく子供扱いされているように感じてむっ、と顔を顰める。「なによ?」と問うと「いいえ、なんでもありませんが?」とニヤニヤとした表情で返された。

 絶対にからかわれている、と思ってさらに頬を膨らませていれば、そういえば、と先ほどから気になっていたことを思い出す。


「そういえばあなたは結局なにになりたいの?」


 すると突然の問いかけに驚いたのか小春は目を見開き――ゆるりと笑みを浮かべた。「実はですね、私――」と続けて出された単語に、小春はへぇ、と感心のため息をつく。


「似合うじゃん」


 その言葉に、小春は照れくさそうに笑うのだった。

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白ワインを飲んで 白藤結 @Shirahuji_Yui

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