ぐるぐるベジタブル

恵瑠

第1話

 西側の窓からは夕焼けの色が漏れていた。日が長くなってきたので、時間の感覚が分かりにくくなっているが、もう結構な時間のはずだった。僕は赤く染まった窓を見て、そろそろご主人さまが帰ってくるだろうと待ちわびていた。案の定、それからすぐにドアノブに鍵を差し込む音がして、玄関の扉が開いた。ご主人さまが帰ってきたのだ。

「あっつー」

 最近のご主人さまは、玄関扉を開くが早いかこの言葉を放つ。日が長くなってきたのはいいけれど、夏が近づいてきているために、暑さが増しているからだ。

 ご主人さまは部屋に入ってくると、首に巻いていた薄いブルーのストールをポイッとソファに投げ、虫が入らないようにガタゴトと網戸を引っ張りながら、南側の窓を開けた。南側の窓から僕までは距離があるけれど、少しばかりの風を感じることが出来、僕もホッと息をついた。閉めきられていた室内はまだ熱を孕んでいる。僕の斜め後ろにある窓も開けてくれれば、今よりもっと気持ちよく風が通り抜けるのに。僕は期待を込めてご主人さまの動きを見守った。

 ご主人さまはテーブルの上に荷物を置くと、ピアスと時計を外し、僕の方へ歩いて来る様子を見せた。

 よしよし。窓を開けてくれるんだな。そう思った瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

 ピーンポーーーーーーーン!

 最後の音だけが伸びるこの音が聞こえると、僕は自然にドギマギし始めた。条件反射ってヤツだ。

 やっぱり来たか! あぁ、神様! どうか今日こそは!

「はぁーーーーーーい」

 僕の方へ歩きかけていたご主人さまが方向転換をし、やけに「あ」が長い返事をして玄関の方へ向かった。ご主人さまにも、誰が来たのか大体の見当はついているはずだった。僕の位置から玄関は見えないけれど、僕だって、誰が来たのか、その人がどういう用事で来たのか分かるくらいなのだから。

「葉月(はづき)ちゃん、お仕事お疲れさまー。こんなのばっかりで悪いんだけど、うちも食べきれなくってぇ」

 ご主人さまより年上の女性の声。

 間違いない。あの人だ。僕は声を聞いて、相手が誰なのかを確信した。名前は知らないけれど、これまでのご主人さまとこの声の主とのやり取りから察するに、この女性はご主人さまとは「隣同士」という間柄らしい。3年前にここへ来た僕よりもご主人さまのことを知っているらしく、ご主人さまとは親しいようだ。

「わぁ、おばちゃん、いいのぉ? いつもごめんねぇ。ありがとー!」

 ご主人さまがわざとらしくも弾んだ声を出すのが聞こえ、僕はがっくりとうなだれてしまった。 あぁ、今日もダメだったか……。

 ご主人さまの声を聞く限り、今日もまたご主人さまは『受け取って』しまわれたらしい。僕にだって限界があるというのに。

 それからしばらくの間、お隣の女性とご主人さまとの立ち話が続いた。天気のことだとか、近くをうろついている野良猫のことだとか、息子さんに孫が生まれたことだとか。まぁ、一方的に女性が話して、ご主人さまは相槌を打っているだけなんだけど。そして西側の窓に薄らと影が落ち始めたことに気づいた女性が、毎回そうであるように「あら、いけない!」と話しを切り上げ、「葉月ちゃん、戸締りしっかりしなきゃだめよ?」と言って立ち去った。

 扉が閉まるが早いか、ご主人さまは「はあああ」と大きくため息を吐き、ガサガサと音をさせながらこちらへ戻ってきた。この派手な音を聞く限り、今日もまた大量のようだ。

「あーもう! なんで私ってば断れないかなぁ」

 ご主人さまは手に持ったビニール袋をテーブルに乗せた。そのビニール袋から真っ赤に熟したトマトが1つ転がり出てきたのが見え、僕は密かにゴクリと唾を飲み込んだ。

「キュウリにトマト……昨日も太田さんからもらったばっかなのに。ありがたいけど、一人じゃなぁ」

 太田さんというのもまた、ご主人さまとは「隣同士」という関係だ。さきほどの女性と太田さんからは、いつも季節の野菜が届けられることを僕は知っている。

 季節に採れる野菜を『旬』というそうだが、『旬』の野菜は、その季節、家庭菜園を作っている家庭では同じものが収穫される。そして、食べきれない『旬』の野菜は、家庭菜園がない家々におすそわけされるという習慣があるらしいのだ。つまり、家庭菜園のない家には、『旬』の野菜があちこちから届けられることになる。

 僕のご主人さまのように、せっかくいただいても自分の家だけで食べきれない場合などは、更にまた誰かにおすそ分けすることになるわけだが、『旬』のお野菜というのは時期的な問題もあって大量に収穫されるため、どの家にも誰かが先に届けていることが多い。その結果、食べきれない『旬』の野菜の貰い手を探して、『旬』の野菜とご近所さんたちはあちこちの家をぐるぐると回ることになるらしかった。

 もちろん、ご近所さんたちは、おいしい旬の野菜をおすそ分けすることで、ご主人さまやいろんな人を喜ばせたいという気持ちがあってのことだと僕も理解はしているし、こうやっておすそ分けしてもらえるということは、それだけご主人さまがご近所さんたちと良好な関係が築けているということだ。

 ご主人さまはテーブルに転がったトマトを見て途方に暮れている様子だったけれど、思い出したようにスマホを取り出した。誰かに電話をかけるらしい。部屋をぐるぐる歩きながら、ご主人さまが電話の向こうの相手を待っている。相手はそう待つことなく出てくれたようで、ご主人さまは一瞬嬉しそうな声を出したものの、すぐにその声には元気がなくなった。

「あ、ナオちゃん? あたし! え? 丁度いいところに電話してきた? 何? えー、ナオちゃんとこも? マリナからのおすそわけ? ううん。いらない。私もナオちゃんにもらってもらおうと思ってかけたんだもん。あー残念! じゃあ、またね!」

 呆気なく切ったスマホを見つめているご主人さまの様子から察するに、ご主人さまの計画は遂行出来なかったようだ。しかもご主人さまの友だちであるマリナさんの所にも、既に『旬』のお野菜は届けられているらしい。

 ぐるぐる現象勃発! これは万事休すだ。

 ハラハラする僕をよそに、ご主人さまはまたすぐにスマホをタップし始めた。

「アズサにおすそ分けしよっと」

 おお! それはいい! ご主人さまの友だちのアズサさんがバツグンに料理が上手いことを思い出し、僕はいいぞ! と心の中でご主人さまを応援していた。けれど……。

「あーでも、アズサんち、遠いんだよねぇ」

 ご主人さまは手に持っていたスマホの電源を落とすとテーブルへ置き、キュウリとトマトが入ったビニール袋を持って僕のところへやって来た。嫌な予感。

「しょうがない。とりあえず、入れておきますか」

 そう言って、もう既に限界に近い僕の一番下の引出しである野菜室に、ビニール袋ごと詰め込み始めるご主人さま。ご主人さまは「入れておけば何とかなる」と思っているタイプだ。

 でもご主人さま? 今日はもうムリですって。ほら、もういっぱいじゃないですか?

 僕は無言で野菜室の引出をどうにか閉めようと四苦八苦する。けれど、ご主人さまは僕に構うことなく、「ビールは今日飲んじゃうとしてー」と、野菜室に入れてあったビールを3缶取り出し、かろうじて出来たスペースにビニール袋を入れ込んだ。

 何故、野菜室にビールが入っているのか? 実は僕の身体の中には、既にかなりの量のモロモロが詰め込まれており、野菜室くらいしかビールを入れる場所がなかったのだ。こういう状況からも分かるように、僕のご主人さまはかなり雑な性格をしている。良く言えば、細かいことを気にしないとも言うが。

 だけど、野菜はデリケートですよ? 潰れますし、食べないと傷みます!

 僕の訴えなんて全く聞こえていないご主人さまは、僕がアップアップしていることに気づいているくせに、力で野菜室の引出を押し込み、満足そうに微笑んだ。

「よし! 入った!」

 入ればいいというものではないのですよ? 僕、おなかいっぱいなんですけど? 恨めし気に見てみるも、ご主人さまは僕の前からビールを持ってリビングへと移動し、プルタブを勢いよく開けると、おいしそうにビールをごくごくと飲んだ。

「ぷっはー。暑いときのビール、最高!」

 ビールを飲むのに、腰に手を当てる必要あるんですかね? 立ったままビールを飲んでいるご主人さまに呆れていると、不意に僕の方へとご主人さまが戻ってきた。再び野菜室を開き、中を見てため息を吐くご主人さま。僕の一番下の引出には、ビニール袋が4つほど見えていた。

「一緒に食べてくれる人探さなきゃねぇ。おまけに孫……かぁ」

 普段元気いっぱいなご主人さまが、たまに見せる脆さ。僕はこういうとき、自分が冷蔵庫だということを呪いたくなる。僕が人間だったなら、ご主人さまを抱きしめてあげられるのに。そう思う僕の野菜室からキュウリを1本取り出すと、ご主人さまはそれを洗うことなくバリッとかじり、再びビールに口を付けた。

「うまっ! 新鮮! やっぱ旬ってだけあるー」

 落ち込んでいるように見えたご主人さまが、あっという間にご機嫌に早変わり。旬のお野菜には、それだけの力があるのだろう。

「トマトは週末にまとめてミートソースにするとしてぇ。キュウリはどうするかなぁ……?」

 バリボリとキュウリをかじりながら、ご主人さまが呟く。そしてふとご主人さまは壁にかけられたカレンダーに目を留めた。

「来週、出張あったなぁ。いつももらってばっかじゃ申し訳ないし、お土産でも買ってきますかねぇ」

 そう言いつつ、早くも2本目のビールを開けるご主人さま。いつものことながら、ペースが早い。

「太田さんとこはお漬物が好きだし、河合さんとこは甘い物っと……忘れないようにメモメモ!」

 僕のご主人さまはアバウトだけど、お隣同志の付き合いを大事にしているのが分かる。丁寧に手帳に書き込んでいるご主人さまがたまらなく可愛いくて、僕は満腹感に苛まれながらも、思わず微笑んだ。いい子なんだよねぇ。ご主人さまって。

 だけど、ねぇ? ご主人さま? 太田さんにいただいたキュウリとトマト、出来れば今日中に食べてしまった方がいいと思うんだけど……? だってこの流れからして明日は、きっとお向かいの橋本さんから、やっぱり『旬』のお野菜であるトマトとキュウリが届くと思うんだよねぇ。

 僕はまた明日やってくるだろう『旬』のお野菜のことを思うと、身体の中以上に寒気がして、ぶるぶると震えてしまうのだった。

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ぐるぐるベジタブル 恵瑠 @eruneko0629

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