第5話 180°からの出発

  __________?

 天井のライトが光を放っているのが見え、一瞬目がくらんだ。

 俺は一体?

 身体を動かそうとして、俺は自分がソファに寄りかかっていたことに気づいた。ソファの背もたれ部分に頭をのせて眠っていたらしい。その俺の左の肩には沙衣の頭がのっていて、沙衣も眠ってしまっていた。微かに聞こえる寝息は規則正しく穏やかだ。俺のおなかの上には、メーティが目を閉じて丸まっている。

 今朝からのおかしな体験は夢だったのだろうか? そう思いながら、壁にかけられた時計を見ると、時計の針は二十時を指している。二十時に家にいること自体久しぶりのことだ。何がどうなってこんなことに?

 俺が思い出そうと必死に記憶を辿っていると、俺の胸に頬を摺り寄せた沙衣がゆっくりと目を開けた。

「沙衣、おはよう」

 俺が声をかけると、ビクッと身体を震わせた沙衣が勢いよく起き上がった。寝ていたことにも驚いたらしい。頬にかかっていた髪の毛を耳にかけながら、沙衣の目が泳ぐ。

 俺たちが起きたためにメーティも目を開け、メーティは俺のおなかの上から飛び降りると、ソファの肘掛に飛び移って顔を洗い始めた。その様子を見る限り、どこからどう見ても普通の猫だ。

「凌ちゃん、私……」

 言葉に詰まった沙衣の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。その涙を拭うこともせず、沙衣は俺を見つめ、ただ涙を流す。

 俺のせいだ……。

 その涙の意味を思うと、俺はいたたまれなくなって、ソファに正座をすると沙衣の方を向き、勢いよく頭を下げた。俺に出来ることと言えばこれくらいしかない。

「沙衣、悪かった! 俺、自分のことしか考えてなくて! 沙衣が毎日寂しい思いをしていることも、俺のことばかり考えてくれていることも、当然だと思い込んでた」

 俺が必死に頭を下げていると、俺の髪に沙衣が触れたのを感じた。その感触に思わず頭を上げると、目の前の沙衣が、俺と同じくソファに正座をし、やっぱり俺と同じように頭を下げる。

「私の方こそごめんなさい! 社会での厳しさは私だって知っているのに! 凌ちゃんに構ってほしくて、つまらないことでメールしたり、電話したり……。ほんとにゴメンナサイ!」

「いや、俺の方こそ……」

 俺たちはソファの上で正座をし、交互に頭を下げ合った。

「沙衣が家にいて、家事をやってくれるから、俺は仕事に行けるんだって分かったんだ」

「凌ちゃんが仕事で頑張ってくれるから、私は家にいられるんだって思ったの」

 何度目かのお辞儀のときに、お互いの声がかぶり、俺たちは同時に顔を上げた。

「沙衣、もしかして……?」

「え? 凌ちゃんも……?」

 俺も沙衣も、同時に、ソファの肘掛で顔を洗っているメーティを見た。が、当のメーティは、俺たちに構うことなく、ただひたすらに自分の手で顔を拭っていた。

 そして俺は、自分が元の自分に戻っていることに気づいた。沙衣も、これまで同様の沙衣だ。もう俺は沙衣の中にはいない。

「私、凌ちゃんの中にいたの。こんな話し、信じられないかもしれないけど……。凌ちゃんが部長に怒られながら、林くんを庇ってるのを凌ちゃんの中から見たの。悔しいって凌ちゃんが思ってる感情が私に流れて来て、私、すごくせつなくて。こんな思いをして頑張ってくれてるのに、私、凌ちゃんに甘え過ぎてるって反省したの」

「うん……」

 俺は泣きながら必死に訴える沙衣の身体ごと抱きしめ、ぎゅううっと力を入れた。華奢な沙衣の身体が俺の腕の中で震える。

「もっと構ってって思ってたの。すごく寂しくて。だけど、そんなの私のワガママだよね。だから、ごめんね。凌ちゃん……」

 何度も謝る沙衣の声を聞きながら、俺は首を振った。

「沙衣、今度の日曜、沙衣の家と俺の家に行かないか? 沙衣の両親にも、俺の親にも、ちゃんと挨拶しよう?」

 その意味を悟ったらしい沙衣が、俺の腕の中で、溢れる目を拭いながら何度も頷く。

「良かった。フラれたらどうしようかと思った」

 俺が呟くと、泣いていた沙衣が「ふふ」と笑うのが分かった。顔を上げた沙衣の目にはまだ涙が浮かんでいたけれど、その微笑みが妙に眩しい。それに、ひどく愛しく感じた。

「ここも引っ越そう? 次の部屋はちゃんと防音設備が整ってて、ペット可の物件探してさ」

 沙衣は俺の目を見ながら、ただただ頷くだけだ。

「俺、これからは、会社に行くときと帰ってきたときは、必ず紗衣に『ちゅー』する。晩ごはんのおかずのことも、一緒にちゃんと考える。愚痴だって聞くし、家事も練習する。俺一人が……なんて、自分勝手なことは、もう考えない。それに何より、紗衣を一人ぼっちになんてしないから……。だから、俺と結婚してください!」

 紗衣の目にまた涙が溢れた。でも、その涙はさっきのような悲しい涙ではなく、喜びの涙だということは俺にも理解できた。そうして沙衣は、「よろしくお願いします」と小声で言って、俺にぎゅうっと抱きついてきた。俺も沙衣を抱きしめ返す。

 ひとしきり抱き合って、久しぶりの沙衣の形や匂いを堪能していると、沙衣が「あっ」と叫んで、抱きしめていた腕を放した。その沙衣の視線の先には、俺が散らかした物……。テーブルの上には朝ごはんで使ったマグカップに皿、昼ごはんに食べたカップ麺の容器。床にはコードが繋がったままの掃除機。他にも雑誌やクッションが散らばっていた。いつもはきれいに整っている部屋が、散らかり放題の状態だ。

「沙衣、ごめん。俺、家事の才能ないみたいでさ」

 申し訳なく思いながら言うと、沙衣は首を振った。

「私も凌ちゃんに謝らないといけないことがあるの。今日、私、残業もしないで帰って来ちゃった。私もいろいろ失敗ばかりで、部長さん怒らせちゃって」

 俺たちは顔を見合わせ、プッと吹き出した。沙衣が立ち上がろうとしたので、その腕を掴む。沙衣の事だ。散らかったものを片づけよう。そう思ったに違いなかった。

「片づけは明日にしない? 俺も明日、部長に怒られること覚悟で行くからさ」

「……? うん」

 素直にまたソファに座ってくれた沙衣の手を取り、沙衣の瞳をしっかり見つめる。

「コーヒーでも淹れて、話しをしようよ? 今日一日のことでもいいし、これまでのことでも何でも。俺、沙衣と話しがしたい」

 沙衣はほわっと目元を赤くしたけれど、とても嬉しそうに笑った。

 そうして俺たちは、お揃いのマグカップにコーヒーを淹れて、とりとめのない話しを始めた。ここ最近話していなかった分を取り戻すかのように、笑ったり、キスしたり、じゃれ合いながら。

 そんな俺たちをソファの肘掛から冷ややかな目で見ていたメーティは、ヤレヤレといった表情をし、目の毒だとでも言いたげに隣の部屋へと移動していった。



 あの日以来、メーティが異様な目をすることはない。あの日のような威厳あるオーラは感じないし、どこからどう見てもただの猫に戻っている。意識が途切れる前に聞いた「知性の神」だというメーティスは、もうメーティの中にはいないのだろう。まぁ、メーティスがいようがいまいが、あの時交わした約束は、俺の一生をかけて果たそうと決めているが……。

 あの日、どうして俺と沙衣がそれぞれの中に「同居」してしまったのかは、今だに謎だ。ただの夢だったのか? 知性の神メーティスの仕業だったのか? それも分からない。

 ただ言えるのは、俺が『紗衣』の中にいたからこそ分かることがあったように、『俺』の中にいた沙衣も、たくさんの気づきがあったらしい。沙衣が俺の中でどんなことを感じたのかは知らないが、少なくとも俺は、自分のエゴ、わがまま、そして何より、二人でいる意味を見失っていたのだと気づいた。俺は、日常を送る中で、大切な呟きに耳を傾けなくなっていたのだ。

 あのセカイに行かなければ、いつまでも気づくことが出来ず、俺たちは別れることになっていたかもしれない。その危機感を感じるように。紗衣の存在を再確認するように。そう神様(メーティス)が思ってくれたのではないだろうか?


 __________180°のセカイ。あの日、あのセカイに行くことが出来て、大事なものを失わずに済んだ。俺は心から感謝している。

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180°のセカイ~同居編 恵瑠 @eruneko0629

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