第4話 メーティは何者か?

 こうして、沙衣と沙衣の中での俺とが同居しているという不思議な状態のまま、どうにか夕方までを過ごした。沙衣の身体ではあるものの、行動の方は俺が優先されるらしく、家事においてはことごとく失敗続きだ。

 掃除機の音で怒られないようモップをかけていたら、コードに引っかかり、メインの電源を落としてしまった。全ての家電の電源が落ち、午後は家電の時刻合わせに追われた。それでも、メゲずに風呂掃除をしようとシャワーを捻ったら、そのまま水をかぶってずぶ濡れ。

 俺には家事のセンスが全くないらしい。沙衣と一緒に暮らすまで実家暮らしだった俺が、家事をひとつもやったことがないというのが問題なのだが。

 そうしているうちに、また電話がかかってきた。切れることなく続くコール音。ナンバーディスプレイに表示される電話番号は登録していない番号だ。

 今度は誰だよ?

 沙衣と共に俺が電話に出ると、相手は早口でしゃべり始めた。声だけではあるが、結構な年配のおばちゃんのように思える。

「失礼ですけど、あなた奥さん? 今ねぇ、すごくお肌にいい化粧水のお試しキャンペーンやってるんですよ。今なら無料でお送りさせていただきますけど、いかがですぅ?」

 俺は返事をすることもなく、その電話を切った。

 無料で送るのなら、こちらの確認などせず送ればいい。

 なんなんだ? 朝から落ち着く暇もない。のんびりしているのは、窓辺のひだまりで昼寝をしているメーティだけじゃないか!

 苛立っている俺の中で、沙衣が呟く。

『今日の晩御飯のお買いもの行かなくちゃ。凌ちゃん、遅いって言ってたけど、最近疲れてるみたいだし、凌ちゃんの好きなもの作って待ってよう。凌ちゃん、何が食べたいかなぁ?』

 朝送ったメールの返信も返ってきていないのに、沙衣は怒っているでもなく、俺の心配をしている。そうして、おもむろに携帯を取り出すと、沙衣は電話をかけ始めた。耳にコール音が響く。繰り返し繰り返し何度も何度も。

 沙衣はただじっと待っていた。コール音が十五回以上鳴ったと思う。

「もしもし?」

 ものすごく不機嫌な声が聞こえた。……俺だ!

 俺が不機嫌なことを感じているというのに、沙衣はことさらに明るい声を出した。

『凌ちゃん、あのね、今日の晩御飯、何食べたい? 今からお買いものに行こうと……』

 言いかける沙衣に、受話器の向こうの俺は冷たく答える。

「紗衣、つまんない用事で電話してくんなって言ってるだろ? こっちは、お前と違って忙しいんだ!」

 プツッ!

 切れた電話を耳に押し当てたまま、沙衣はニコッと笑った。笑ってはいるが、その笑みに力はない。そして笑いながらも、その頬を涙が滑り落ちていった。

『またやっちゃった』

 涙を流しながらもムリして笑っていることは、俺にだってよくわかった。沙衣は窓のそばのひだまりの中にいるメーティのそばに歩いて行くと、その背に頬を摺り寄せた。メーティは分かっているよ。とでも言うように、沙衣の方へ振り向くと、沙衣の頭に自らの頭をすり寄せる。

『笑ってほしいだけなのに。一緒にいて、楽しいって言ってほしいだけなのに』

 メーティの背へ顔を埋め、沙衣が泣いている。

 ガツン! と頭を殴られた気がした。それ以前に、俺が俺を殴りたかった。沙衣はいつも俺のことを考えてくれているのに。沙衣はいつだって変わらないのに。俺は……

 紗衣、のんきに毎日を送ってるなんて言ってごめん。

 俺は偉そうに紗衣のことを守ってるつもりでいたけれど、俺の方が守られていたのだと気づく。

「好きなんです! 付き合ってください!」

 あんなにも強引に口説き落としたというのに、自分のモノになったと安心していたのだろうか? 沙衣が俺から離れて行くハズはないと変な自信を持っていた俺。愚かすぎる。バカだ。俺は。

 すべてを紗衣に押し付けて、すべての現実から逃げ、それでいて俺は紗衣の自由を奪っている。紗衣に甘えるだけ甘えて、嫌なことからすべて目をそむけていた俺。

 俺が紗衣を好きになって、勝手に俺の人生に巻き込んだのに、一緒にいることに慣れすぎて紗衣の大事さを忘れていた。「ありがとう」も「ごめん」も、「好き」も「愛している」も、最近は言った覚えがない。最後にいつ言ったのかさえ、定かではないのだ。

 紗衣。ごめん。ほんとに、ほんとにごめん。沙衣。


 しばらく泣いた沙衣は、テーブルに置かれたスマホを見つめてうなだれていた。いつもは明るい沙衣だけれど、さすがに今日はその元気さえ失せてしまったらしい。

 沙衣の中にいる俺は、どうにかして沙衣を元気にしてやりたいと思うのだが、沙衣の中にいる俺が沙衣にしてあげられることなんて何もなく……

 あぁ、神様! 俺が間違ってました! これからはこれまで以上に沙衣のことを大事にします! だから、お願いです! 俺を俺の中に戻してください!

 沙衣の中で、俺は必死に願うしかなかった。今の俺に出来ることは、それしかないのだ。

 その時、テーブルにスチャッ! と何かが飛び乗った気配。俺が顔を上げると、ブルーの目をキラキラと光らせたメーティが、やっぱり意味ありげに俺を見つめていた。俺と目を合わせたまま、メーティはグレーの毛並を優雅に波打たせ、テーブルにゴロリと横になった。

『お前、気づくのおせぇんだにゃ!』

 沙衣の声とは明らかに違うダミ声が聞こえ、俺は周囲を見渡した。

 沙衣の中にいるということすら変なのに、また別の声が聞こえてくるなんて。部長に怒鳴られたストレスで、俺の頭が変になってる?

 椅子に座り、頭を抱えていると、またダミ声が聞こえてきた。

『バカだとは思っていたにゃんが、これほどまでとはにゃー』

 おそるおそる顔を上げると、俺の真ん前に偉そうに寝ころがっているメーティと目が合った。

 おいおい。まさか。今度は猫がしゃべるなんてこと……ないよな?

『お前がバカだからにゃ、しゃべらざるを得なくなったにゃんよ!』

 目の前にいるメーティの口が動いた。人間がしゃべるようにメーティの口がパクパクと動いている。

『お前にゃ、さえタンにしつこく言い寄って一緒に住み始めたにゃんに、ここ最近のさえタンの扱いひどくにゃあ?』

「……お、おぅ」

 さ、さえタンって。沙衣のこと……だよな?

 ドギマギしながらメーティを見つめていると、メーティが立ち上がり、その前足がしゅっと素早く動いた。俺の額にペチッと肉球が撃ち込まれたらしい感覚。

『本物のお前なら容赦しにゃいが、その身体は今、さえタンだからにゃ。さえタンを傷つけるわけにはいかないからにゃ』

「あ、それは……どうも」

 猫にお礼を言うのも変だと言う自覚はあったが、目の前のメーティには妙な風格を感じていた。なんだか逆らえないような、厳かなオーラを感じるのだ。

『オイラはお前が嫌いにゃんよ。だから、別れちまえばいいと思ってるにゃん』

 いくら猫だからって、言っていいことと悪いことがある。そうは思うのだが、俺はぐっと言葉を詰まらせた。そんな俺を横目で見ながら、俺の額に猫パンチをくらわせたメーティはくるりと背中を向けて元の位置へと戻って行く。しっかり立てられた長い尻尾からも、長いグレーの毛が見事に揺れていた。

『今日一日だけじゃ、さえタンのありがたみは分からないと思うにゃ。けど、さえタンがお前がいいって言ってるからにゃ。オイラとしてはかなーり不満だにゃんが、さえタンが望むからにはそれを叶えるのがオイラの役目だからにゃ』

 俺は何とも言えず、ただメーティを見つめるだけだ。

『さえタンの記憶からお前のことを消すくらい、簡単なことだにゃんよ』

 メーティは猫のくせに、恐ろしいことを言う。

 沙衣の中から俺の記憶が消えたなら……? 俺は身震いした。沙衣の中から俺の記憶が消えるということは、沙衣と一緒にいることはもちろん、俺にご飯を作ってくれることも、俺に微笑んでくれることも無くなるということだ。

「ちょ、待って! 俺、心を入れ替えるから! 俺にとって沙衣は大事な人なんだ! だから!」

 再びテーブルにゴロリと横になったメーティの口が片方だけ上がった。ニヤリとした笑みを浮かべるメーティ。流れる毛並からは優雅さを感じるものの、その笑みはなんだかヤケに悪い笑みのように見える。

『約束出来るにゃんか? 今後、さえタンを泣かさにゃいと。もし泣かすようなことがあったにゃら、その時は……』

「約束する! これまでと同じ、いや、これまで以上に沙衣のこと大事にする! 悩みも一緒に解決していくし、メールも電話もこまめに返す! 行ってきますの『ちゅー』も忘れずにする!」

 メーティのブルーの目が異常に光る。

『ちゅーはどうでもいいにゃんよ!』

 ふて腐れたように言うメーティ。その目は眩くてたまらないというのに、俺は目を逸らすことが出来ず、吸い込まれるようにその目を見つめてしまう。そうしているうちに、俺は意識が遠いていくのを感じた。

 意識がなくなる一歩手前で、威厳ある男の声が聞こえた。さっきまで「にゃにゃにゃにゃ」しゃべっていたメーティスとは違う、深く響く声。

『我が名はメーティス。叡智や思慮、助言をする知性の神なり。お前の願い、しかと聞いたぞ』

 



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