第3話 沙衣の想い

 九時を五分過ぎたことを確認して掃除を始めようと立ち上がると、俺の頭の中にまた沙衣の声が聞こえてきた。

『凌ちゃん、会社間に合ったかな? 怒ってないかな?』

 朝会社へ出かける時の俺は、沙衣に散々ひどいことを言い放って出て行った。寝坊したのだって、沙衣のせいではない。なのに、あんな暴言や振る舞いを受けても、沙衣は変わらず俺のことを心配してくれているらしかった。

 そうして、俺は気づいた。

 俺は『紗衣』になっているけれど、この『紗衣』の中に『紗衣』も同時にいるらしいことに。どういう経緯かはさっぱり理解出来ないが、沙衣の中に俺の意思と沙衣の意思が同居している。その沙衣の意思や気持ちは俺の方には流れてくるのだが、俺の気持ちは沙衣には届かない。一方的に沙衣の気持ちだけが俺の方に伝わる仕組みのようだ。そして、沙衣の行動は沙衣の意思によるものだけれど、その意思を実際に行動へと移すのは『俺』らしかった。

 どうなってるんだ……? 俺が考え込んでいると、俺の中の『紗衣』が自分のスマホを取り出した。メールを打つ動作は俺が操作するのだが、その内容は沙衣の意思だ。

『凌ちゃん、今朝は寝坊してごめんね。会社間に合った? 遅刻しちゃった? 部長さんに怒られなかった?』

 沙衣と俺によって打たれたメールが、俺宛てに送信される。今頃、会社にいる俺は、スマホの着信音を聞いていることだろう。

 『紗衣』の中にいる俺と本物の沙衣は、微妙なバランスでつながっている。『紗衣』が考えていること。『紗衣』が感じていることが、『沙衣』の中にいる俺にも手に取るように分かる。

 だから、沙衣の心が嵐のように吹きすさんでいることも、顔では笑みを浮かべながら心では泣いていることも、俺はつぶさに感じ取ることが出来た。そして、こんな思いをさせていることが自分であるという事実に、情けなくなってしまう。

 沙衣は俺のことを心から心配してくれている。それでいて、俺が怒っているのではないかと不安に思っている。と同時に、寂しさと悲しさも感じているのだ。

 沙衣はリビングのテーブルにスマホを置いて、その画面をひたすら見つめながら待っていた。もちろん、俺からの返信を待っているのだ。でも、俺からの返信は いくら待っても返ってこない。

 何してるんだ? 俺? 

 いや、仕事中だから、返せないのはよくわかっている。だけど、沙衣は……。

 俺が一人で焦っていると、今度は電話が鳴った。家の固定電話の方だ。うちの電話は、ナンバーディスプレイになっているので、かけてきた相手の電話番号が表示される。

 電話に走り寄った沙衣の手元に表示された番号は……俺の実家? 俺がぎょっとしていると、沙衣は一瞬ためらった後、一度息を吸って電話に出た。

「あ、紗衣さん? 元気? 少し寒くなってきたけど、凌太どうしてる?」

 間違いない。お袋の声だ。

『凌太さんも私も元気です。お義母さんもお変わりありませんか?』

 沙衣が明るい声を出そうと努力しているのが伝わってくる。

 二人の間にビリビリとした緊張を感じつつも、二人の間では無難な会話が続いた。お袋から電話がかかってくるなんて聞いた記憶がなく、俺は正直戸惑っていた。お袋と沙衣は、電話でどういう会話をしているのだろう? 二人はどういう関係になっているのだろう?

 季節のことや体調のこと、兄の子供である俺の姪っ子の梓(あずさ)の話題などが交わされた後、少しの間があって、お袋が思い切ったように切りだした。ここからが本題らしい。

「……それで? 凌太との結婚の話は進んでるの?」

 突然話が爆弾へと切り替わり、俺は心臓がバクバクし始めた。

 お袋、なんて話を!

『凌太さんも私もまだ仕事で手一杯なので……』

 俺と沙衣が同棲していることは打ち明けてあるが、沙衣が仕事を辞めたことは話していない。沙衣はそれを理由に、やんわりと話しを逸らそうとしているようだ。けれど、沙衣のような穏やかな子に、俺のお袋が言い負かされるはずがなかった。

「何言ってるの! 仕事にかまけてたら、結婚なんて一生出来ないわよ? 紗衣さん、女の幸せは結婚して、子供を産んでこそなのよ? もう二人ともいい年なんだし、そろそろ決めてもいいと思うわ。紗衣さんさえ、『うん』と言ってくれれば、凌太はすぐにでも! でしょ?」

 お袋は受話器の向こうでムキになって沙衣を責めてくる。

 全く。余計なことを……。

 沙衣の対応を窺っていると、『あ、すみません。お義母さん、仕事に出る時間なので。すみません』と言って、沙衣はため息をつきながら受話器を置いた。

 たった数分の会話ではあったものの、沙衣がひどく疲れているのが分かる。今日はどうにか話を切り上げることが出来たようだけれど、こういうこと、今までにもあったのだろうか?

 それに、「結婚」の話は……

 同棲して三年が経つというのに、俺はまだその問題に向き合えていなかった。沙衣と別れるつもりなんてないし、一生一緒にいたいと思っている。けれど、まだ「確定」させる自信がなかった。

 逃げ。なのだと思う。「同棲」の間は、或る程度の責任から逃げられるけれど、「結婚」となるとそうはいかない。俺はもちろん、紗衣の人生すらも、俺が男として責任を持たなければならない。そして、いつか生まれてくる俺と沙衣の子供の人生も、俺が引き受けなければならないのだ。

 それらのことを考えると、一気に気が重たくなってしまう。だから俺はいつも「まだいいじゃん? お互い、楽しければさ」と、直面することを避けてきたのだ。

 けれど、俺が逃げているせいで、『紗衣』はお袋に責められていた。いかにも沙衣の方が「結婚」を嫌がっているかのように……

 固定電話から離れ、テーブルの上にあるスマホを見つめる沙衣。

 俺からのメールの返信は、いまだにない。

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