第2話 見えてきたもの

 俺と紗衣は、中学のときの同級生だ。その頃の俺たちは、お互いをよく知らなかった。俺は男友だちとつるんでバカ騒ぎすることに生きがいを感じていたし、紗衣のことは、可愛い子がいるな。くらいにしか認識していなかった。かわいいし、きれいなんだけれど、どこか冷たい印象しか持てず、近づきたいとは思わなかったのだ。

 その俺たちがどうして今一緒に住んでいるのか? それは、二十歳(はたち)のときに行われた同窓会での再会がきっかけだった。

 ホテルで行われた同窓会に、最初俺は出席するつもりはなかった。でも、親友の中谷が、暇さえあれば「初恋の子に会いたい。でも一人で行くのは不安。一緒に着いてきてくれ!」としつこく電話やメールで誘ってくるので根負けし、中谷の付き添いという形で出席をすることになったのだ。

 今思えば、出席していなかったら、沙衣とは再会出来なかったのだから、これも運命なのだろう。その同窓会でのフリートークの時間に、俺が沙衣を見つけた。

 紗衣は中学生の頃の雰囲気そのままに、華奢できれいな女性へと成長していた。決して目立つことのない黒のワンピースを身に着けていたというのに、俺の目には沙衣が光り輝いて見えた。耳元で揺れるパールのピアスが、彼女が大人になったことを感じさせ、俺はその沙衣を見つけた瞬間から、沙衣以外の同級生が視界に入らなくなってしまった。

 大人になった沙衣は、社会人としての社交性を身に着けたことで、以前の冷たい印象が消えていた。そのせいもあって、その同窓会の間中、紗衣は常に人に埋もれていた。可愛くてきれいで、にこやかに笑う彼女に、俺と同じ思いを抱いた男が群がっていたのだ。

 俺は少なくともそれまで、女の子に対して、情熱的な面を全く持ち合わせていなかった。付き合った子はいたけれど、ダメになったらそれはそれで。と、半ば諦めのある付き合いしかしたことがなかった。

 けれど、紗衣と再会してからの俺は、自分がメキシコ人に生まれ変わったのではないかと思ったくらいだ。それくらいマメに、情熱的に、沙衣を口説いた。冷静沈着だと言われていた俺が、必死になって紗衣に電話し、メールし、食事に誘い、デートに誘って、口説いて口説いて、口説きまくって……

 今思えば、俺のあまりのしつこさに、紗衣が呆れ果てて折れたのかもしれない。俺たちはめでたく? 付き合うことになり、二年の交際を経た後、一緒に暮らすようになった。

 そうして、一緒に暮らして三年が過ぎ……

 二人で暮らしはじめた頃は、紗衣もデパートの総務でOLとして働いていた。けれど、社内で嫌がらせを受けたことで眠れなってしまい、軽い鬱症状が出始めたことに気づいた俺が、仕事を辞めるように勧めた。

 贅沢さえしなければ、俺の給料で暮らすことは出来るだろうから……と。

 それ以来、紗衣は専業主婦だ。と言っても、結婚しているわけではないから、「主婦」には該当しない。カテゴリで言えば「家事手伝い」といった所か。

 俺は、本物の俺が出て行った後、しばらく閉じられた玄関扉を見つめていたが、じっとしていても仕方がない。と、重い足取りでリビングのテーブルに戻った。戻ったはいいが、どうすればいいのか見当もつかない。

 はああああぁ。大きなため息が漏れる。俺にどうしろと? この状態で、俺に何が出来ると?

 悩む俺の足に、スルリ! とやわらかい何かが触れた。下を見ると、猫のメーティが、俺の足にすり寄っている。

 メーティは長毛の猫で、全身グレー。目元と手足だけが黒っぽい色をしている。ラグドールという種類だそうだが、俺には猫の種類を見分けることなど出来はしない。そもそも、沙衣と一緒に暮らし始めた頃からメーティも一緒に住んでいるわけだが、俺はメーティに興味を持たなかった。第一、メーティのブルーの目が俺は嫌いだった。何もかもを見通しているかのようにじっと見つめてくるメーティに、いつも俺の方が目を逸らしてしまう。

 そのメーティが俺の足にすり寄りながら何かを訴えていた。

「にゃあ」

 メーティが俺に向かって鳴いた。そしてまた俺の足に何度も頭をこすりつける。

「飯か……?」

 そう気づきはしたものの、俺はメーティの餌置き場さえ知らない。

 くそっ。しょうがないなぁ。

「なぁお」と何度も鳴くメーティから視線を逸らし、俺はキッチンを漁り始めた。俺の後ろでメーティがまた「なぁお」と鳴く。早くしろ! と急かしているのだろう。

 実は、このアパートはペットが禁止だ。沙衣と同居すると決めたとき、ペット禁止だというアパートの条件を見て、メーティをもらってくれる人がいないかと里親を探したりもしたのだが、新たな飼い主を見つけることが出来なかった。それに、沙衣もメーティとは離れがたいという気持ちがあって、「絶対バレないようにするから」と懇願してくるので、俺も黙認するしかなく、今に至る。

「なぁお」

 またメーティが鳴いた。

 俺は「しーーーー」と人差し指を口の前に立て、メーティに静かにするように訴えた。猫に通じるかは分からないというのに。

 メーティの鳴き声を聞いて大家さんに通報でもされたら大変なことになる。メーティを鳴かせないためには、一刻も早く餌をみつけなければならない。

 俺はいろいろなものをひっくり返したり、倒したりしながら、キッチンの戸棚の横に置いてあった取っ手付きの四角いバケツに、ようやくメーティのフードが入っているのを見つけた。そのフードを目に着いた近くの皿に入れ、メーティの前に置く。メーティは俺の顔を見ることもなく、カリカリと音をさせてフードを食べ始めた。

 ふー。見つかってよかった!

 メーティの餌ミッションは終わったものの、今度は自分の腹が鳴った。

 何がどうなっているのかはわからないけれど、とにかく今、俺は『紗衣』だ。本物の俺が行ってしまった以上、俺は『紗衣』としての役割を果たすしかない。訳が分からないながらも、とりあえず俺は今の状況を受け入れることにした。

 腹が減っては戦はできぬ! とも言うし。

 まずは冷蔵庫を開け、卵とベーコンを取り出した。そして綺麗に並べられていたいくつかのフライパンの中から、小さ目のフライパンを取り出しコンロに置いた。そのフライパンに油を流し、卵を落とす。まだフライパンが十分に熱せられていなかったせいで、油の海の中に卵が泳いでいるようだ。油が多すぎたのだろう。

 普段料理なんてしない。沙衣に任せきりで全くしない。それでも、見よう見まねでどうにかなると俺は自信を持っていた。たかが目玉焼き。焼けばいい。

 けれど、ものの数分もしないうちに、今度は油が熱くなり、卵が焼けるのではなく揚がり始めた。卵の周囲がぶくぶくと膨らんでいく。

 これってヤバい? でも確か、沙衣は途中でベーコンを加えていたような……?

 俺は油で揚がり始めた卵の上にベーコンを2枚落とした。途端にジュワッという音がして油が跳ね、俺の右手に、正確には、沙衣の右手にもジュッ! と痛みを感じた。

「あつっ!」

 俺は慌ててシンクに移動し、痛みを感じる右手の甲に水をかける。火傷をしたときは、すぐに冷やすというのが鉄則だと聞いたことがあったからだ。流水で手を冷やしているうちに、痛みが引いていくのが分かる。数分後、濡れた手をタオルで拭き確認してみるも、水が当たっていた箇所が赤くなってはいるがそれだけ。

 うん。大丈夫だ。跡も残っていない。良かった!

 俺が右手をかざして安心していると、そこであり得ない匂いがしていることに気が付いた。

「あ、ヤバッ!」

 火傷に気を取られ、目玉焼きを作っている最中だったことをすっかり忘れていた。俺がフライパンの方へ戻ると、コンロの周りには多量の油が飛び散り、フライパンの中には炭と化した物体。それをフライ返しで皿に載せてはみたものの、とても食べられる状態ではない。

「食べ物に罪はないけど、ムリだな。これは」

 俺は皿に載せた物体をそのままゴミ箱へ捨てた。

 再度冷蔵庫を開けてみる。だが、冷蔵庫の中には、合挽きミンチなどの手を加えれば食材になるものばかりで、俺が調理できるような食材は何一つない。結局、俺はインスタントコーヒーとトーストのみという朝ごはんを終えた。

 トーストで使った皿とマグカップを洗うのも面倒で、ソファにゴロリと寝ころびテレビを見ていると、俺の耳に沙衣の呟きが聞こえた。

『お天気いいし、お洗濯しなきゃ』

 沙衣の呟き。その呟きが聞こえると、そうしなければならないと思えてくるから不思議だ。料理と同様に、洗濯なんてやったこともないっていうのに。

『洗濯! 洗濯!』

 沙衣の声に押されるようにして、まず俺が向かったのは脱衣場だ。狭い脱衣場には、その間取りのほとんどを占めている洗濯機が置いてある。俺はその洗濯機の手前に置いてあるカゴの中から汚れた衣服を取り出すと、洗濯機の中へ放り込み電源を押した。ザアアアアア……勢いよく水が流れ出す。ここに洗剤と、柔軟剤を入れてっと。俺は洗剤をスプーンに山盛りに。柔軟剤も目盛ギリギリまでを計って洗濯機の中へ流し入れた。

 今は楽だよなぁ。機械がなんでもやってくれるし。って、俺も昔のやり方を知っているわけではないのだけれど。楽勝! 楽勝!

 俺が満足していると、沙衣の新しい呟きが聞こえてきた。

『お掃除しないと! あ、でも……』

 沙衣の声に少しの躊躇を感じ、それが少し気にはなったが、俺は俄然やる気になっていた。

 掃除機でガーッとやっちまえばいいんだろ? 第一、俺たちの住まいであるこの部屋は、キッチンと繋がったリビングと寝室の二部屋しかない。

 掃除なんてすぐに終わる!

 俺は玄関横の押し入れから掃除機を取り出してくると、リビングのコンセントにコードを差し込み、掃除を始めた。

 ウィイイン ウィイイン

 掃除機の音が俺の脳の奥で響く。

 問題ない。問題ないぞ。そう思ったとき、玄関のチャイムが鳴った。こんな朝早くに誰だ? 俺は掃除機のスイッチを切ると、玄関に向かった。

「はい?」

 玄関のドアを開けると、隣に住んでいる赤間さんの奥さんが立っていた。いつもはきれいに化粧をして、ウェーブがかった髪を色っぽくまとめて上げているけれど、さすがにこの時間だ。まだ起きて間もないのだろう。すっぴんの上に髪の毛もひっつめた状態だ。普段会う奥さんとは別人としか言いようがない顔立ち。この状態の奥さんにどこかでも会ったとしても、俺には誰だか分かりそうもない。

 内心苦笑していると、奥さんはキッと俺を睨んだ。

「藤井(ふじい)さん、以前にもお伝えしたと思うんですけど、大きな音をさせるのは九時以降にしてくださいって言いましたよね? お宅はまだお子さんいらっしゃらないから分かられないと思うんですけど、朝早くに大きな音をさせられると、子供がびっくりして大変なんです! ご協力くださいって、お願いしたはずですよね?」

 念を押すように、グイッと顔を近づけられ、俺は後ずさった。すごい迫力だ。すっぴんだから余計だろうか?

 それにしても、なんだこの理不尽な文句! 俺は、心の中で悪態をつく。九時以降って、いつまで子供を寝かせてんだって話!

「何か言いたいことがおありのようですけど、何か?」

 鋭い目で睨まれ、俺の悪態は口の中で消えていく。

「いえ……すみません」

「わかっていただけばいいんですよ。今後も注意してくださいね!」

 それだけ言うと、赤間さんの奥さんは颯爽と玄関から姿を消した。

 勝負に負けた気分の俺は嫌な気分だ。 っていうか、紗衣はいつもこんなことを言われていたのだろうか?

 そういえば……隣の赤間さんがね。そう言っていたのを、かすかに思い出す。いつだったろう? あのとき一回きりだったから、それ以来気にもしていなかったけど?

 俺は何とも言えない気持ちでリビングに戻ると、時計を見て肩を落とした。九時過ぎまで大きな音を出せないとなると、後一時間は何も出来ないことになる。

 ソファに身体を沈めた瞬間、また沙衣の声。

『お布団干したいなぁ』

 窓の外を見ると、雲一つない青空が広がっているのが見えた。確かに布団を干すには絶好の日だ。

 俺は沙衣の声に従って寝室に入ると、枕と掛け布団を持ってベランダへと出た。ベランダはリビングと寝室、両方の窓から出られる構造ではあるが、ベランダそのものは狭い。人が一人立つと、もうそれだけでいっぱいになる。

 俺はベランダの柵に掛け布団を掛け、クーラーの室外機の上に枕を二つ並べた。

 これくらいなら俺にだって出来る! そう思いながら振り返ると、今掛けたばかりの掛け布団がどこにもない。

「なぁお」

 リビングから顔を出していたメーティが意味深に鳴く。

 まさか! 慌ててベランダから下を覗き込む。

 案の定、葉っぱをモチーフにしたカバーがかかった掛け布団は、公園のツツジの植え込みの上に落ちていた。ここは三階。朝早かったことが幸いして、まだ誰も公園にいなかったことが唯一の救いだろう。

 俺は足取り重く一階まで下りると、ツツジの植え込みから掛け布団を剥がし、それを持ってまた三階の自分の部屋へと戻った。

 おそろしく凹む。簡単だと思っていたことが何一つこなせないなんて……

 布団を寝室に戻し、うなだれていると、風呂場の方から軽快な音が聞こえてきた。洗濯終了の合図だ。

 俺は、いそいそと洗濯機へ近づき、蓋を開けて固まった。

 しばらく中を見つめていたが、じっとしていても始まらない。俺が洗濯機から取り出した物。それらは全てが赤と化していた。カゴへ中のものを移していると、俺が昨日脱ぎ捨てた赤いTシャツが目に留まる。原因はコレか……

 俺のYシャツも、気に入っていたジーンズも、それは見事に赤に染まっていた。染まるという色づけがされているだけなら、今後も使うことは可能かもしれない。けれど、赤に染まっているものもあれば、斑に赤が点在しているものもあって、今後これらのものを着て人前に出る勇気は俺にはない。

 くそっ! なんなんだ!

 俺はイラつきながら、それらをすべて市指定のごみ袋にブチ込んだ。


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