180°のセカイ~同居編
恵瑠
第1話 同居開始
ジリリリリ! ジリリリリ!
けたたましく目覚ましのベルが鳴っている。
うるさいなぁ。いい加減、早く止めろよ!
まだ疲れが残る自分の身体を異常に重く感じ、俺は胸の布団をかき集め、身体を縮める。自分で目覚ましを止めたことのない俺は、もう一人の同居人がその音を止めるものだと決めつけていた。だから、自分で音を止めようとは考えない。ただただ鳴り響く音を聞いているだけだ。だが耳に届く激しい音は、いつもとは違いなかなか止まらず、いつまでも鳴り続けた。
何やってんだよ! 沙衣さえのヤツ! くそっ!
俺は耳障りな音を聞く限界に達した。布団の中から身体は出ないよう注意し、腕だけを伸ばすと、四角い箱の真上にあるボタンを押した。その一瞬で音は止み、辺りが一気に静けさを取り戻す。
気怠い身体を少しだけ起こしかけたが、まだ起きる決意が出来ない。俺はまた枕に顔を埋めた。少しずつ頭の中が現実へと向かい始める。そんな中、俺の頭には否応なく昨日の出来事が思い浮かんだ。
あぁ、今日がまた始まるのか……。
現実と夢を交互に行き来している俺の頭の中に浮かんだのは、部長の怒り狂った顔だった。
「お前、何年この仕事やってるんだ! 相手先怒らせてどうすんだよ!」
俺は頭を下げたまま顔が上げられない。その俺の頭上で、ハゲメガネのオヤジが怒鳴る。
「正義感も大概にしろ! 正義で飯が食えると思ったら大間違いだ!」
確かにハゲメガネのオヤジには、もう正義なんて関係ないように思えた。何があろうとも自分の肩書きを守り、このまま定年を迎え、いかにその後を穏やかに生きていくか。あのオヤジの頭にあるのはそれくらいだろう。
第一、俺だって正義を振りかざして生きる青臭さは当に失っている。正義であったとしても、それを見ないように顔を背け、長いものに巻かれていかなければ世の中を渡っていくことなど出来はしない。社会に出て十年。俺だって学んでいるのだ。
枕に顔を埋めたままじっとしていると、急に肌寒さを感じた。暦の上では秋に入ろうとしているが、まだ寒いという季節ではない。おまけに、違和感を感じた。うまく言えないけれど、枕を抱きしめている自分の腕が小さくなったように思えたのだ。風邪でもひいたかな? それともただの行きたくない病?
俺は内心苦笑しつつ、昨日、取引先相手のお偉いさんに言い放ってしまった一言を思い出した。
「そういう言い方は人間的にどうかと思います」
俺の隣りに立つ今年入ったばかりの新人、林智也はやしともやに、相手は執拗に嫌味を言った。
「君は新人だから、分からないだろうねぇ。若いってだけで、みんなにニコニコして貰えるんだから、君らは得だよねぇ」
最初は笑って流していた。林にも、笑え! と合図を送った。こんなことでイチイチ腹を立てていては、サラリーマンなんてやっていられない。だが、そいつは林に、仕事とは全く関係のない嫌味を言い続け、最後に言ったのだ。
「仕事が出来なくても、若ければ許されるんだから、君らはいいよねぇ」
それまで同様に笑って流せば、その場は収まるはずだったし、何事もなく書類にハンコをもらえただろう。けれど、林が頑張っていることを俺はよく知っていた。企画だってしっかり練ってくるし、毎日残業しながら早く仕事を覚えようと努力している。そんな林の中身を知りもしないくせに、もう取り戻すことの出来ない若さへの嫉妬なのか? どうしようもない難癖をつけてくる相手にひどく憤りを感じた。
その言い方はなんだよ! そう思ったと同時に、俺の口からは相手を非難する言葉が出てしまっていた。当然相手は怒りだし、林だけでなく、俺までもが部長に呼び出しをくらうハメになったわけだ。社会に出てもう十年も経つというのに、俺らしくもない。くそ!
昨日の呼び出しを思い出していると、再び目覚まし時計の音が鳴り始めた。この目覚まし時計は、上のボタンだけでは音を止めることが出来ない。上のボタンは一時しのぎで、裏にあるボタンをオフにしない限り、五分ごとに目覚まし時計としての力を発揮するのだ。
起きなければ。そう思いはするのだが、仕事に行きたくない。サボるか……?
そんな甘い考えがあったせいだろう。瞬く間に、俺は浅い眠りに落ちていた。が、さすがに昨日の今日で仕事をサボれる訳もない。その現実が頭の片隅にあり、ハッとして時計を見てみると、いつもなら着替えて出かけなければならない時間になっていた。
「おい! 起きろよ! ヤバいぞ!」
俺は隣りに寝ている沙衣の身体を揺すった。目覚まし時計を止めるのも、俺を起こすのも、朝ごはんや弁当を作るのも紗衣の仕事だ。なのに、今日はこんな時間になっているというのに、俺が起きた今になっても、まだ寝ている沙衣。
ちっ! 俺は心の中で舌打ちした。
のんきなものだよな。俺がどんな思いで仕事をして金を稼いでいると思ってるんだ。紗衣はいいよな。家で家事して、昼寝して、テレビ見て。それで一日が終わるんだから。ストレスなんて、あるはずがない。
声をかけてもまだ起きない紗衣に苛立って、半分八つ当たりだと思いながら「いい加減にしろよ!」と俺が怒鳴る。その声にビクッとして起き上がった隣りの人物を見て、俺は驚きのあまり言葉を失った。
「紗衣……?」
俺の隣りで起き上がったのは、男だったのだ。隣に寝ていたはずの紗衣が、男になっている。あの華奢な体つきからは考えられない、しっかりとした骨格。
なんだ? これ? どうなってるんだ?
戸惑う俺に、その男が言った。
「お前、寝坊かよ! どうすんだよ!」
目覚まし時計を確認した男は、大慌てでベッドから下り、そのまま洗面所へ駆け込んでいった。バシャバシャと水しぶきの音が聞こえ、ドライヤーの音が聞こえてくる。ガシャン! とコップが落ちる音がした。
「紗衣! お前、何やってんだよ! スーツくらい出しとけよ!」
洗面台から怒鳴り声が聞こえてくる。
紗衣? 紗衣って言った?
まわりを見渡してみるも、いつもの見慣れた部屋だ。いつもの俺と紗衣の部屋に変わりはない。何がどうなっているのか戸惑いながら、俺はもぞもぞとベッドから降り、スーツが入っている備え付けのスツールを開き、中にある大きな姿見で、自分の姿を見た。
「……」
言葉が出ない。
だって、これって、俺が、俺が、『紗衣』になっている。
俺は自分の頬を手で触れてみる。鏡の中では、黒白ストライプ模様のダブダブTシャツを1枚着ただけの『紗衣』がそっと自分の頬に手を触れ、こちらを見ていた。肩まで伸びた茶髪ボブの右側の髪の毛が一束跳ねている。沙衣のいつもの寝癖だ。ぱっちりとした大きな沙衣の瞳は、いつもより更に大きく見開かれ、ぽかんと口が開いていた。
どうなってるんだ? 俺が紗衣になってる? でも、だったら……?
その時、鏡の中に視線を感じて振り向くと、沙衣が飼っている猫のメーティがドアからこちらを覗いていることに気づいた。俺とメーティの目が合ったと思ったのだが、メーティはすぐにその場から立ち去ってしまった。何となく意味深に、メーティのブルーの目が光ったように見えたのだが、きまぐれな猫のことだ。気のせいだろう。
それでも、ぼんやりとメーティが去った方を見ていると。
「何やってんだよ!? スーツ出しとけ! って言っただろ!」
俺、凌太(りょうた)が、苛立った顔でこっちを睨みつけ、沙衣の姿になっている俺の横を通り、慌ただしく自分でスーツを取り出すと、パジャマを脱ぎ捨てて着替え始めた。パジャマのズボンが脱いだままの形で床の上に立っており、両足の穴が二つ並んでいる。俺が黙って目の前の光景を見つめていると、本物の俺がまた沙衣に向かって悪態をついた。
「お前さ、仕事もしてないんだから、やることやれよ!」
短髪にしているとはいえ、本物の俺の頭はボサボサだった。さっきドライヤーを使ってがいたようだが、時間がないためにまとまらなかったのだ。でも今は、髪型を気にしている場合ではない。
ちらりと時計を見ると、いつも家を出る時間を十分も過ぎている。これは遅刻確実だ。
何も言えない俺の隣りで、ホンモノの俺は悪態をつきながらシャツとスーツを身に着けた。そしてバランスを崩しながらも立ったまま靴下を履き、カバンとスマホを掴むとドタバタと玄関へ向かう。ネクタイを締める余裕はなく、Yシャツの襟にブルーのネクタイがぶら下がっていた。
沙衣になっている俺も、慌てて本物の俺を追いかけた。本物の俺は靴を履くと、渋い顔をしながらも一度だけ振り返った。
「今日も遅くなる。先に寝てていいぞ」
いつも俺が言うセリフを、本物の俺が言っている。頭がまた混乱してきた。けれど、混乱している俺の口から、予想もしていなかった言葉が飛び出し、沙衣の中にいる俺はギョッとしてしまう。
「凌ちゃん、いってきます! のちゅーは?」
自分の口から出た言葉だけれど、言ってしまった後にぞっとした。だって、俺が俺に「ちゅー」をせがんでいる。
本物の俺は、そんな沙衣の中にいる俺のハラハラに気づくこともなく、苛立った顔に更に怒りを露わにし、眉を寄せながら言った。
「バカじゃねーの? じゃあな!」
そうして、本物の俺はバタン! とドアを閉め、行ってしまった。閉じられたドアの前で、俺はなんだか切ない気持ちになりながら、俺を見送り……。
あぁ、どうなっているんだ? 何が何だか分からない。
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