温室、あの夏の (新字正仮名版)

鍋島小骨

温室、あの夏の

 卒業以来、小学校に近寄つたことがない。

 嫌ひではなかつた。ちやんと友達がゐて、勉強も普通にできる方だし運動も得意だつた。卒業式ではクラスメイトと一緒に担任の先生のところに行つて泣いた。

 平凡な子供だつたと思ふ。それでも、主流グループに属して活発に喋り、リーダー側としてやつていける勝ち組のつもりでゐた。

 けれどもそれはただ、二年間だけ続く四十人にも満たない学級の中の小さな波に、たまたま三度溺れず乗れたといふだけだ。私に力があつたわけではない。私といふ個体が強かつたのではなく、たまたま寄り集まつたが偶然、一時的に、ある種の勢力を持てたといふだけのことだつた。

 私はグループから振り落とされたくなかつた。グループ内のビリの位置に落ちるまいとしてゐた。安全圏にゐたかつた。オリジナルメンバーではなかつたからだ。

 私は、そのグループ成立に数ヵ月乗り遅れてゐる。後から入つた。それは、誰かがから可能だつたのだ。

 そして私は、卒業以来、小学校に近寄つたことがない。





  * * *





 二十年以上経つて初めて小学校に足を踏み入れたのは、選挙がきつかけだつた。

 遠方の大学に進学し就職したのだが、事情があつて実家に戻つてきた。その夏、選挙のお知らせが届いた。

 投票所は私の卒業した小学校だつた。

 行つてみて驚いた。私が通つてゐた当時に比べると生徒数が激減したことは親から聞いてゐたが、二つあつた玄関は一つに統一され、使はれなくなつた教室を固めて地域交流センターができてをり、そして何よりも、校舎の何もかもが昔より小さく見えた。

 廊下が短い。天井が低い。投票所になつた体育館もこんなに狭かつたかと驚いた。

 私の身体が大きくなつたせゐだ。そして、学校よりもずつと大きな建物を見慣れたせゐだ。それは分かつてゐた。それでも、ああこんなちつぽけな世界だつたか、と魔法が解けたやうな気持ちになる。

 昔通つた教室を見たいと云ふ気持ちは全くなかつた。

 私は年に何度か校舎の夢を見る。夢の中の私はいつも校舎の内部構造がよく分からず道に迷つたり、授業の忘れ物を思ひ出したりしながらずつと焦つてゐる。誰も助けてはくれない。私はずつと不安でずつと焦つてゐる。

 校舎はもう、好きではない。



 手順通り投票を済ませ、蒸し蒸しと暑い体育館から渡り廊下を通つて玄関に戻る。投票者が土足で上がつていけるやうに順路にはブルーシートが敷かれてゐる。玄関が開けつぱなしで、日陰の校内でもひどく暑い。熱した真綿に全身を圧迫されるやうに暑い。この夏の暑さは本当にどうかしてゐる。

 玄関を出ると私は、目の前の門を出るのではなく、校舎脇の通り道を進んで裏庭の温室の方に進んだ。小学生の頃もよく通つたルートだ。温室側の裏門から出た方が私の家に近いし、木陰を通れる。

 温室はなくなつてゐた。

 あれ、と立ち止まつたが、よく考へたら私はそれを知つてゐた。裏庭のその温室は私たちが中学一年の頃に撤去され、今は校庭の片隅に新しく作られたものが使はれてゐる。

 知つてゐた。

 勿論知つてゐたのだ。

 ブルーシートが雨に濡れてゐたことも知つてゐる。


 ただ、忘れていただけだ。


 忘れるなどといふことが可能だつたのだな、と認識して、ぞつとなつた。



 言葉を掛けられたのはその時だ。


「おキク? ね、おキクぢやない」


 涼やかな声に振り返ると、かつて胡瓜きうりやトマトの苗が育てられてゐた所にえむが立つてゐた。

 えむ、と呼ぶと、彼女はあははと笑つて、やつぱりお菊だあ、と言つた。


 グループでは幾つかの内部ルールがあり、あだ名で呼び合ふ慣例もその一つだつた。私は苗字の菊川からとつてお菊。えむは、名前がえみりなのを本人がよく噛んで「えむり」みたいな発音をするので、そこから決まつた。

 グループから外されると、そのあだ名で呼ばれることはなくなる。

 私も、お菊と呼ばれたのは小学校卒業以来だ。


「お菊、久し振りだね。投票?」


「うん。済ませてきたとこ。えむも?」


「私は温室見にきたの」


「ああ。移動したよね」


「トマトなつてる。もう割れたやつもあるわ」


 えむが動かないので私が近付いた。立ち話をするには離れ過ぎてゐたから。

 木陰に入るとすうつと気温が下がるのが分かつた。えむは私と違ひ、全く汗をかいてゐないやうだ。昔と同じ色白で、前髪が少し長く、その下の目がこちらを見てゐる。


「懐かしいね。お菊、マチとかワラビがどうしてるか知つてる?」


「えむ知らないの」


 本当に驚いて私は言つた。


「ワラビは中学の修学旅行先で行方不明になつたまんま見つかつてないの。マチは大学の新歓でお酒飲み過ぎて、急性アルコール中毒で死んぢやつた。ニュースにも出たよ」


 えむはすごくびつくりしたやうな顔をして、私はそれで、ああこんなにパカパカとつらい情報を連打するもんぢやなかつた、と後悔した。

 えむは小学校までしかここにゐなかつたから、知らないのだ。


「ごめんね、びつくりした? でもさうなの」


 ところがえむは、ふにやつと笑つてかう言つた。


「知つてるよ。

 それでマチとワラビが今どうしてるか知つてる?」


「え?」


 

 あの二人は死んだのに?


「知らないの? 友達でしよ」


 木陰はもう凍りつくやうに寒い。インフルエンザの時のやうに悪寒がする。えむ何を言つてゐるの?


 えむは笑つてゐる。昔のやうに。

 えむは笑つてゐない。あの時のやうに。

 えむは言ふ。かつて言はなかつたことを。



「お菊、ルール破りしたよね」





 グループでは幾つかの内部ルールがあつた。

 独自のあだ名で呼び合ふこと。

 メンバーの秘密は外には絶対漏らさないこと。

 いつも一緒に行動し、メンバーの味方をすること。

 私は、グループ内のビリの位置に落ちるまいとしてゐた。その位置の誰かが落とされ、他の誰かが入れられる。上位メンバーは固定のままで。

 安全圏にゐたかつた。オリジナルメンバーではなかつたから。

 だからルールを守つた。

 そして、だからルールを破つた。





  * * *





 真夏、大粒のぬるい雨がだらしなく降り続ける夕方、温室は大勢の人に取り囲まれてゐた。それ以来私たちの誰も温室に入ることはなく、翌年には取り壊されて無くなつた。

 遺書も何もなかつたため動機は推定の域を出なかつたが、両親が離婚予定で、どちらが子供を引き取るかで揉めてゐたのが理由の一つだらうと噂された。子供を取り合つてゐたのではなく、押し付け合つてゐたからだ、と。

 その両親は事件のすぐ後に予定通り離婚し引つ越していつた。こんな形であれ子供がゐなくなつてお互ひ身軽になつたのだらうと陰で言ふ者も多かつた。

 だからえむは小学校までしかここに住んでゐない。

 ワラビがゐなくなつたことも、私が進学でこの土地を離れたことも、マチが酒で死んだことも、えむが知る筈はない。



 あの雨の日の帰り際、三日振りにえむと会話した。


――あのこと言つたの、お菊ぢやないよね。


 私は一人だつた。だから答へた。グループの他の子がゐたなら無視するか笑つて通り過ぎるところ。


――ワラビやマチぢやなく、最初に私、疑ふんだ。つて相手選ぶんだね。



 それから三時間ほど後。大きな音がしたと気付いた教員が確認に行くと、温室の屋根が破れてゐた。

 中には、里見えみりの屍体があつた。


 里見えみりは、屋上から温室に向かつて身投げしたと断定された。




 私は。


――里見さん、父の日のプレゼント捨てられたんだつて。

――なんかそれ、万引きしたものだつたんだつて。すごくない?


 その根も葉もないクラスの噂に、ああ聞いたあ、と曖昧な支持を与へて、そして。


――ち、親離婚するんだけどどつちにも引き取つてもらえないらしいよ。


 クラスのネットワークに情報を流し入れた。

 本当はワラビやマチはえむをグループから外すかどうかまだ決め切つてはゐなくて、最近ノリが悪くて白けるからちよつとハブろつか、と言つてゐるだけだつた。でももしえむが大丈夫になつたら今度は私がその立場に追ひ込まれるかもしれない。

 先手を打たないと私が弾き出される。

 だからルールを破つた。


 えむが死んだのはそれから三日後のことだつた。





  * * *





 温室に墜ちて死んだえむ。

 雨に打たれるブルーシート。

 空々しいお葬式。

 閉ざされたままの棺。

 手を繋ぎ合つて泣いてゐたワラビとマチももう死んだ。


「私がグループに入る時、ルールは絶対守らないと許さないつてお菊言つたよね。でもお菊は私が内緒で教へたことバラしてルール破りした。ワラビもマチも味方してくれなかつた。

 、」


 さうだらう、と思ふ。でも私にも立場があつた、と思ふ。まさか死ぬなんて思はなかつた。二十年も経つたのに。寒い。怖い。えむがまだ私に怒つてゐる。もう許してよ。

 えむは昔と同じ色白で、前髪が少し長く、その下の昆虫のやうな目がこちらを見てゐる。


「お菊」


 ひ、と小さく喉の奥が鳴つた。


「……マチとワラビが今どうしてるか、知つてる? 知らないの? 友達でしよ?」


 どうして。


 無くなつたはずの温室の中に私はゐる。

 屋根の穴から屋上の柵が見える。

 青い夕方の空を透かして、大粒の雨がだらしなく打ち付ける。

 地面には、へこんで黒々とした痕があつて。

 大きなトマトが割れてゐる。いくつも。


 それはえむ。

 それはマチ。

 それはワラビ。

 えたにほひのする赤茶けたものを垂れ流して、泣いてゐる。わらつてゐる。呪つてゐる。


――お菊も、かうなるんだよ。

――わたしたちのやうになるんだよ。


 足元がぐずぐず沈んでいくのは地面のせゐではなく私の足が融け崩れてゐるのだつた。

 身体の内と外の境が分からなくなり私は叫ばうと口を開く、開いた口からぐちやりと顔が割れて何か気持ちの悪いものが流れ出す、目玉にトマトの種が沁みて痛い、痛いのももう分からない、さうだ私がみんなに言つた。

 私がえむの秘密を喋つた。

 だから。


――だから許さないよ。


 えむの声が反響する。

 虫のやうな真つ黒な目が見てゐる。



――ルール破りは、許さないからね。





〈了〉

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