消えた100M

 最後のインターハイ予選も負けた。


 試合が終わったのは夕方で、

赤みがかったオレンジ色の空は敗者も勝者も分け隔てなく包み込むようで優しくて暖かった。


 その中でも中川はいつも通り、何も言わずに笑みも浮かべず淡々とクールダウンをする。


 別の高校で大した接点もなく話しかけた事など一度も無かったが、俺は声をかけた。


 何も考えずに衝動的に声をかけたため、

緊張で声が上ずっていたし、あまり内容は

覚えていない。


 だから思っていたことをそのまま飾らずに伝えた。確か「次も頑張れよ」みたいなものだったと思う。


 それを聞いた中川は一度だけこちらを

見つめて、ありがとうと呟き、そのまま

軽いジョギングを始めた。


 その後、顧問の前で形だけ全国の舞台で

リベンジを誓うと言った俺を待っていたのは何も入ってないプレゼントだった。


 高校最後のインターハイ、中川はいなかった。


 事故や怪我など何もない、ただ欠場する。

その連絡だけが大会の本部に届いたらしい。


 中川がいないということで顧問や部の

仲間達は色めき立ち、俺よりも喜んでいた。


 俺は心の中で小さく鳴り響く危険信号の

存在を密かに感じていた。


 そして最期の100M走が始まる。

周りの選手たちは中川がいないせいか、

いつもよりも気合が入っているようで何度もルーティンを繰り返していて忙しなかった。


 そんな中で俺は落ち着いて、ゆっくりと

スターティングブロックを踏み、いつもの

感覚を呼び起こす。


 音が鳴る、腰を上げて目の前のゴールに

のみ集中する。


 発砲音と共に体を前へと飛ばす。

最初は横に並んでいた選手たちを置き去りにし目の前には誰もおらず、今この100Mには

自分だけが走っていた。


 そうか、これが1位の景色か。


 その時に、どうしようもなく気づいてしまった。1位って孤独なんだと。


 中川はずっと1人で重圧と戦っていることを誰にも分かってもらえず、気が狂いそうなほど高い期待に押しつぶされていたのだと。


 そんなあいつにとって俺はたった1人の

ライバルで、唯一自分の気持ちを理解して

くれるかもしれないと心の中で考えていたんだろう。


 酸素を欲する肺と心臓が悲鳴を上げても、

足の筋肉に破裂しそうなほど乳酸が溜まっても、俺の脳は関係のないことばかりを考える。


 そんなライバルからの「次も頑張れよ」

その一言であいつは完全に孤独に陥ったんだ。


 俺は触れた感覚がないゴールテープを切った。湧き上がる高揚など何一つないまま、

力のないガッツポーズだけカメラに向けて

隠れるように、逃げるように、その場を後にした。


 表彰の時間は地獄だった。目の前にある金メダルはメッキで固められた偽物だと強く

主張し、いつもより1段上の景色は非難の目を浴びやすいように高く作られており、

断頭台に立たされた死刑囚の気分だった。


 あぁ、俺はもう2度と100Mを走らないだろう。表彰台に立ちながら心からそう思う。


 あいつのいない100Mには価値が無い。

その事に気づくのが遅すぎた。


 中川に勝てないと知った時に、俺はアスリートでもスポーツ選手でも無くなったのだ。


 もう俺には金メダルにも賞状にも意味が

無い、豚に真珠を上げても猫に小判を譲っても使い方が分からないのだから。


 唐突に表彰台を降りた俺は走り出す。

周りの雑音や光景が白に飲まれて消えていき、目の前には白線に囲まれた100Mの直線コースが浮かび上がる。


 もうすでにスタートの合図は切られていて

目の前には1人だけ走っている男がいた。


 見慣れた背中を追いかける俺は、努力とか

才能で走らない。


 ただ知りたかったんだ、あいつが負けた時に、どんな顔を、どんな表情を浮かべるのか。


 1度だけでいいから自分の力でそれを実現させたかった。


 目の前の男がゴールし、俺は負けた。

手を膝に突っ伏してうなだれると、

ゆっくりと白色の世界は消え、周りの音と

景色が戻る。


 ふと足元を眺めると100Mのコースを走りきる少し前の90M付近で止まっていた。


 やっぱり自分は100Mをもう走れない。

そして、もう2度とこの場所に立つことはない。そう思うと少しだけ爽やかな風が流れて汗を冷やしていく。


 それが少し似合わない自分に笑いながら

ゆっくりと100Mコースを歩いて引き返す。


 次の日、俺はランニングシューズを捨てた。





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誰もいない100M @tanajun

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