第5話
「ねえ、ケイスケって何してるひとなんだろう」
今夜、ケイスケは家に居ない。
一週間縁側沿いにある、ケイスケの自室に彼は籠ってそしてふらりとどこかへ行ってしまった。「来週帰る」とだけ書いた置手紙を残して。
ケイスケが何の仕事をしているのか、いまだに良くわからない。
ただ、少し前にもそんな風に一週間部屋から出て来なくて、そしてその後どこかへとふらりと出かけてしまって一週間帰って来なかったことがある。
その時は置手紙も言伝もなにも無くて、私と母はどこぞでケイスケが野たれ死んでいるものかと思い込んでしまい、帰って来たケイスケにひどく驚いた。
結局何食わぬ顔をして帰って来たケイスケはそのまま母に連行されて行った。
きっと怒られていたのだろうと私は思う。
ひどくしゅんと萎びた彼の表情は飼い主に叱られた犬のように見えて、私は少し笑ってしまった。母がそこまで心配していたのだから、怒られても仕方がない。
「さあ?私はあんまり知らないんだよね」
「そうなの?お姉さんなのに?」
「そりゃそうよ。別に聞いたこともないし」
「気にならないの?」
「そうねえ、まったくどうでもいいって言ったら嘘になるけど、まあ、生きていけるだけの仕事はしてるって思えばそんなに気にならないかもね」
「そういうものなの?」
「まあ、私はそういうものよ」
母が思ったよりもケイスケに対してとてもドライで、私は母の「大人の顔」を見てしまったような気がして少しだけ気まずかった。
私はまだ子供だったから、母が全てを話せなかったのだと、今になってはわかるけれど、それでも私はその時の母の装った無関心の仮面に馬鹿正直に騙されてしまっていた。それが私とケイスケの両方を守るためだったなんて、私にはわかるはずがなかった。
「大丈夫よ。あの子は帰ると言ったらちゃんと帰る子だから。
思ったよりも雪火ちゃんとケイスケが仲良くなってくれて私は嬉しいなあ。
雪火ちゃんもケイスケも、悪い子じゃないけど人見知りするから、どうしようかなあ、ってちょっと不安だったんだけど」
「そんなこと、思ってたの?」
「そりゃあね。2人とも初対面みたいなものだし」
「みたいなもの?」
「まあ、覚えているはずないよね。雪火ちゃん、すごくすごく小さい時にケイスケと会ったことあるの。生まれたばかりだったし、覚えてないだろうけれど」
母はそういって上機嫌にコーヒーを一口、口に含んだ。
私は目の前の甘いコーヒーを真似るように口へ運ぶ。母もケイスケと同じようにブラックコーヒー派だ。私はまたしても、置いてきぼりを喰らったような気分になる。そんなことを考える方が子供っぽい、とは思うけれどそれでもやっぱり感情っていうのはどうにも手に負えないものだと思う。
「それって、ケイスケも覚えているの?」
「さあね。たぶん忘れてるってことはないだろうけれど、ケイスケもどっかで止まっているようなところがあるから」
出会ったその時、指で何か数えていたケイスケを思い出した。
あれはもしかしたら、私の年齢を数えていたのかもしれない。前に会った時は赤ん坊だった姪がここまで人間になっていたのならば、それなりに衝撃を受けて当然かもしれない。
「ねえ、母さん、ケイスケって小さい時はどんなのだった?」
本人が居ないうちに、と悪戯心がむくむくと湧き上がった。ただの好奇心だ。
そうねえ、と母は遠い目をした。ずっと私の今を生きてきて、過去の話も滅多にしなかった母の過去を見る瞳はなんだか「女の人」のようで少し不思議な気分だった。
母だって、若い頃、学生時代があって、そして少しずつ、大人になって、そして私を産んで、そうやって親になって。当たり前だけれど、それは私にとってあまり当たり前ではなかった。少なくとも、ケイスケが来るまでは。
「どうっていっても、あのままねえ。意地っ張りで、可愛くて、優しくて」
「そうなの?」
「そうそう。だから、なんだか凄く可愛くて」
母はふふ、と少女のような笑みを浮かべた。
意地っ張りというのはなんとなくわかるものの、今のケイスケは可愛らしさとは大きくかけ離れた金髪頭の成人男性。優しい、というのは母限定の感情ではなかろうか、と私は思ったけれど口には出さなかった。別に優しくされないから不満というわけでもないし、急にそんな態度を取られても私はたぶん訝しいと思うか気味悪く思うかくらいのリアクションしか取れないだろうと思う。もっとも、ひどくされたというわけでもないのでそこに不満があるというわけでもないのだけれど。
きっと、ケイスケにとって母は「特別」なのだろうと思う。
何故なのかはわからない。幸か不幸か、少なくとも不幸と思ったことはないけれど、私には兄弟というモノがいないから。他の家の兄弟の話を聞いている限りそこまで仲が良いという話はあまり聞かないけれど、もしかしたら、小さい頃は違うのかもしれない。
「そういえば、そろそろだっけ」
母はふと思い出したように声を上げた。
「何が?」
「ほら、文化祭。雪火ちゃん、茶道部の手伝いと、文芸部の部誌の手伝いするんでしょう?」
「ああ、そうだったっけ」
「あんまり身が入らないの?」
「そういうわけじゃないけど、私、助っ人部員だから」
「私は楽しみにしているんだけど。雪火ちゃんの作ったもの」
母はそういって、笑った。
文芸部の部員が少なすぎて、部誌が冊子のように薄くなってしまうから、と部誌に寄稿するのが主な助っ人部員なる私の役割だ。
そこまで大仰なものは作れないものの、無いよりマシ、ということなのだろうと私は思っている。そもそもは文芸部員の友達に頼まれてのことだったけれど、それを見た去年の部長からいたく気に入られて、助っ人ならば、と私は参加することにしたのが始まりだ。
今年は私を誘った文芸部員の友達が部長に就任したので、いよいよ文句を言う人はいなくなってしまった。もっとも昨年だってわざわざ文句を言ってくるような人はいなかったのだけれど。
今年はどうしようか、と私は母に言われてそろそろ構想でも練るべきだと思い至った。
母は私の通う高校の卒業生だ。OBとして出張ることはないけれど、それでもやはり母校の催しものというのは懐かしいものらしい。
「そういえば、母さんは何部だったっけ」
「私?美術部だったよ」
「油絵?水彩?」
「まさかの彫塑。楽しかったな」
高校生だった母が、何を作ったのか。
楽しかった、と言って笑う彼女は近くて、どうしようもなく手の届かない場所を夢見るような目をしていた。私は、高校時代の母に会いたいと思った。
少女だった彼女は、何を思って、何を感じて、何を作ったのだろうか。
それは写真や作品だけでは物足りないものなのではないだろうか、と思った。同じ校舎で彼女は過ごしていたけれど違う時間を過ごしていたのだろう、と私は知らない母の横顔を夢想する。
そこに、彼はどういう登場人物として立っていたのだろうか。
同時にここにはいないケイスケのことを思った。同じ高校だったかどうか、私は実は知らないけれど、なんとなくケイスケは母と同じ学校を目指したのではないかと思った。県下1の名門だったはずだが、ケイスケは少しばかり努力すれば簡単にそこに入り込めたのではないかと思う。なんの根拠もなく。でも、母の近くに居る為にはそのくらい、あの男ならやりそうだと思った。
こどもおとな 津麦ツグム @tsumugitsugumu
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