第4話

果たして、不安と不満だらけのケイスケとの生活は私が拍子抜けするほどに普通だった。

常識人とは程遠そうな見た目のくせに、彼はそれなりに気を遣えてそしてそれなりに大人だった。必要以上にこちらの生活に入り込もうともしないし、だからと言って頑なに接触を拒もうとするわけでもない。

居間で黙って雑誌を読んでいたり、たまに一緒に摂る食事の片づけを手伝ってくれたり、気が向いた時に共用部分であるお風呂や台所の掃除をしてみたり、そういう同じ空間で他人と生活をする時のコツのようなものをケイスケは心得ているようだった。

「誰かと同居とか、そういうのしてたの?」

「急にどうした?」

今日は母が遅くなるということで、2人だけで済ませた晩御飯の食器を流しで並んで片づけていた。私はいつの間にか食器を布巾で拭く係になっていて、ケイスケは当たり前の顔をして食器を洗っている。2人分も3人分も同じ、と言って晩御飯に誘うようになったのはいつからだったか、あまり思い出せない。片づけを手伝ってもらえるのは楽ではあるし、同じ空間で食事を摂らない人がうろうろしている方が正直気まずい。

「いただきます」ときちんと両手を揃える金髪男というのもなんだか見ていて面白い。

「別に。手慣れてるなあって思って」

「俺だってそこそこの歳だし、一人身が長いから家事くらいする」

そういう意味じゃない、と私は思いながらも細かくいうのも褒めるのもなんだか癪で黙っていることにする。

2人分の食器なんてたかが知れている。皿洗いはすぐに終わってしまって、タオルで手を拭ったケイスケは水の入ったヤカンを火にかけながら「コーヒー飲む?」とこちらを見た。

母と私は夕食後によく食後のコーヒーを飲んでいた。ケイスケも食卓に加わるようになってからは食後のコーヒーも3人分だ。

飲む、と答えるとケイスケはわかった、と言って水屋からコーヒー豆の粉末とフィルターを取り出して手際良く準備を進めた。気を使っている、というような感じはしないけれど、ケイスケもそれなりに気を使っているのだろうか、と私はなんとなくその背中を見ながらマグカップを用意しながら思う。

カップから淹れたてのコーヒーの香ばしい香りがふわりと沸き立つ。

「あれだよな、同棲とかって話」

急に終わったと思っていた話の続きが始まって、私は一瞬自分が振った話題のくせに何の話をしているのかわからなかった。

「まあ、そうなのかなって」

「俺ってモテるから」

「それ、自分で言うところ滅茶苦茶ダサい」

「うるせえ。事実だよ事実」

自分で言ってしまうところは本当に残念だよな、と私は金髪男を見ながら小さくため息を吐く。こんな軽口を叩ける程度に私はこの男にほだされている。私の中で絶対的な基準として居座っている母が気を許しているから、この男があんまりにも普通に生活に溶け込んでいるから、他人のせいにして、私は自分があっさりとこの男と生活の一部を共有することを許してしまっていることを認めないようにしている。

「誰かと同棲していたの?」

その人は、いま、どうしてるの。ケイスケと一緒にいられなくなっちゃったの。

その人を置いて、ケイスケはこんなところに住んでいるの。

知りたいような、知らない方がよいような、聞きたいような、聞きたくないような、疑問がじわじわと湧き上がる。知ったところでどうする?聞いたところでどうする?

「同棲っていうよりも、正しくは同居な。仲がいい野郎3人で家借りてたんだよ。

個室もあって、キッチンとトイレと風呂だけ共用っていう、合宿所みてーな、そんな感じの気楽なやつだったな」

すとん、ほのかに漂っていた疑問が綺麗な四角となって胸に落ちた。だから、ケイスケは誰かとの共用部分の使い方も、必要以上に踏み込まない方法も、そういう諸々の振る舞い方について知っていたのだと。ケイスケにとっては、ここも他人と暮らしたその同居生活とさして変わらないものなのだろうか。そんな風に思うと私自身それを、必要以上に干渉しない、侵略しない、そういう生活を求めていた癖にそれが急に他人行儀なマナーの上に成り立った空虚な生活のように思えて、なんだか居た堪れなくなった。

もしかしたら、ひょっとしたら、私のそんな態度が、家族――少なくとも母の弟である彼―――の形を歪めているんじゃないだろうか。

彼がせっかく、あんなに慕っている姉である私の母と暮らしているのに家族らしく生活できないのは、私のせいなのかもしれない。私が居るから。本当はもっと距離の近い、もっと仲の良い、互いに支えあうような姉弟なのではないだろうか。私のせいで。

どうしよう、と漠然と思った。

私はどうしたらいいのだろうか。

私が居なかったらよかったんじゃないだろうか。

急に脳裡であの、ビールのグラスとオレンジジュースのグラスが浮かんだ。ケイスケがやってきたあの日の。

「母さんと、仲良かった?」

「ん?姉貴と?」

ケイスケは真っ黒なそれを一口飲んで、急に変わった話題に訝しげな表情を浮かべた。

私の目の前のマグカップの中の液体はカフェオレよりも少しだけ色の濃い、いうなれば泥水のような色合いをしている。

ケイスケは三人称として「姉貴」という。そして本人、母に対しては「恵」と呼ぶ。

それが当たり前のように滑らかに舌が動く。

恵。私は母のことを「母さん」としか呼ばない。だから、母はあくまで「母さん」であって「恵」ではない。なんだか、個人の名前で呼ばれる母の名前はなんだか母親ではない1人の女性のようで、不思議なような少しばかり気恥ずかしいような、おかしな気分になる。

「そう、母さん」

「どうだろうな、一般的に言えば仲のいい姉弟なんじゃねえの。

こんな風に同居するのも嫌がられたりはしてないし」

「でも、母さんが誰かをすごく嫌うっていうのもあんまり想像つかないね」

「確かにな。姉貴は昔からあんな感じだよ。能天気で、大雑把で」

私は思わず笑ってしまった。

能天気で大雑把。そう思っている近しい人が私以外にいると思うとどうにも可笑しい。

「母さんはやっぱり昔からそんな感じだったんだ」

「まあな。俺も心配になるくらいは。でも怒ると怖い」

ふいにケイスケの表情が暗くなった。すごく落ち込んでいる、というわけではない。

でも、確かにそれはいまだに彼を苛むものだとわかった。母がごくたまにする表情に良く似ていた。小学生のころの運動会、中学生のころの三者面談。そんな時にふと母が浮かべた表情に良く似ている。

私は滅多に母に怒られたことはない。それは、母が基本的に優しくて大らかなお蔭でもあるし、私がそこまで「悪い子」でもなかったということでもある。

全然顔は違うのに、やっぱり姉弟なのだな、と私はケイスケの表情を見ながら思った。

顔立ちは全然違うのに。

私はふと祖母の顔を思い出した。

母は祖母に似ていた。祖父は随分早い時に亡くなっていたらしく、母もほとんど顔は覚えていないらしい。私は私で祖母の顔はあまり詳細には覚えていない。

当時、この町からは遠く離れた町で生活していた私と母は滅多にこの家に来ることはなかった。休みをとったところで、1人で生活を支えていた母は実家に帰るなんて疲れることは出来ず、結局は家で静養する方が多かった。もしくは、私を動物園や遊園地に連れて行くことを重視していた。

ただいまあ、疲れたぁ、と玄関の引き戸が地面と擦れる音と一緒に母の声が聞こえた。

「母さんだ、」

私は席を立って玄関に向かった。

「おかえり。お疲れ様」

何時もよりも帰る時間が遅い時、母は随分と疲れている。

何時ものスーツ姿の母が精一杯の笑みを私に浮かべる。

今日は、金曜日だ。

「ケイスケ、冷蔵庫にビールある?」

追いかけてきたケイスケに聞く。

「缶ビールが一本と、あ、瓶ビール切らしてる」

「わかった。母さん、お風呂入ってきなよ。ごはん温めとくよ。ケイスケ、ビール買ってきて。どうせケイスケも飲むでしょ」

いいよ、と言ってケイスケはそのまま玄関のつっかけに足を通して外に出た。

別にいいのに、と母は困ったような表情でケイスケの背中を見送る。

私は母に着替えとタオルを押し付けて、お風呂へと背中を押していった。私はもう17歳になっていて、身長は随分と伸びて母よりも視線が高い。母の背中は私よりもずっと小さくて、その背中で背負うものがどれほど母を縛っているのか考えそうになる。

「雪火ちゃんは、なんだか似てきたなあ」

母は苦笑交じりにそう言った。

誰に似たのか、私は聞きたいような、聞けないような、そんな気分で黙って母の細い背中を押した。見たこともない、父親なのだろうか。それともケイスケなのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る