第3話

「久しぶり、恵」

砂糖を煮溶かしたような、甘い笑みが男の顔に広がる。この数分間で見てきた表情のどれとも違う表情だった。私は男のくるくると移り変わる表情から目が離せず、隣まで来ていた母がどんな顔をしているか見ている余裕なんてなかった。

「とりあえず、上がって。荷物は?」

「ご覧の通り。明日着く」

「わかった。ちょっとお風呂入って着替えてくるから。もう、早足で帰って来たからべたべたで気持ち悪いのよね。雪火ちゃん、なんか摘まむものあったっけ?」

「えっと、なんかあったと思う」

「わかった。お漬物でもなんでもいいや。よろしくね」

母はそういって飲みかけの缶ビールを私に渡した。私はどうしようかなあ、と渡されたそれを持て余す。別に飲めないわけでもないし、特別止められている訳でもないけれど、母からそうやって渡されたのは初めてだった。

ひょい、と両手で持った缶ビールが横から奪われる。男がぐい、と缶ビールを傾けた。

母の口紅が少しだけ男の下唇に移って、少しだけ色づく。

私はそれが面白くなくて「上がって」と視線を逸らして投げるように言った。



「やっぱり怒ったかな、なあ、お前どう思う?」

「知らない。ていうか、私、お前って呼ばれるの嫌なんですけど」

「呼び方なんてなんでもいいだろ。面倒臭い奴だな、そもそも名前名乗ってないじゃん」

「不審者に名乗るわけないじゃないですか。それに名乗ってないのは貴方もです」

「だから、お前の叔父だって。サイトウケイスケ。それでお前は?サイトウ何さん?」

「斉藤雪火。雪の火でセツカ」

雪の火、セツカ、ケイスケは飴玉を転がすように何度か繰り返す。好きそうな名前だなあ、と呟いた言葉が少しだけ気になったけれど私は何も言わなかった。

中々帰ってこない母を待っている間に私はお漬物と、微妙に余っていて昼ごはんにしようとしていたおかずを大皿に区分けして盛って食卓に出した。

いつも母が座っている場所にケイスケが座っていて、古い家の見慣れたキッチンに居座る金髪男のちぐはぐさが凄い。この金髪男は、例えば夜の飲み屋だとかバンドマンのたむろするライブハウスの近くのバーとかにいる方がよっぽど自然だ。

ぽり、とケイスケが箸できゅうりのお漬物を摘まんで口を動かす。大きく缶ビールを傾けたけれど、どうやら飲み干してしまったらしく喉が動く様子もなくすぐに食卓に缶を戻した。軽い音が響く。

「もう一本、飲みます?」

「いいや。姉貴が来るまで待っとく」

ケイスケは頬杖をついてぼんやりとキッチンを見渡した。流しに面した擦り硝子越しに明るい昼の光が差し込む。この家は、もしかしたらケイスケの実家だったりするのだろうか、と私は今更過ぎることを思った。母の実家なのだから、弟であるケイスケの実家であっても何の不思議もない。少なくとも、私と母がこの家に引っ越してきた時から数えて10年近くはこの家に彼が足を踏み入れたことはない。

「すっきりした。お待たせ」

どのくらいそうしてお互い碌に何も話さないまま、沈黙が流れていくのを目で追っていたのかはわからなくなってきた辺りでお風呂から上がった母が居間に続く引き戸を開けて入ってきた。

「あれ、あんまり食べてないね。お腹空いてなかった?」

母はほとんど手付かずの大皿を見て首を傾げる。私は口を開きかけてすぐに噤んだ。今まで、母と私しかいなかったので問いかけられたら、答えるのは私だけだった。だけど、今はケイスケもいる。私に対して聞いたのか、ケイスケに対して聞いたのかわからなかった。

「まあいいや。あ、椅子。椅子無いわ。居間に移動しよう」

母が大皿を掴んで行儀悪く引き戸を足で開けた。

冷蔵庫から瓶ビールとジュースを取り出して食卓に一度置いた。私は水屋から人数分の小皿とグラス、そして母の箸を持って一度居間に向かう。後ろから付いてくる気配に振り向くと食卓に置いていた瓶ビールとジュースを抱えたケイスケが立っていて、私は思わず小さくお礼を言った。呟き程しかないその声が聞こえたのかはよくわからなかったけれど言いたいことは伝わったのか、ケイスケは「別に」と言って首を振る。


とりあえず、乾杯。

母の声に促されて私たちはグラスを上げた。

しゅわしゅわと泡を上げるビールの入った2つのグラスとオレンジジュースの入ったグラスが軽くぶつかって涼しい音を立てる。丸っこいグラスと円柱のグラスと四角柱のグラス。

バラバラの形をしたそれらはちぐはぐなまま揃った私たちに良く似ているように思えた。そして、2つのビールと1つのオレンジジュースは、私がぼんやりと感じた疎外感を肥大させる。仕方がない話だ。私は子供で未成年で、そして母とケイスケは大人なのだ。

誰もそんなことは言っていないし、そんな態度を取っている訳でもないのに、私は自分がまだ幼いことをまざまざと見せつけられたような気分で、そんな子供じみたことを考える自分の子供っぽさにうんざりとした。

「いやあ、明るい時間に飲むお酒って美味しいわ」

広がる青空を見上げながら母は上機嫌でグラスを傾けた。

それはそうだろうけれど、たぶん選ぶ話題を間違っていると思う。

「それで、母さん、これってどういう状況?」

そうねえ、とグラスをちゃぶ台に置いて母は私とケイスケと順に見た。

「ケイスケが私の弟で、雪火ちゃんは私の娘」

「それは知ってる」

「それなら話は早いわ。まあ、まだ決定ってわけじゃないんだけどね」

「どういうこと?」

「何時来るかってことまで言ってこなかったから、すっかり忘れてたんだよね。

そのうち帰るからよろしく、なんて10年前に言われたって中々本気に出来るわけがないでしょ」

「決めてなかったんだ。決めるつもりも無かったし」

仕方ねえじゃん、と悪びれる様子もなくケイスケは言う。

どうやら、10年前に母と彼はそういう約束をしていたらしい。というかそんなの初めて聞いた。事前に聞かされていたところでそれはそれで困ってしまったのだろうけれど、それにしてもあまりに唐突だ。もしかしたら、母はそうやって私が未確定な未来を持て余すだろうからと今まで言わなかったのかも、と少しだけ思ったけれどきっとそれがゼロではなかったにせよ、忘れていた、という方の理由が圧倒的に強い気がする。

大雑把なのは今に始まったことではない。

「それで、まだ決定ってわけじゃないっていうのは?」

私はわずかな希望を持って母に聞く。もしかしたら、ケイスケがここに住むというルートを回避できるのかもしれない。急に他人も同然の男が居候するなんて、気心が知れた相手ならともかく、初対面なのだし、正直苦手なタイプのようだし、叶うならば全力で回避したいところだ。

「ちょっとお試しで住んでみて、合わなかったら解消ってこと。

だって、雪火ちゃんの生活だってあるしね。

でも、試さない内から駄目っていうのもなんだか詰まらないし、案外うまくやっていけるんじゃないかなあ、って私は思ってるのよ。

だって私の自慢の弟と大好きな愛娘なのだから」

母はグラスを傾けてにこりと笑った。

「ああ、別に一生ってつもりも今のところないし取りあえずってことで」

「え、なにそれ」

よろしく、と手をひらひらと振るケイスケの笑みに殺意を覚えた。


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