第2話
物心ついた時から私には「父親」という存在がいなかった。
母が昔住んでいて、祖母が亡くなるまで住んでいた古い民家に私と母は2人で住んでいる。田舎の古い家というのは往々にしてとても広い。2人では少しばかり広過ぎる。だからもう少ししたら犬でも飼ってみようか、と私と母は無邪気に話していた。
猫もいいけど、犬もいいよね、散歩に連れて行かなきゃだからダイエットにもなりそう、と母は少しだけ丸みを帯びた頬をむに、と自分で抓って見せた。別に気にするほどではないとは思うが確かに母は少しだけ丸い印象が強い。それは色白な肌がそうさせる気もするし、柔らかい笑顔がそうさせる気もする。
厳格とは程遠く、どちらかと言えば抜けていて、他の同級生の親と比べて歳も若い母はどちらか言えば歳の離れた姉か友人のような人だ。母も母でもしかしたら、私のことをそんな風に思っているのかもしれない、と名前を呼ばれる度に思う。母は私のことを「雪火ちゃん」と呼ぶ。柔らかい声で。しっかり者、と言われることの多い私と緩い母。気儘な女2人の生活に私は不満を持つことも無い。
他の友人は大抵持っている「父親」という存在を羨ましいと思うことは一度もなかったと言えば流石にそれは嘘になってしまうけれど、それはどちらか言えば「ペットを飼っている友達が羨ましい」だとか「携帯を持っている子が羨ましい」だとか、その程度のものに過ぎなかったので、思い悩むようなことも無かった。それ以上に両親の不和やすれ違いやらを目の当りにして巻き込まれている話なんかを聞くと「面倒臭そうで、むしろそういうことに遭遇しない自分は幸運だ」とさえ思ってしまう。
そんな気楽な生活が一生とは言わないまでも私がこの家を出るまでは続くと私はなんの疑いもなく信じていた。ケイスケが来るまでは。
母娘2人の穏やかな生活に突然入り込んだ闖入者は文字通り、突然やってきた。
その日学校は休みで私は家でだらだらと図書室で借りた本を陽の当たる縁側に寝転がって捲くっていた。
私が所属しているのは茶道部と文芸部。しかし活動時期は限られていて年に2度のみ。期間で数えても合計して2週間あるかどうかという短さだ。私はそれについて誇りを持って「助っ人要員、或いはパートタイム部員」等と名乗っている。籍だけはきちんと置いているので「幽霊部員」ともいえるけれど、イベント時さえ顔も出さず役にも立たない彼らと違って私はイベント時にきちんと部員として尽力するのであまり同一視はされたくないところである。
先生たちはどうにも納得したようなしていないような微妙な顔をするが、これは茶道部、文芸部の両部長と私の相互利益を最適な形で追い求めた結果でもある。
普段の活動ではそうそう人手を求めることもないが、イベント時の準備や設営、にぎやかしに人手不足を痛感する羽目になる弱小文化部。普段から真面目に活動するのは面倒だけどイベントを手伝うのはさして苦でもなんでもない私。なんてWIN―WINな関係だろうか。
それはともあれ、私はやることもなく午前中にカウントされる時間にのそのそと布団から這い出て、母が仕事に行く前に用意しておいてくれた塩を少しいれて焼いた卵と生野菜を洗って切っただけの、素材の味を楽しめる朝ごはんを食べた。
茹でる時間も惜しかったのか、生のまま親指ほどの太さにカットされた人参は噛むたびにごりごりと不穏な音がする。洗濯物の山を色柄物とそれ以外に仕分けて、適当に洗濯機に突っ込む。目分量で洗剤をセットすればあとは洗濯機がやってくれるので非常に楽だ。
私はごうんごうんと鈍い音を立てながら震える洗濯機を一瞥して、通学鞄から図書室で借りた川端康成の全集を引っ張り出した。布張りハードカバーの本は高級感と厳めしさはあるけれどそれだけだ。昨日も持ち帰る時に3回ほど後悔して川に流してやろうかとさえ思った。特に好きというわけでもないけれど、教科書に載っていた短編が面白くて、しかも良く眠れた。これは穏やかな昼寝のお供にぴったりではなかろうかと思いついてからは早かった。まさかハードカバーしかない、しかもめちゃくちゃ重たい、というのはちょっと予想外だったけれど持ち歩くつもりでもなかったのでそこは持って帰る時と、返却する時だけ我慢すれば良いだけの話だ。
庭に面した縁側のガラス戸を全開にすると山から降りてきた涼しい風が流れ込む。昨日縁側の隅に置きっぱなしにしていた紫色の草臥れた座布団を胸の下に挟み込んでうつ伏せに寝転がる。仰々しい表紙を開いて面白そうなページを探して適当に目を走らせると頭の中は会ったこともない誰かの言葉にゆっくりと埋め尽くされていく。さわさわと微かに聞こえる木立の声が遠のいていく。
じりりりり、とくぐもったベルの音に手を引かれて現実から遠のいていた思考が戻る。
居間の方から聞こえる季節外れの蝉の鳴き声。何分古い家のせいで恐らくベル部分の部品が錆びてきてしまっているのだろう。本当に蝉の鳴き声に良く似ている。
1度目は無視した。今日は誰もいません。休業中です。
2度目で私は身体を起こしかけて挫折した。結構な時間うつ伏せになっていたようで腕が痺れて動けそうにない。またの機会にどうぞ。
3度目に私は目を閉じた。季節が来るまで待てばよいのに。2カ月後とか。
小さな足音が葉っぱの囁きに混ざって聞こえる。どうやら諦めたらしい。宅配のお兄さんならば「すいませーん」と声を上げるはずなので、宅配ではない。恐らく。
この辺りは高齢者が多いのでベルが聞こえてないなんて日常茶飯事だ。だから地域担当の宅配サービス業の方々は声をかけるようにしている。
がさがさ、と生垣が震える。風に煽られて、ではない。どう考えても人為的に揺らされているような、そんな震え方だ。生垣の隅の、知らないと気づかないような小さな勝手口が錆びた蝶番の軋んだ音を立てながらゆっくりと開いた。不用心ではあるけれど、あの勝手口はずいぶん前から錠前さえも壊れてしまっていて、まあ、いいか、分かりにくいし、と暢気な私たちは放置したままだったのだ。
「やっぱり居るじゃねえか、出ろよ」
「え、誰」
小学生の背丈程しかない勝手口を潜って入ってきたのは見慣れない若い男だった。
脱色された金髪は乾燥したように色褪せていて微妙なグラデーションを描いている。根元に向かって濃い色になっているそれに友達が飼っていた柴犬風味の雑種犬を思い出した。確か名前はゴンスケだとかゴンタだとか言った気がする。ゴンスケ(仮)と決定的に違うのは男の目だ。あのちょっとお馬鹿で無邪気なゴンスケ(仮)の純真そうな目とは違ってお世辞にも良いとは言えない、冷たそうで突き刺すような、そんな目だった。
それが私をまっすぐに見詰めるものだから、私は逸らすこともできずにただ見つめ返すしかできなかった。というか、不審者。不法侵入。
「ん、お前、姉貴知らねえ?」
「姉貴?ていうか、誰ですかあなた」
「だから、」
鬱陶しそうに、心底面倒臭そうに金髪男は頭を右手で掻き混ぜた。左手はズボンのポケットに突っこんだままだ。まるで事情が呑み込めない。というか、間違っているのはこの金髪男の方ではないのだろか、家を間違っている、とか、と私は突然の不審者を目の前に必死に千地に散ってしまいそうな思考の端を掴んだまま男を見た。一方で男はまるで事情が呑み込めない私が悪いと言わんばかりの態度だ。なんで初対面の人間にそんな表情を浮かべられなければならないのだろうか。ちょっと腹立たしく思っても仕方がないと思う。
「サイトウメグミだよ。サイトウ、メグミ。ここの表札、サイトウだろ」
「お母さん?」
「お母さん?」
気まずい沈黙が流れた。2人揃って首を傾げているのは傍から見れば間抜けの一言に尽きるだろう。沈黙に耐えきれずそれを破ったのは私の方だった。
「斉藤恵は、私の母の名前です。あなた、誰ですか?」
「母?」
まじかよ、いや、でも、と金髪男は呻くように言ってから大きな溜息を吐きながら指を折って何やら数えてから私の顔をまじまじと見つめた。さっきの威嚇するような目ではない。ただ、何かを確認するような、そんな目だった。そんな風にされても、私の母の名前は斉藤恵だ。それよりも姉貴、という言葉が引っ掛かった。私も彼を真似るように金髪男の顔をまじまじと見つめる。この辺りでは珍しい金髪につい視線が引き摺られてしまうけれど、顔立ちは彫の深い、それなりに整ったものだった。浅黒い肌に長く伸びた腕。瞳も威嚇されているような敵意さえ感じなければ色素が薄くてどこか異国めいて綺麗だ。
ただ、母と似ているかと言われるとどうにも似ているようには見えない。
色白で洋服よりも和服の方が似合うタイプで、綺麗というよりも可愛らしい、愛嬌がある、と評される母と目の前の金髪男はむしろ真逆だ。
「まあいい。お前が姉貴の娘ってことなら俺の姪か。それにしても全然姉貴に似てねえな」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。弟って本当ですか」
金髪男の顔に、傷ついた幼い子供の表情が横切った。それはほんの一瞬のことで、私の見間違いだったのだろうと思った。
さてどうしたものかと私は腕を組んだ。
姉の弟、という男の言葉を信じるのならば私は彼の言うとおり、彼の姪、そして彼は私の叔父ということになる。しかし確証が持てない今はほいほいと家に上げてしまうのもかなり危ない気がする。第一、弟がいるなんて話も、その弟がうちに来るという話も、どちらも母から聞いた覚えはない。
「いいから取りあえず上げろよ」
「嫌です。不審者じゃないですか」
「だから、お前の叔父だって。姉貴からなんか聞いてないのか」
「聞いていたら、こんなに困っていません」
わかった、と男は諦めたように吐き出して踵を返した。
不審者撃退、と私は知らず浅くなっていた息を吐く。ただこちらに向けられた男の痩せた背中が何処か憔悴しているように見えた。言い難い罪悪感のようなものがちくりと胸を刺す。
表の引き戸が騒々しい音を立てた。
ただいまぁ、お腹空いた、っていうかビール飲みたい、ビールビール、と能天気な声が台所の方から聞こえた。ばたん、と聞こえるのはおそらく冷蔵庫からお目当ての缶ビールを取り出してはやる気持ちを抑えきれずについ乱暴に扉を閉じたせいなのだろう。壊れるから、気を付けてと言ったのは先週のことだ。毎回言っても治らないからそろそろ諦めるべきかもしれない。
振り返った男の口が「姉貴」と形作るのと私の口が「母さん」と形作ったのは同時だった。
軽い足取りが近づいてくる。そこでようやく、今日は半日休みを取ったから午後には帰ってくると母が昨日言っていたのを思い出した。珍しいけれど、ここ最近は残業が続いていたからなのだろうと私は特に理由を聞かなかった。
廊下側から和室の襖が勢いよく開けられる。そこに立っていたのは間違いなく母だった。スーツ姿のまま缶ビールを傾ける。ごくごくと景気良く飲む姿はまさに企業戦士、の休日と言った風情だ。それほど強いわけでもない割に大の酒好きの母の頬は既にほんのりと赤く染まっている。
「あれ、雪火ちゃんまだ寝間着なの?縁側気持ちいいよねー、私もお風呂入って日向ぼっこしながら昼間酒、」
しようかなあ、と言いかけて母はようやく娘の様子が常と違うのと庭に立つ闖入者の姿に気づいたようで口を閉じた。というよりももっと早くに気づいてもいいものを。
こういうところが図太いといえばいいのか、大雑把といえばいいのか。
「ねえ、母さん、この人誰?」
私は庭に立つ金髪男を指差した。
男は呆れたような安堵したような、そしてどこか泣き出しそうな顔で突っ立っていた。私は男の表情にどくりと心臓が跳ねるのを感じた。男が、「大人」がそんな子供のような、頼りない表情を浮かべるところを見たことがなかった。
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