こどもおとな

津麦ツグム

第1話

「雪火ちゃん、ちょっとケイスケ呼んできて」

まな板の上で蠢く瀕死の魚を目の前にして腕を組んだ母が地を這うような声を絞り出した。ケイスケ、とは我が家に数か月前にひょっこりやってきた居候だ。何をしている人なのか、私は良く知らない。毎朝スーツを着て家を出て、夕方過ぎに帰ってくるのが大人の当たり前の姿なのだと私は母の姿を見て勝手にそういうものだと思っていたけれど、そんな風にしているケイスケの姿は見たことがない。年齢は、確か母の2つ下だったはずなのでとっくの昔に成人を迎えている。ケイスケは釣りに行ったり、散歩をしていたり、かと思えば持ってきたパソコンを叩いて一日を過ごしていたり、なんというか、気儘に過ごしている。今日はどうやら釣りをしてきたらしい、と私は夕陽を浴びてぬらり、と光る銀色の鱗と妙に生白い腹を気味悪く思いながら静かに弱っていく魚を見つめた。

「わかった。ちょっと探してくる」

お願いね、と母は包丁から手を放してまな板の魚を視界から追い出すように大根と人参が熱湯の中で踊る鍋に向かった。どうやら、取りあえず捌いてみよう、という無謀な試みは母の中で却下されたらしい。そういえば、今まで魚と言えばスーパーで買ってきたお刺身や切り身を焼いたものばかりだった。もしかしたら、母は生魚を捌くのが苦手なのかもしれない。当たり前に最初から生活の上で削除されていたものというのは、案外気づきにくいものだな、と私は目に焼き付いた生白い魚の腹の上下運動をぼんやりと思い出した。あれが苦手、というのはわかる気がする。私だって出来れば触りたくはない。

落ちかけた太陽の凝縮された熱のような西日が庭に面した廊下に落ちる。障子が大きく開かれていて、足先が廊下に投げ出されているのが見えた。大きくて無骨な足は日頃サンダルばっかり履いているせいで薄らと紐のところだけが白く焼け残っている。

足音を抑えながらゆっくりと近づいた。少し前までは黴と古い本の匂いばかりが鼻についたその和室は今では苦い煙草の匂いと、珈琲の匂いに侵食されている。誰も使っていないその部屋は母もあまり近づこうとしない、ある意味見捨てられた部屋だった。たまに私が暇潰しの本を探しに潜り込むことはあっても壁を覆い尽くす古い本の圧迫感がどうにも息苦しくてずっと居たいと思うようなことはなかった。

 畳の上で男が目を閉じている。金色の髪が薄暗い部屋で鈍く光る。両手を胸の上で組んで足を広げている姿はどこか行儀の悪い死体のようにどうにも変な感じだ。静かに上下する胸は薄っぺらくて骨の形をTシャツ越しになぞれてしまいそうだ。普段見下ろすことはない男の顔をじっと見つめる。彫の深い顔立ち。間違っても良いとは言えない目つきが瞼に隠されていて、真っ直ぐに引き結ばれた薄い唇は肌とそう変わらない色をしている。

「ケイスケ。ねえ、」

触れるのはなんだか憚られて、私は男の名前を呼んだ。掠れた声はまともな形をとることさえ叶わないまま畳に吸い込まれていく。

「ケイスケ」

傍らに座りこんで私は恐る恐る肩に触れる。

布越しのそれは酷く硬くて、人体というよりも枯れ木や石に良く似ている。じわり、と額に汗が滲んだ。起こさなくちゃ、と冷静さを欠きつつある私の頭の中で言葉が様々な色で点滅しながら同じ場所を高速で巡っていく。

母が待っている。白い腹。銀の鱗。アンモニア臭。だから、起こさなくちゃ。

「ケイスケ、起きて。ねえ、」

私は畳についた手を握りしめた。伸びてきた爪が掌に食い込んで少しだけ痛い。

彼の閉じた瞼が強く歪んで目尻に皺が寄った。薄目がぼんやりと天井からぶら下がる電球を追ってから緩慢なスピードで眼球が回転する。薄い色の瞳がこちらを見る。ちかり、と目が合った音が聞こえた気がした。

「なんだよ、」

「母さんが呼んでる」

身体を起こしたケイスケは首を回して、大きな欠伸を1つ噛み殺した。

「なんで?」

「魚。なんかおっきいやつ。たぶん、母さん捌けないから、困ってるんだと思う」

「あれか。俺も捌けねえんだよな、呼ばれたところでなんも出来ねえけど」

「知らないよ。そこは何とかしたら」

私は呆れてしまって突き放すように言った。まさか、釣ってきといてケイスケもどうにもできないとは思わなかった。

「仕方ねえな。ちょっと隣の爺のところにでも頼むか」

「隣の爺?鈴木さん?」

私は首を傾げた。隣に住んでいる老夫婦の存在は知っている。回覧板を回す時に顔を合わせることはあってもそれ以上の接触や会話と言ったものはしたことがない。鈴木さんについて思い浮かぶことと言えば、年末と夏に、息子夫婦と思わる人たちがやってきて、連れて来られた小さな男の子と女の子の兄妹が庭を走り回って、余所の場所の空気を纏っている彼ら家族をちょっと私は物珍しい気分で眺めたりする程度。

「お前、まあ、知らないか。あそこの爺、昔は漁港で働いていたらしくて魚捌けるんだよ」

「そうなの?」

「この辺りの釣りの穴場教えてくれたりな」

へえ、と私は気の籠らない相槌を打った。


ケイスケは母に言われてうちにあった瓶ビール3本とあの魚を携えて鈴木さんの家に向かった。中々に重いのかよろけながら出ていく背中は少しばかり萎んで見えた。きっと、母に褒めて貰いたかったのだろう。あと、晩酌用のビールが減ってしまったのが少しばかり残念なのかも知れない。今日は金曜日で、母とケイスケが晩酌をする日なのだ。

決めているわけでもないようだけれど、今ではすっかりお決まりになってしまっている。

そしてそれをケイスケは結構楽しみにしている。

無愛想な割にケイスケは分かりやすい奴だ。

本当に大人じゃないみたいな、子供みたいな大人。


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