第23話 自然の猛威はやってくる
美奈子の住む地域には、台風が近づいてきていた。まず最初に日本の南の方で発生し、そこから進路が変わりながらもこの地域へ近づいてくる。
毎年いくつかの台風がやってくるが、美奈子が実家暮らしを再開してからは初めてである。
「ちょっと、美奈子。台風で買い物できなくなるから、メモしたものを買ってきてちょうだい。お母さん、今手が離せないの」
台風が通過するのは深夜遅くにかけてと天気予報では伝えていた。
まだ台風が上陸していないのにも関わらず、窓の外から見える木はたなびいており、すでに風が強くなっている。
「いいけど、風強いなぁ……自転車は無理だね。車借りてくねー」
「鍵はそこにあるわよ」
食卓の上に置かれたメモと鍵を手に取り、肩からかけているバッグの中へしまう。
「それじゃ、行ってきまーす」
「気をつけて行ってきてちょうだいね!」
「はーい」
強風で木々が揺れ、葉が舞い散る。
そんな天気の中、美奈子は車を走らせた。
どこの家庭も台風前に買い出しを済ませようとしていたようで、近所のスーパーは人が多かった。
「野菜はニンジンと、タマネギ……」
買い物カゴを持ち、頼まれていたものを探す。少し時間が遅かったせいか、棚に並ぶ野菜は多くなかった。
その中でもどれが新鮮かを見極めているとき、隣に見知らぬ女性がニコニコと近寄ってきた。
胸まであるブロンドヘアーとブルーの瞳が強く印象に残るその女性は、どんどん美奈子に近づくと、口を開いた。
「Hi. I'm Dorothy. Are you a takumi girlfriend? It looks just like a photo girl in the Takumi's room.」
「え、え?」
突然聞き慣れない言語で話しかけられ、かろうじて聞き取れたのは「匠」、「ガールフレンド」だけ。彼女が話している言葉は英語だということはわかったが、久しく英語に触れていなかったこともあって、理解が追いつかない。
「え、えーっと……のー、です。あいあむ、のっと、ガールフレンド……? ノーマルフレンド?」
必死に絞り出した言葉は、英語ではなく日本語である。
それでも彼女は理解したようで、目を見開いて驚いている様子だった。
「Really? I can not believe it. My husband said you were my brother's girlfriend.Do you hate him? He is a nice person.He is kind, serious and honest.」
「えーっ……え、っと……」
ペラペラと流暢に話す彼女についていけず、美奈子の顔は次第に引きつっていく。
「ドロシー!」
遠くから聞こえた低く慌てた声。
その声を聞いた彼女は声の主へ顔を向ける。美奈子も同じく顔を向けた。
「一人で行くなって……って、美奈子じゃんか。こいつが迷惑かけて悪かったな。ドロシー、うちに帰るぞ。じゃあな」
買い物を終え、スーパーの袋を下げてやってきたのは匠だった。慌ててやってきたようで、少しだけ呼吸が乱れている。
ドロシーと呼ばれた彼女の手を引き、匠はスーパーの外へ向かう。匠がドロシーへ何かを言っていたが、言われている本人は気にする様子もなかった。去り際、彼女はカタコトの言葉で、「ガンバレ」と美奈子に言った。それが何に対しての言葉なのかは分からない。
「彼女、なのかな? でも……」
匠の彼女だとしたら、美奈子に頑張れとは言わないだろう。だが、匠は彼女と親しい様子でもだった。
真実がどうなのかはわからない。でも、もし彼女だったとしたら、二人の関係を邪魔してはいけない。
美奈子の匠へ抱いていた気持ちを隠すことで、誰も傷つくことはなくなる。
残念な気持ちはもちろんある。それでも一番いい手なのだと、諦めが肝心なのだと自分に言い聞かせた。
「やば、遅くなる」
スマートフォンで時刻を確認すると、家を出てから三十分は経っている。
家から近いこのスーパーで買い物をしたとしても、三十分あれば行って帰ってくることができる。
家に帰るのが遅くなるほど、夕食が遅くなるのはもちろん、台風が近づいてくる。
慌てて必要なものをカゴに入れ、買い物を済ませた。
スーパーの外へ出ると、空は厚い雲で覆われ、一層強く風が吹いていた。その風は、美奈子の髪をぐしゃぐしゃに乱れさせる。
美奈子の心は、この荒れた天気のようだった。
自分は恋愛に現を抜かしている場合ではない。自分には農業という仕事がある。まだまだ未熟な自分は、それにまっすぐ向き合うことが必要なのだからという考えが、農業を頑張らなくてはと美奈子の足を前へ前へと進ませた。
「あら、遅かったわね。台風、大丈夫だった?」
「うん。一応、ね」
買ってきたものを冷蔵庫へとしまいながら、晴美に答える。
「そういえば、お父さんは?」
外はもう薄暗くなっている。
風も強ければ、雨も少しずつ降り始めている。
今から外へ行くのは、危険だと感じさせるほどの天気である。
「お父さんならさっき、田んぼを見てくるって言って出ていったわ」
台所で野菜を切る晴美の声は、冷静だった。
「危ないじゃん! ニュースでもよくやる、増水した川に落ちて流されて……ってやつ!」
都会でも、台風の度にニュースで報道されていた。「田んぼの様子を見に行くと言って出ていった後、行方不明となっておりましたが」という報道を見聞きするたびに、なぜ危険と分かっていて見に行くのか疑問だった。
だが、自分が米農家として働き始めてからその理由がわかった。
今までちょうど良い水量を保っていた田んぼに、台風がもたらす大雨が水量を増やしてしまう。なので、降雨量によって水門を開け閉めすることで、水量を調節する。増水している場合は、危険が伴う。しかしもし自分の田んぼの水量を調節しなかったら、その田んぼから水は溢れ、近隣の田んぼへ水が溢れる。つまり、自分だけではなく周囲の人達へも被害を与えてしまうのだ。
自動で水門を開け閉めしてくれる機械を導入したならば、台風の日に外へ出る農家も減るだろう。しかし、導入する農家は少ないため、水路に落下し命を落としてしまう事故が後を絶たない。
「まだ雨もそこまでじゃないし、大丈夫よ」
「いやいやいやいや。台風を甘く見すぎだって」
「そんなことないわ。ほら、帰ってきた」
玄関が開く音が聞こえ、美奈子がそこへ向かう。
そこにはびしょぬれになった賢治がいた。
「ちょうどいいとこにきたな。美奈子、タオルを持ってきてくれ」
履いていた長靴を脱ぎながら言う。
何事もなく帰ってきた賢治に安心した美奈子だったが、同時に怒りもこみ上げてくる。
「はい、タオル……ねぇ、お父さん」
美奈子からタオルを受けとり、頭を拭きながらその声に耳を傾ける。
「こんな天気で見に行くなんて、危ないじゃん。前日に水門を見ておくとかすればいいじゃん」
「それもあるな。一応雨が降る前に見に行ったんだが、去年より場所が増えた分、見終わらなかった。途中で降ってきちまった」
去年と同じ広さだったら、雨が降らないうちに帰ってきたのかもしれない。だが、それは言い訳にしかならなかった。
「だーかーら。そういうのも踏まえて、一人で全部やろうとするから土砂降りになって、川に落ちちゃうかもしれないでしょ! 何で私にやれって言わないの? 私も農家としての仕事をやるの!」
賢治が危険なことをしていること、それに加え美奈子も農家を継ぐと決めたのに何も言わなかったこと。その二つが美奈子を腹立たせた。
「お、おう……次からは言うよ」
滅多に怒ることがない美奈子が声を荒げたので、賢治は目を丸くした。
「もう!」
美奈子はぷりぷりしながら、自分の部屋に帰る。
そしてベッドへダイブした。
「はぁぁぁぁ」
枕に顔をうずめながら、大きくため息をついた。
今日は散々な一日であった。
気圧のせいもあって、頭も痛くなり、精神的にも体調的にも最悪である。
台風と一緒に、不調が全て去ってくれればいいのに。そう願うしかなかった。
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