第22話 年齢なんて忘れるほどにはしゃいだ

「おい、起きろ。もう、着いたぞ」


 ユサユサと肩を揺すられ、重い瞼を開ける。

 ぼんやりとする視界には、匠の姿があった。


「水族館。駐車場はがら空きで車がかなり少ないから、空いてる」


 窓から外を見れば、灰色の空と、すぐ前に「いらっしゃいませ」と書かれた大きな看板が目印の水族館の入り口があった。

 青を基調にした建物の中へと、小さな子供を連れた家族が消えていく。

 美奈子が眠っている間に、目的地に着いていた。


「ああ、ごめん。すっかり寝ちゃって」


 大きく息を吸い込むと、頭が覚醒してきた。

 毎日早起きの生活をしてきたので、車が走行するときの振動がほどよく、すぐにぐっすりと眠っていた。

 時刻は十一時の手前。一時間は余裕で寝ていた。


「疲れてたんだろ? 安心しろ、イビキはかいてなかったぞ」


「……それはよかった。って、いつもかいてないからね?」


 自分が寝ているときにイビキをかいていないと、自信を持って言えるわけではない。もしイビキをかいていたら恥ずかしいが、鼻で笑う匠の様子から、匠が冗談で言ってたのだと分かるので、ほっと一安心した。

 目的地に着いたので、荷物を持ち、車の扉を開ける。

 入口は目の前ではあるが、まだまだ雨は降り続いており、傘は手放せない。


「ほら」


「ありがと」


 美奈子が傘をさそうとしたが、先に降りていた匠の傘に入る。

 水族館の入口はすぐそこだが、相合い傘という形となり、年甲斐もなく照れる。そのまま無言で歩き、二人は入場窓口にチケットを見せた。


「はい、こちらがパンフレットです。いってらっしゃいませ」


 笑顔のスタッフに見送られて、水族館の中へ。

 傘は不要なので、相合い傘は終わった。ドキドキした気持ちを落ち着かせるためき、美奈子が匠の傍から離れ、匠の数歩前を歩いて進んでいく。その足取りは軽やかであった。

 大きな水槽で泳ぐ魚もいれば、フワフワ漂うクラゲやクリオネ、ラッコまで展示している。

 人も少ない館内は、ゆっくり見ることができ、大人でも楽しむには充分だった。


『――一階にて、ペンギンさんたちのお食事が始まります。皆様ぜひ、ご覧下さい』


 ピンポーンと迷子のアナウンスのような音が鳴り、館内アナウンスが響き渡る。それによってちらほらいた他の客がその場所へと移動していく。


「行かなくていいのか? ペンギンのご飯を見に」


 客の流れに逆らうように進む美奈子に匠は聞く。


「うん。人が少ないうちの方が何も気にしないで、よく見れるでしょう?」


 振り返って答える美奈子。

 長いスカートが、その動作でひるがえる。


「そうだな。お前は、人と違うことをしたがるタイプだったな」


 変わらぬ表情であったが、匠は納得し美奈子の隣まで歩く。

 今まで後ろにいた匠が、隣に並んでから前へ出た。一瞬だけ距離が近くなり、胸がドキドキし始める。


「どうした? 行かないのか?」


 そのまま立ち止まっていた美奈子を気にかけて、声をかけられたところで我に返った。


「ううん。行くよ」


 まだ鼓動は速い。

 このドキドキが意味していることを美奈子は薄々わかっている。

 しかし、それを口にしては今の関係が壊れてしまうのではないか。

 それは避けたい。

 今のこの関係を壊してしまうのなら、この気持ちは気付かなかったことにして隠しておこう。

 そんなことを考えている間に、一度離れた匠はゆっくりと近づいてきて、美奈子の目の前まで来た。

 正面から目が合うと、さらに鼓動は速くなった。


「あっち、ラッコいるって。見に行こう」


 匠の提案に黙ってコクリと頷くことしかできなかった。

 どうかこの鼓動が伝わりませんように、と願いながら静かな水族館で、様々な生き物たちを見て楽しんだ。



「今日はありがとうね」


 かなり久しぶりの水族館。

 天候は良くなかったが、十二分じゅうにぶんに楽しむことが出来た。

 往復の運転に加え、家までの送迎をしてもらったので感謝しかない。

 長い運転だったのに、「疲れた」と言うこともなければ、行動でそれを示すこともない。

 そんな匠の隣に座りながら、ほとんど美奈子は眠っていた。かろうじて家の近くまで来たときには起きていたが、寝てばかりで匠に申し訳なった。


「あ、ちょっと待って」


 朝から降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。

 お礼を言ってから車を降りようとする美奈子を、匠が引き留めた。

 一度ドアにかけた手を離し、後部座席へ手を伸ばしてガサガサと何かを取ろうとする匠を待つ。


「はい。誕生日プレゼント」


 匠が取り出したのは小さな白い紙袋だった。

 それを美奈子に手渡すと、美奈子はきょとんとした顔のまま、フリーズする。


「おーい……見えてる?」


 顔を覗き込むように見られ、ハッとした。

 匠が何を言っているのだと、一瞬わからなかった。だがよくよく考えてみると、自分の誕生日は昨日だった。昨日で三十歳を迎えていたことに気付いていなかった。


「あ、ありがとう。普通に忘れてたよ……」


「なんとなーく、そんな気はしてた」


「あはは。よく覚えていたね」


「そりゃあ……まぁ、まぁ。気にするな」


 どもる匠も気になったが、受けとったものも気になる。


「反応が見たいし、とりあえず開けてみてよ」


 手元の紙袋と匠の顔を交互に見る美奈子へ、匠が言うので、美奈子は紙袋の中の小さな箱を取り出す。

 白いその運を開けると、ピンクゴールドのチェーンに着いた小さな赤い石がキラキラと輝くネックレスが入っていた。

 いかにも高そうなそれに、受けとっていいものではないという考えが浮かんでくる。


「貰うなんて悪いよ」


「いいから受けとれって。要らないなら売るなり何なりしてくれればいいし。俺からのお祝いの気持ちなんだから」


 腕時計に続き、ネックレスまで貰ってしまい、ありがたく思う気持ちと、何から何まで申し訳ないという思いが混在する。


「ありがとう……本当に」


 何かお返しをしなくちゃいけない。でも何をしたらいいのかわからない。

 黙ってしまった美奈子をよそに、匠が口を開いた。


「また手伝いが必要になったときは言ってくれ。時間が合う限りは手伝うから」


「うん。ありがとうね。今度、何かお礼するよ」


 何かは決まってもいないが、口にはしておく。

 それは忘れないためでもあり、また会うためでもある。


「期待しておく」


 匠は軽い返事をして、笑った。

 ネックレスを元の通りに箱にしまい、紙袋へと入れる。

 自宅は目の前。

 どんよりとした空は、今にもまた降り出しそうな天気である。

 美奈子は「またね」と手を振りつつ、車外へ出た。そして扉を閉め、少し離れると車は去って行った。

 車が見えなくなると、美奈子の顔はリンゴのように赤くなる。


「年甲斐もなくはしゃいじゃったなぁ……あー、恥ずかし」


 水族館は子供のように楽しみ、車内では眠ってしまい、最後にはプレゼントまで貰った。

 同じ年齢のはずなのに、何から何まで匠に世話になりっぱなしである。

 嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが交わる中、顔のほてりを冷ますために大きく深呼吸する。だが、入ってくるのはジメジメとした空気で、ほてりがなくなるまでには時間がかかった。

 農作業をする際に、着飾る必要はなく、アクセサリーをつけることはない。だから当分の間、匠から貰ったネックレスは、美奈子の部屋のインテリアの一部になったことは言うまでもない。それでも美奈子は、そのネックレスを見るたびに顔がにやけ、楽しかった思い出がよみがえる。毎日の疲れを癒してくれる思い出のネックレスとなった。

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