夏
第21話 梅雨明けのお出かけは気合いを入れて
カエルが鳴き、雨がじめじめと降り続ける梅雨はあっという間に終わり、太陽が眩しい夏がやってきたのだと天気予報では伝えていた。全国各地で四十度を超える猛暑となる日もある中、あいにく今日の天気は雨。雨でも気温は下がらない。蒸し暑い中降り続く雨は、何もせず立っているだけでもジワジワと汗をかくほどに気持ち悪い天気となってしまった。
そんな中、タオルであおぎながら玄関前で立っている美奈子の服装は、農作業をするときの服装と大きく異なっていた。
水色のロングスカートに真っ白なトップス。そんないつもと違う服装に加えて、長い髪を緩く巻き、耳元には夏をイメージしたゆらゆらと揺れる青いイヤリングを付けている。ファッション雑誌を見つつ、何日も悩んで決めた服装は、周囲に清潔感を感じさせる。
美奈子も我ながら今日のコーディネートは決まっていると思っていた。会社勤めをしていたときに購入したはいいが、ほとんど付けていなかったアクセサリーが役に立った。気に入って購入したものなので、身につけるだけで気分が上がっていた。
雨の降り続く中、待つこと五分。一台の車が美奈子の家の前に止まった。
それに気付いた美奈子は傘をさし、その車の元へ向かう。
車の主によって、助手席の窓が開けられる。
「おはよう。待たせたか?」
時刻は朝九時。約束の時間ぴったりであった。
「ううん。全然平気だよ」
「そうか、ならよかった。じゃあ乗ってくれ」
その車のハンドルを握っていたのは匠だった。普段なら眼鏡をかけていないが、今日は黒縁の眼鏡をかけている。
安心した顔を見せる匠に促され、美奈子は助手席へと乗り込む。
天気予報では雨だが水族館に行こうと美奈子が連絡していたのだ。匠も二つ返事で誘いに応じた。
事前に調べたら、水族館は屋内がほとんどであった。イルカショーは屋外ステージだったが、観客席には屋根もある。また、イルカショーは濡れるのでカッパを着用するようにと注意喚起されていた。元々濡れるショーならば、雨が降っていようがお構いなしのようであった。なので、匠は晴れの日に行こうとは言わなかったのだろう。
「水族館まで結構離れてるから、時間かかるのは我慢してくれよ」
「もちろん。重々承知ですよー」
「そか。じゃ、出発ー」
「レッツゴー」
降り続ける雨を気にすることなく車は走り、田んぼが多い田舎の道をどんどん進んでいく。どこの田んぼにも緑色の苗が植えられている。流石に雨が降る中で農作業をする人はどこにもいなかった。
窓から外を眺める美奈子と、運転をする匠の間に会話がない。何か話さなきゃと考えていたが、話す内容が何一つ思いつかずに時間が過ぎていく。
「ああ、そういえば。自分でこの車を買ったの?」
沈黙が続いていた中、やっと話題を絞り出した美奈子が口を開いた。
「ああそうだ。車がないと不便だろ? バスもろくにない田舎じゃ」
匠は美奈子に顔を向けることなく、正面を向いたまま答える。
美奈子も実家に戻ってきてから、車のありがたさをよく感じていた。
ほんの少しだけ離れた場所に買い物に行くときも車を使う。田んぼに行くときだって、自転車より車が多い。市内の循環バスは一応ある。あるけれども、利用している人を見たことがない。車の必要性が高いので、多くの人がが車を所有しており、バスの利用者はいないのが現状である。
「わかる。車がないと、どこにも行けないし。それにしても……なんかすごい高い車じゃない……? 車に詳しい訳じゃないんだけど」
美奈子は車種に詳しい訳ではない。しかし車に乗る際に、近所では見かけない車種であることに気がついた。
テレビコマーシャルでよく流される車種ではない。車高も低く、言葉にすることは出来ないが格好いい車だとは思っていた。
「それなりの値段はしたかな。酔ってて覚えてないのかもしれないけど、前にも乗ってるぞ」
「車買うなんてすごいなぁ。乗った記憶にないけど……」
以前に美奈子と匠で一緒にご飯を食べた際、一人で酔い潰れた美奈子を匠が家まで送っている。美奈子はその時に、吐きそうになるほど酔っていたので、どんな車に乗ったのかなど全く覚えていなかった。
美奈子に酔っていた時の記憶もなければ、お金も持っていない。会社勤め時には、家賃や物価が高いことで低い給料から貯金できた額は決して多くない。
それに車を購入するということは、維持費もかかる。美奈子には車を購入することはできても、維持できるかどうか怪しいところだった。
改めて車内をキョロキョロ見ている美奈子に対し、匠は涼しい顔で運転している。
「ちなみにこの車、納車まで一年かかった」
「んん? そんなにかかるものなの?」
「数か月とかが普通だな」
「一年とか長い……」
「まあな。海外で作ってるから、時間かかった」
「外車?」
「いや、日本車」
ハンドルは右側。車のメーカー名も日本のもので、車内にも小さく記載されていた。
「車は全然わかんないけど、すごいなぁ……」
お金も興味もない車を、美奈子はほしいとは思っていない。語彙力も多くない美奈子の感想はそれぐらいしか出てこなかった。
「実家暮らしだし、他にお金を使うところもないしな」
「へぇー……」
趣味がない美奈子は、匠のこの言葉がよくわかった。ましてや田舎。遊ぶにしても何もない。何か趣味を始めようとしても、家で出来るような読書や、自然と触れあうようなもの――ガーデニングや家庭菜園、キャンプぐらいしか出来ない。美奈子が一度だけチャレンジしたボルダリングや、ヨガもない。
「美奈子は好きなものとかないの?」
「なな、ない、よ? たまに本読むくらいで……」
幼なじみなだけあって、昔から下の名前で呼ばれていた。匠の「美奈子」と言う声に一瞬ドキッとしてしまい、返答するのに変な声になってしまった。
「それも趣味でいいだろ」
声の高さに反応することなく、匠は変わらぬ低い声で返す。
美奈子は、自分だけこんなにドキドキしていることが、馬鹿らしいとさえ思えてきてしまった。
「実家暮らし、いいよね。やっぱり落ち着く」
「そうなのか? ずっと実家だし、わからない。むしろ、早く家を出たいと思ってる」
「一人暮らししたいの?」
「……色々面倒なことになっているからさ。でも役所勤めだから、転勤なんてない。引っ越すことがない」
匠の言う「面倒なこと」については、詮索はしない。大人ならば、深入りすべきところではないことを言われなくてもわかる。
「実家暮らしでも大変なことってあるんだねぇ」
「そうだな」
二人の間に会話が途切れてしまった。
その途端に、眠気が美奈子を襲う。我慢できずに、ふわぁぁとあくびをしたところを匠に見られてしまった。
「寝てていいぞ」
「そんな悪いって」
「ずっとあくびされるよりいいだろ」
「確かに。じゃあお言葉に甘えて……」
ゆっくり瞳を閉じる。車から伝わる振動でさえ、心地よく感じた。
美奈子の意識はすぐに飛んでいった。
スヤスヤと美奈子が眠ったことを確認した匠は、深く息を吐いた。
「ヤバいなぁ……」
オシャレをしてきた美奈子。それは今日、自分と出かけるために着てきたものである。それが嬉しいという点と、真正面から見ることが出来ずどこか恥ずかしい気持ちもあり、匠は口を押さえた。
「ふぅ……」
深く息を吸い込んで、ハンドルを力強く握る。
そのまま静かなドライブが始まった。
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