第14話 種まきを始めよう

 やっと種を蒔く土の準備は整った。次は種の準備である。

 あらかじめ組合から購入した米の種。事前に賢治が必要量を頼んでおいたので、家に届いていた。

 お米の種――それが植物の種だと言っても病気が存在する。種は病気やカビに汚染されやすいので、一度消毒しなければならない。汚染されてしまうと、芽が出ないこともある。

 消毒の方法はいくつかあるが、美奈子の家では代々農薬を使わずに、温湯種子消毒という方法で行う。まずネットに入った種を、温度をしっかり管理したお湯に浸たす。あらかじめどのくらいの時間浸すのかが決まっているので、それを守りながらやらねばならない。お湯で消毒した後は直ちに冷水に入れ温度を下げる。これを行うことにより、様々な稲の病気を防ぐことだけでなく、水分を含ませることで発芽もしやすくなる。農薬を使った場合と同じ程度の効果があるこの方法をやるだけで、収穫量が変わる。

 今までの作業とは異なり、力仕事ではなく時間をかけるこの種子消毒は、美奈子が関わることなく、晴美が合間の時間をぬって終わらせていた。なので、種子消毒のことを知ったのは、種まきをする前日ことだった。


 四月の第三週目の土曜日。眩しいほどの太陽の光が照りつける。四月だというのに、気温が高い。風もないので、日向では汗をかきそうだ。

 そんな朝の八時、美奈子の家のインターホンが来客を告げた。


「はいはーい。どうぞー」


 朝食を終え、まったりとお茶を飲んでいた晴美がパタパタと足音を立てながら玄関へと向かう。


「あらー! おはよう! 早いわねー」


「おはようございます。涼しいうちに始めた方がいいかと思いまして。早すぎましたかね?」


「そんなことないわよー。もう少ししたら始めるけど、上がってお茶でも飲んで待ってて」


「そうなんですね。それじゃ、お言葉に甘えて。お邪魔しまーす」


 やってきたのはグレーのつなぎに黒のキャップを被った匠であった。

 まだ種まきの準備をしていないので、すぐには始まらない。なので準備ができるまでは、晴美は匠へ家の中へ上がり待つように促す。匠はそれを断ることなく、言われるがまま上がった。

 晴美が匠を案内したのは応接間。そこにあるソファーへと座った匠の元へ、晴美は麦茶と茶菓子を出す。

 来客用に備蓄している茶菓子は、どれもお年寄りが好みそうな和菓子だらけだった。あられせんべいやかりんとう、隣の町で有名な五家宝ごかぼうなど、どれも食べると口の中の水分を奪っていきそうなものばかりだった。朝食はとってきたので、お腹は空いていない。これから汗をかくことを予想して、茶菓子ではなく、麦茶だけをいただく。


「二十分ぐらいしたら準備も出来ると思うから、テレビでも見てて」


「了解っす」


 晴美はさっさと種まきの準備へと取りかかった。

 匠が麦茶を一口飲んだとき、家の奥からドタバタと走る足音が聞こえた。


「おっとっと。おはよ!」


 髪の毛を一つにまとめながら走っていたのは美奈子だった。長袖の作業着だが、チラッと見えた腕には、匠が送った腕時計がある。


「よ、おはよ。今日はよろしくな」


「こちらこそ。じゃ、私は準備手伝ってくるから」


「おう」


 美奈子はそのまま急いで外へと出て行った。

 匠がいる応接間から、出て行った美奈子の姿が確認できる。


「なんか、変わったな……」


 迷いが消えた美奈子の様子を見て出た匠のつぶやき。それは美奈子の微細な変化に気付いたからこそ出た言葉であった。しかし、匠が送ったメッセージが変化をもたらしたことは知るよしもない。


 一方外では美奈子と賢治が、種まきの準備をする。

 育苗箱に土を入れる際に使った播種機を使うため、それを運び出す。

 コンセントに繋ぎ、屋外にある水道から水を引く。するとちょろちょろと水が流れ出した。それを確認した賢治は、倉庫の中から購入した覆土ふくどとして用いる栄養を充分含ませた土を一輪車で運びだした。


「私も運ぶ!」


 やることがわかった美奈子は、自らやると手を上げる。


「重いぞ?」


「うん。でもやる」


「じゃあ任せた。五つぐらい、播種機の傍に運んでおいてくれ。俺は種をとってくる」


「うん」


 賢治は別の倉庫にある種を取りに向かった。

 美奈子は覆土を一つずつ一輪車に乗せる。一つ二十キロある覆土は、女性にとっては重い。ふぅー、と一つ載せる度に息を長く吐く。やっとの思いで一輪車に三つ載せると、一度播種機の元へ運ぼうとした。


「おもっ……」


 覆土三つで六十キロある。一輪車を使っているので全ての重さが美奈子の手にかかるわけではないが、充分重いことは確かである。自分からやると手を上げたのだから、責任持ってやらなければならないのだと、体が着いていくことができずに気持ちばかりが先行している。決して一輪車の扱いに慣れてはいない。初めて一輪車を使ったのは、空の育苗箱を運んだとき。それ以来一輪車を使っていない。

 予想以上の重さもあって、十メートルほど離れた場所にある播種機までフラフラと進む。


「っと……うわぁぁぁ!」


 小さな石でバランスを崩し、美奈子は一輪車とともに横に倒れた。


「あちゃー……戻さないと」


 作業着のおかげで怪我はない。

 すぐに起き上がり、一輪車を起こす。一輪車の荷台から落ちてしまった覆土を再び乗せなければならない。


「ほらよ」


 覆土を拾い上げようとしたとき、いつの間にか匠が外へ出てきて覆土を軽々と持ち上げ、一輪車へと載せた。


「あ、ありがと」


「いいって。ほら乗せろ。運ぶから」


 残り二つの覆土を一輪車へ載せると、匠が安定して一輪車を操る。

 美奈子と違い、ふらつくことがなかった。


「慣れてるねー」


「まあな。何年も手伝ってるのもあるけど、最初は何回もひっくり返したよ。で、あといくつぐらい運ぶんだ?」


「経験の違いかなぁ? お父さんは、五つぐらいって言ってた」


「オーケー。運ぶわ」


 結局、匠が覆土を運んだため美奈子は仕事がなくなってしまった。

 しかしすぐに賢治と晴美がやって来る。


「運んだか? こっちは種の準備ができたし、そろそろ始めるぞ。俺が種を蒔いたやつをこっちに積む。美奈子は播種機にのせる。母さんが倉庫から育苗箱を運んで、匠くんは土と種を頼む」


「はーい」


「期待してるわ、匠くん」


「ういっす」


 美奈子、晴美、匠と続いて返事をする。

 青空の下、総出での種まきが始まった。


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