第13話 運ぶときには全身で

 美奈子が目を開け、ぼんやりとした視界に入ったのは見慣れた自分の部屋の天井だった。目をこすりながら起き上がろうとすると頭がズキズキと痛む。昨夜にベッドに入った記憶がなく、どうやって帰ってきたのかわからない美奈子は、頭を抑えながら水を飲みに台所へ向かった。


「あらおはよう……っていう時間でもないけど。もうお昼よ?」


 キャベツを刻む音がリズムを刻んでいる。台所では、晴美が昼食を作っていた。


「ああ。そうなんだー」


 食器棚からコップを取り出し、水道から出る水を飲む。それで頭痛が治まる訳ではないが、干からびた体に水が染み渡り、気持ちがいい。


「あなた、お酒を飲みすぎよ。せっかくの二人でのご飯会なのに、待ちきれずに一人で飲んでたんでしょう? 酔ったあなたを匠くんが送ってくれたんだから、後でお礼言っておきなさいよ」


「そうなの? 全く記憶にないんだけど」


「そうよ。顔を真っ赤にして、ベロンベロンに酔ったあなたを匠くんが連れてきたときはビックリしたわよ。お父さんはもう寝ちゃってたし、お母さんじゃ美奈子を運べないから、匠くんがベッドまで運んでくれたのよ?」


「嘘!? 部屋まで!?」


 部屋には読みかけの本や、脱いだままのパジャマがそのまま置いてある。誰かが来るとなれば片付けようとするが、ありのままの部屋を匠に見られてしまったことが恥ずかしく、さらに頭痛が強くなったような気がし、頭を抱えた。


「ああ、そうそう。この紙袋、美奈子にプレゼントだって。匠くんから。渡すタイミングがなかったからって置いていったわ」


「へ?」


 晴美が食卓の方へ目を向ける。そこには食卓の上に置かれた紙袋があった。


「なんだろ?」


 中に入っていたのはリボンでラッピングされた小さな箱。

 それを取り出してリボンをほどく。箱を開けると中には有名ブランドの腕時計が入っていた。


「うわっ! こんなんもらっちゃ悪いよ!」


 驚きのあまり声が出てしまった美奈子。晴美も昼食を作る手を止めて、腕時計を見る。


「あらぁ。いい時計ね。それにかなり丈夫そう」


「でも悪いじゃん! 何にもしてないのにこんないいものもらっちゃって 」


「受け取れませんって返すの?」


「そういうわけには……」


「でしょ? お礼しておきなさいね」


「そうだよね、ちょっと連絡してくる」


 美奈子は腕時計を持って部屋に戻り、スマートフォンで匠に連絡をする。


『昨日はごめんね! 誘っておきながら先に飲んで潰れて。それに、家まで送って貰っちゃって。あと腕時計まで……何かあったっけ? もらっていいの?』


 メッセージは送ってからすぐに返事が来た。


『気にするな、遅れた俺が悪い。ただ飲み過ぎには気をつけろよ。腕時計は農家を引き継ぐことにしたっていうことのお祝い。農作業でも壊れないし、防水にしてみた。使わないなら捨てていいから。無理に気を張る必要はないから、やれることをやれよ』


 匠の優しさが嬉しくなった。それと同時に、何かを返さなければという気持ちも出てくる。しかし、今の段階で収入もない美奈子は何かを買って返すことはできない。返すことができるとしたら、今の仕事――農業を頑張っていくことしかない。

 家族だけが美奈子を支えていると考えていたが、実際はそうではなくて、匠のように家族以外からも応援されているのだと思えた。そして、こんな筋肉痛で体が悲鳴をあげているのに、酔い潰れているような人ではいけない。同級生達はみんなそれぞれの道を進んでいる。ダラダラと生きているだけではいけない。自分が変わっていかなければ、と前日の落ち込みから嘘のように立ち直った。


「変わらなきゃ……! 絶対に変わるんだ! よしっ!」


 賢治の入院をきっかけに地元に戻り、とんとん拍子で専業農家になると決めた。深く考えずにそう行動していたが、この先を考える。

 気候によって収穫量が変わるので不安定な収入。それに不定期な休みや重労働である。それに見合った収入になるかと言われると、すぐに頷くことは難しい。

 それでも美奈子は農家として働くことを選んだ。誰でもない、美奈子自身が決めたこと。

 急に会社を辞めたこと、逃げるように実家へ戻ったことが心に引っかかっていた。だが、初めて農業を一生懸命やろうと思えた。

 美奈子は爪が食い込むほど拳を握り締め、決意を固めた。そして、この日から美奈子は賢治から学んだことを事細かにノートへ記録し、少しずつ体を鍛え始めた。



 三日間の休みを終え、再び農作業をする日がやってきた。

 美奈子は朝の七時にアラームを鳴らして目覚めた。台所では既に晴美が朝食を作っている。


「おはよう。お父さんは?」


「今日は早いわね。お父さんなら、準備してるわよ」


 窓から外を見ると、作業着姿の賢治が何かを準備しているのが見えた。美奈子も急いで着替え、賢治の元へ向かう。


「お父さん!」


「おう、早いな」


「うん。今日からちゃんと頑張ろうって思って」


 美奈子の目には以前と違い、力強さがあった。賢治もそれがわかったようで、美奈子に軍手を投げ渡す。


「朝ご飯までには、まだ時間がある。少しだけやっておくぞ」


「うん! ……で、何をするの?」


「今日はこの育苗箱いくびょうばこに土を入れていく。うちの分が六百枚は必要だから、間中さんのうちの分も入れれば千枚以上必要だな」


 そういう賢治が準備していたのは、黒い箱――育苗箱である。横六十センチ、縦三十センチ、高さ三センチほどの育苗箱は積み重ねられ、十五枚ごとにビニールの紐でまとめられている。その束を賢治が農作業で用いる一輪車で運んでいた。


「私も運ぶよ」


「おう。南の倉庫の中に育苗箱は積んである。一輪車も一緒に置いてあるからそれを使え」


「わかった」


 美奈子の家の敷地内には倉庫が三つある。その中の一つ、南にある倉庫には育苗箱や肥料、スコップなどの細かい道具を置いている。そこにある一輪車をつかみ、育苗箱の束を荷台に三つ乗せる。そして持ち手を握り歩こうとする。育苗箱自体はそこまで重くないものの、タイヤが一つしかない一輪車のバランスをとることが難しく、三歩も進まないうちによろけて育苗箱を落としてしまった。


「そんなに高く持ち上げるな。少しだけ浮かせば動く。腕でやるんじゃなくて、全身使ってバランスをとるんだ」


「わかった……! こ、こう?」


「そうだ。そのまま向こうの倉庫まで持ってけ」


 賢治のアドバイス通りに一輪車を動かすと、よろけることなく安定して運ぶことが出来た。

 指示された倉庫には、肥料を混ぜた土がおかれている。そこへ先に賢治が運んできた育苗箱が置かれていたので、一緒にそこへ積む。そしてまた育苗箱を取りに戻る。

 何度も往復し、運んだ育苗箱は山のように積まれた。


「よし。じゃあ土を入れるぞ。昔は手で一枚一枚やってたが、今は機械だ」


「どの機械?」


「種を蒔くときに使う播種機はしゅきに土入れの機能がある。この育苗箱に……このビニールを敷いて、播種機に乗せる。今日は母さんが出かけるから、二人でやるぞ」


 賢治が先に準備していた二つの箱がついた播種機。

 播種機に乗せた育苗箱がベルトコンベア式に流れる。主な使用目的は種を蒔くことであり、最初に水、そして二つの箱に種と種を覆う土を入れ、育苗箱は順番に流れていく。育苗箱を乗せる人と降ろす人が入れば最低限作業ができる。ただ、種や土が足りなくなったときに補充する必要があるので二人だけだと作業に時間がかかる。

 しかし今回は種を蒔くのではなく、その前段階の土を入れる作業である。水も種も使わず、播種機の一つの箱に土を入れ、育苗箱を流すとそこへ綺麗に土を入れてくれるのだ。この土こそが、数日前に肥料を混ぜた土である。


「俺が育苗箱を降ろして積んでいく。美奈子は空の育苗箱にシートを乗せるのと、足りなくなったら土を補充してくれ」


「了解」


 初めは賢治が見本を見せる。何度目かわからないバケツに土を入れて、播種機の箱にそれを入れる。そして育苗箱に専用のビニールを敷いて播種機を動かす。すると、ガコガコと音をたてつつ、土が育苗箱にセットされた。

 播種機の原理がわかったところで、美奈子は言われたとおりに作業を始める。

 播種機は一時間あたり三百枚に土を入れることができる。ただこれは順調にやれればの話であり、実際は途中で土を入れるのが遅れたりすることで作業は滞ってしまう。

 朝の七時過ぎから一時間やっても、三百枚には届かなかった。

 美奈子の後ろにはまだ土を入れていない空の育苗箱の山。まだまだ終わりが見えない。


「美奈子。土が足らねえぞ」


「へっ? あ、ごめんなさい。今やるから」


 土が少なくなったため、播種機の箱の底が見えてしまっている。美奈子は慌ててバケツに入れた土を補充する。


「目の前のものだけを見てんじゃない。全体を見て把握しろ」


「はい!」


 倉庫の中で、気合いの入った声が響いた。

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