第10話 体の痛みはつきものです

 機械音だけが聞こえる倉庫内。美奈子は言葉をかわすことなく、黙々と鋤簾を握って土を掻き出していた。それを続けること四時間。正午を告げるチャイムが流れても続いた作業。美奈子の腹の虫が鳴っていることを忘れるほど集中していたが、賢治の「ここまでだ」という声でひとまず今日の作業は終了となった。


「ひえっ……もう……無理……限界」


 休みなく作業していた美奈子の腕にはもう力が入らなくなっていた。長時間立っているだけでも辛かった。最初こそは意気込み、力強かったが、後半は鋤簾じょれんを持つ力すらなくなってきて、足で蹴りながら強引に土を寄せていた。鋤簾だけでなく、少しだけスコップバケツに土を入れたりもしたが、ほんの少しずつしか入れることが出来ていなかった。そんなボロボロの腕に加え、何度も曲げたり伸ばしたりした腰が痛み、へなっと地面に座り込んだ。


「全く、何を言ってるのよ。まだまだこの土だけじゃ足らないんだからね」


 この作業に慣れている晴美は、美奈子の前に仁王立ちをしている。若い美奈子よりも体力、筋力共に備わっているようで、疲れている様子を全く見せない。

 座り込んだ美奈子の横には、細かく砕かれた土が大量にできている。しかし、それでは足らないという晴美の発言に嫌な予感がし、顔が引きつる。


「と、いうことは……?」


「何とビックリ、明日もやります」


「うぎゃぁーーー!」


 まるでムンクの叫びのように、手を顔に当て叫ぶ美奈子。その反応が面白かったのか、晴美はクスクスと笑っている。


「思ったより元気そうじゃない!」


「これ、空元気だから! というか、腕がもうダメダメなんだけど。腰も痛いし、全身痛い」


「お前は腕だけでやろうとするからそうなるんだ。もっとこう……足も背中も使って、全身の筋肉をだな……」


 二人の会話に賢治が入ってきた。賢治が「見てろよ」と言いながら、スコップで細かくなった土をすくう。スコップに山盛りになるほど土を乗せて、そのまま同じ場所へ落とす。「どうだ?」と言わんばかりの顔をされたが、動きを見ただけでなるほどと納得は出来なかった。

 すっかり足が治っている賢治も、作業によって腕や腰など体のどこかが痛んでいるようには見えない。体の痛みを訴えているのは美奈子だけである。


「万年文化部で、都会暮らししてきた私にはしんどい作業だよ……」


「こんなんでへこたれてちゃ、米の袋も持てねえよ」


「米の袋? 何それ、そんなに重いの?」


「収穫した米を入れる紙の袋だ。店で売られてる米はビニールだし、五キロか十キロぐらいだろ? それよりずっと重い」


「どのくらい?」


「一つ三十キロ。それをいくつも持って運ばなきゃなんねぇ」


「ひえっ……」


 それは土が入ったバケツよりも重い。三十キロと言えば、9歳の子供ほどの体重と近い数値である。子供を背負うと考えれば簡単に出来そうと思えるかも知れないが、こちらは農業である。真正面で持ち上げては下ろしてを何度も繰り返さなければならない。子供を抱き上げながらスクワットをやるようなものである。美奈子は米の袋を使う秋までに、少しでも筋肉をつけないと動けなくなるだろうなと感じた。


「ひとまず今日はこの辺にしておく。この続きは明日やる。今日よりも明日の方が量を多くやるからな」


 そう言って、ゴミが入らないように賢治は細かくなった土にビニールシートをかけた。


「……はい」


 疲労で力ない返事をし、重い腰を上げる。動くことさえ辛い体を引きずるようにして、倉庫から出る。

 玄関の前では作業着についた土ぼこりをはたき落として、家の中へ入った。


「お父さん、美奈子は大丈夫かしら?」


美奈子が家の中に入ったのを確認してから、晴美は賢治に問う。その声は心配と不安が入り交じっていた。


「何がだ?」


「一日であんな風になってるのよ? 思ってた以上に、体がなってないわ」


「心配しすぎだ。俺たちの子供だろ。問題ない」


「そうかしらね……? 何でも楽観的に考えてちゃうところがあるから」


「それは母さん譲りだからな。今母さんも農業出来てるんだから、美奈子にも出来る」


「あらっ! 考え方は私似かもしれないけど、美奈子の行動力はお父さん譲りよ? 一度決めたらすぐに行動。決めるまでに時間がかかることもあるけど、決まったら早いのよね。仕事を辞めるときもすぐだったし」


「そうだな。なら、農業だってやっていける」


「うふふ! お父さん似なら大丈夫なのかもしれないわね」


「ああ」


心配症でもあった晴美の気持ちを知ることもなく、美奈子はその日、疲れからかいつもより早い時間に深い眠りに入った。



 そして翌日、翌々日と同じ作業が続いた。

 賢治に言われたように、腕だけ使うのではなく、背中を意識してやってみると思った以上に少ない力でスコップや鋤簾じょれんを使うことが出来るようになった。


「土を入れてちょうだい!」


「はーい!」


 晴美の指示の元で、機械へ土を入れる。空元気で声は出すことが出来ているが、体はずっと悲鳴をあげていた。ほんの少しかがむだけでも、腰が痛い。

 あちこちに応急処置として湿布を貼ってはいるが、それでも筋肉痛となって動くたびに体が痛む。


「おいしょっ、と!」


 力を入れるとき、ついつい声も出てしまうが、気にしていられるほどの余裕はなかった。

 大きな機械音を響かせながら行い、三日間にも及ぶ作業はやっと終わった。


「ふぅー。これでどのくらいあるのかしらね? まぁ、足らなかったらまたやればいいんだけど」


 額ににじむ汗を拭き取りながら、晴美は呟いた。


「ええ? 終わりって訳じゃないの?」


「ええ。だって新しい場所もやるからもっと土を増やさないといけないもの」


「しんどい……」


「慣れれば大丈夫よ。お母さんも最初はそうだったわ。何年かかるのかわからないけど、そのうち痛くもかゆくもなくなるから」


「うわぁ、先が長いなー……」


 今までパソコンの前での仕事ばかりだった体が、農業に慣れる日はかなり遠い。いつかはその日が来てほしいと思っていた。


「美奈子がダウンしてるから、明日一日休みにして、明後日にやるぞ」


 今まで使った道具を片付けて戻ってきた賢治が、疲れ切った美奈子とまだまだ元気な晴美に言う。


「今度は何を?」


「この土に肥料を混ぜる。美奈子はスコップでバケツに土を入れる係だ」


「またー!? お父さんとお母さんは何するの?」


「俺が肥料の割合を考えながら、入れるのと、バケツの土を機械に入れる。肥料と混ざった土を母さんがどかす」


「だそうよ。頑張ってね、美奈子」


「うう……」


 美奈子は明後日の作業について大まかな説明だけ聞き、かなりの肉体労働であることがわかったので肩を落とした。

 三日間で起きた筋肉痛が、たかが一日で治るとは考えられない。むしろ今よりも痛みが増しているかもしれない。


「農業、甘く見ていただろう?」


 座り込む美奈子の頭上から、賢治が言う。


「……そうかも。トラクターあるなら楽じゃん! とか思ってた。機械化が進んでるから、何とかなるだろうって」


「機械は多い。この作業だって、もっと機械に頼ることも出来るし、土を最初から買ったり、育った苗を買うっていう方法もある」


「なんでそれにしないの? 楽でしょ、絶対」


「確かに楽だ。だがどちらも金が必要だ。機械も土も。それに、やり慣れた方法が一番いい」


「ふーん……」


「農家によってやり方は違うがな。うちはこのままやる。土台の土が悪いと、米は育たない。大切な作業だ。大切じゃない作業なんてないが、どれも舐めてると痛い目見るってことがわかっただろ?」


「ものすごくわかった。痛いほどわかった……というか痛いんだけど。もう、筋トレする」


「とか言っておきながら、いつと口だけだろ?」


「……確かに」


「口だけじゃ、この仕事はやっていけねぇぞ」


 賢治は言いたいことを言い終えたのか、その場から去った。いつの間にか晴美もいなくなっており、美奈子だけが残されている。


「体作りしないとな……最近ダラダラしてたから脂肪蓄えちゃったし」


 冬に怠惰な生活を送ったことで、余分な脂肪をつけた体。不規則な生活と不規則な食事でさらに脂肪が付きやすい体になってしまっている。

 農家をやっている人の多くが痩せているような気がするのは、こうやって体を使うからかもしれない。ならば、自分もここから痩せるかもしれないと淡い期待を抱いた。

 農家を継ぐと言った以上、逃げ出すことは出来ない。農家が大変な仕事であることがよく分かり、重要な仕事であると自分に言い聞かせた。

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