第6話 初めての農作業はトラクター

「違う違う。もっとハンドルを切れ。そっちじゃない、逆だ。どんどん曲がってるぞ」


 三月の日曜日。雲が少なく、晴れた午前。

 田起こしのために、ドゴゴゴと大きな音を響き渡らせて走る赤いトラクターに乗っているのは美奈子だった。長い髪を一つにまとめ、晴美が普段農作業をするときに使っている作業着を着ている。田舎の田んぼによくいるおばあさんと同じ格好は、とても都会生活をしていた人のようには見えない。

 家を出るまではその姿を気にしていたが、他に作業着として使うことができる服を持っていなかった。都会で暮らすには、流行に乗り遅れないように、オシャレな服が必要になる。シーズンごとでコロコロ変わる流行の服は、どれもこれもいい値段である。オシャレなそれを汚してしまうことが嫌だった。なので仕方なく晴美の作業着を着ている。今ではもう美奈子はおそるおそるハンドルを握っており、服装を気にするほどの余裕がない。


 一人で作業するのは不安だったため、大分足が回復した賢治が自転車で付き添って田んぼまで来た。トラクターがたてる大きな音の中では、田んぼの縁から美奈子の様子を見て、アドバイスをする賢治の声を聞き取ることは難しい。また、このトラクターは比較的大きいサイズで、運転席は四面がガラス張りになっている。窓という窓は、後方に小さくあるが、普通自動車のように全開に開けることはしない。なぜなら、開けたままにしておけば、作業中にたった土ホコリが運転席に入り込んでしまうからだ。なので締め切って作業するしかなかった。そのせいで外界の音はシャットアウトされてしまう。だが、冷房や暖房もついており、ラジオまで聞くことが出来るので、暑くも寒くもない作りが幸いである。

 美奈子が賢治から運転技術のアドバイスをタイムリーに聞くために使ったのは、スマートフォンだった。

 家族内通話は無料という点を生かし、通話状態にしておく。スピーカーの通話にすることで、賢治の声を聞いていた。

 初めて田んぼの中を走るが、講習で受けた平らな地面とは異なり、大小様々な塊のデコボコとした土で成る地面。それに戸惑い、斜めに進んでしまっている。


「そんなこと言ってもーっ! あわっ、めちゃくちゃ曲がってきた。こっちか?」


「そうだ、その方向にハンドルを切ったら、次はまっすぐに直せ。それでスピードを落とせ。早すぎだ」


「え? まだ遅くするの? 遅すぎて眠くなるよ」


 言われてメーターを見ると、七キロを示していた。以前聞いていたスピードよりもかなり速い。少しずつブレーキを踏み、スピードを落とす。四キロまで落とし、人が歩くほどのスピードで田んぼの中を走るトラクター。ゆっくりとした速度、伝わる振動、そして変わらぬ風景に眠気が襲ってくる。思わず「ふわぁ」とあくびがでた。


「ここはあと半分だ」


賢治の声があるおかげで起きてはいるが、何度もあくびがでてしまう。


「うーん……」


「そろそろ、ロータリーを上げて方向を変えろ」


「えっとー……ここのレバーを……でブレーキかけながら、ハンドル切って……」


 田んぼの端に近づいたら、トラクターの後ろに付いているロータリーを上へと上げる。そしてハンドルを操作しながら方向を変えて、ロータリーを下ろして進む。ぎこちない動きをしながらも、順調にやっているようにも見えた。


「そのまま俺の方まで来たら、一度降りろ」


「何で?」


「教えてやるから」


「はーい」


 言われたとおり賢治の目の前でトラクターを止め降りた。


「よく見ろ。この線がお前が進んだところだ。右に左にブレている。それに、端なんか全然出来てない」


 ロータリーが通った箇所は、綺麗になっているものの、ロータリーの端の部分に当たるくぼんだ線がまっすぐになっていないことがよくわかる。そして、田んぼの縁は全然田起こしが出来ていない。


「ぼーっとあくびしながら運転してないで、しっかりハンドルを握れ。田んぼだからってやってると、ガタガタになる」


「バレてた……」


あくびまでスマートフォン越しに聞こえていたようで、指摘された。ドキッとしたことで、目が覚めてきた。


「トラクターも車と同じなんだ。気を抜けば事故になる」


「単独事故?」


「不注意や焦りで、車体が傾いて倒れる。下手すれば潰されるからな。コンバインなんかも手を巻き込むこともある」


「怖っ。気をつけるよ」


「そうしろ」


 広い場所だからぶつかる心配もないし、事故には遭わないと思っていたが、トラクターでの事故も起こることを知り、急に怖くなった。もっと集中して運転しなければならない。


「とりあえず、ここが終わったら次のところがあるから」


「え、まだやるの? スパルタじゃない?」


「当たり前だ。ここだけでやっていけるか。うちは農家だぞ」


「そうですよねー……」


 美奈子は賢治から、どの程度の土地があるのかは詳しく聞いていない。聞いたとしても、農家の使う単位が特殊で分からないのである。面積を示す際に、一般的に使われるのは平方メートルや坪。しかし、田んぼの面積を示す際にはヘクタールやちょうたんを使う。東京ドーム何個分と言われれば、想像しやすいが、この単位ではわからず、土地の広さを聞くことをしなかった。


 真冬に比べれば気温が上がっている。温かい太陽が照らす中、美奈子の初めての田起こしは三時間も続いた。その間に田起こしをしたのは三カ所の田んぼのみ。美奈子が田起こしをしている間、賢治は近くの畑の様子を見たり、自宅に戻ったりしていたが美奈子の元へ戻ってきた。


「そろそろ帰るぞ。昼だ」


 賢治の声がスマートフォンから美奈子の元へと届く。

 時刻はすでに十二時をまわっている。美奈子はロータリーを上げて、田んぼから道へとトラクターを移動させた。


「俺はこのまま自転車で帰る。安全運転でいけよ」


「はいよ」


 道路を走れば、道に土が落ちていく。

 田んぼから美奈子の家までの道は、少しだけ、よく車が通る公道を通らなければならなかった。公道と言っても、利用するのは地元民ばかりで、ごく稀に他県ナンバーの車が通るような道。そんな道を通る人は、トラクターを見ると、誰の家なのかわかってしまうほどである。

 また、家と田んぼまでしか乗らないので、トラクターの進む道を見れば、誰の家なのか予想がつく。

 近所の人たちは皆交流がある。この道を通る人の多くは地元民。農家が多いこの地域で、トラクターを煽るような人もいない。煽ることはないが、若い人ほど追い越そうとする。


 しかし美奈子は片側一車線の公道を堂々と走り、追い越すことが出来ないように進んだ。田んぼとは違い、トラクターで道を走るときには、多少スピードが出るが、それでも三十キロほどである。普通自動車の運転手からしてみれば、前にトラクターがいると、土を落とすし、スピードが遅すぎるし、イライラしてしまうだろう。それでも堂々と道の中心を走らなければ、トラクターを追い越そうとして対向車との事故が起こりかねない。

 自分の安全と、他の人の安全を考えて、わざと追い越すことができないように走れと言うのは賢治の教えである。


「あちゃー……土が落ちちゃてるや」


 ミラー越しで後を確認すると、タイミングがよかったのか、後続車はいなかった。

 ゆっくりと進みながら、ボトボトと落とした土も確認できる。


「ま、いっか。後で片付けよー」


 帰宅してから、落とした土を片付けに戻ろうと決め、家へ向かった。



 ☆



「お帰り。どうだった? 初めての田起こしは」


 庭にいた晴美が、トラクターから降りる美奈子へ声をかけた。晴美の右手には包丁が握られている。


「お尻が痛いし、眠いし、まだブルブルしてる感じがする……」


「よくわかんないけど、ちゃんと出来たってことかしら? 見てないからわかんないけど」


「そうだといいけどね。っていうよりも、何で包丁なんか持って外にいるわけ?」


 美奈子の視線が、晴美の手へ。

 晴美はきょとんとした顔をしながら、美奈子を見返した。


「何でって……お隣にお野菜採りに行くため?」


「お隣? え、殺人事件でも起こして強奪するの? 通報ものじゃ……」


 美奈子の不安そうな言い方に、晴美は笑い出した。


「あはははっ! なーに言ってるのよっ! もう! お隣って畑よ、畑! 白菜採りに行くのよ! 包丁ないと採れないでしょう?」


「いや、だとしてもむき出しの包丁持って歩くってなかなか……」


「実際にあったらしいわよ、通報が。自転車に乗っていた女子高生が包丁を持った男に追いかけ回されたって! 笑っちゃうわよね!」


「いや、笑えないし!」


「そーう? 駐在さんに聞いたんだけど、多分女子高生の勘違いだろうって。ここら辺の人って、お母さんみたいに野菜を採りに行くとき包丁持っていくからね。最近引っ越してきた人とかには、危ない人に見えちゃったのだろうって」


「そりゃ普通は包丁持って歩いてたら怖いよ……」


「あなたも都会に染まってるわねぇー」


「地元民以外は怖いって」


「大丈夫よ! この辺は地元民しかいないから!」


「ええ……」


「うふふっ」


 ニコニコと笑いながら、包丁をむき出しに持った晴美は出ていった。

 軽やかに進む姿を、唖然としたまま見送る。

 眠かったはずの美奈子だったが、晴美の衝撃的な行動に眠気がどこかへ飛んでしまった。


「田舎って恐ろしいな……都会と違うや、すごく」


 都会暮らしでは、同じアパートの住人に包丁を持って歩く姿を見られたら、何を言われるかもわからない。

 田舎では他人に迷惑をかけないことなら、特に何か言われることもないようである。

 二つの暮らしを比べ、自由な田舎にまだ順応できていない。そのうちこの生活に慣れるのかと疑問に思った。


「あ、ホウキ! 土拾ってこよ。ちりとりも

 か」


 落とした土は大きい塊になっている。屋内の掃除に使うような小さいちりとりでは足らない。落ち葉を拾うようなプラスチックの大きいちりとりと、竹のホウキを持って美奈子は土を片付けに行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る