第5話 初期投資にかかるお金

「つーかーれーたーよー」


 一番近い場所にある教習所に通い始めてから一週間。アクセルとブレーキの位置すら危うく、ペーパー歴十年の運転免許で通うには不安があった。しかし最初の日は自転車で通ったが二日目以降は晴美の車を借り、自ら運転して教習所に通った。おかげでオートマ車の運転技術を取り戻すことはできた。

 冬は就職を決めた地元の高校生達が免許取得のために教習所へ通う。そのためかなり人が多く、予約は混み合った。

 そんな中で限定解除の講習を受ける。混雑のせいで、やや時間がかかったものの、なんとか解除することができ、晴れてマニュアル車の運転も出来るようになった。

 さっそく自宅の軽トラックを運転してみるように言われ、助手席に母を乗せてドライブに来たところである。


「疲れたも何も、まだ家を出て五分よ? もっと先に行きましょう! あ、あそこのスーパーにも寄ってくれる? 今日の夕飯のおかずを買っていかないと」


「はいよっ……あ、エンストした」


「全く何やってるのよ。信号変わってるのよ、早くしなさい」


「はいはい」


 まだ不慣れな運転で、道を走る。半分だけ踏むクラッチや、走りながら変えるギアの操作に戸惑い、何度もエンストしながら近所でドライブを続ける。後続車がいたものの、気が長い人が多い地元なので、クラクションを鳴らされることはなかった。


「あ、明日は大型特殊のために講習申し込んであるから、行ってきなさいね?」


 突然晴美が言い出す。立て続けに免許を取るのは、頭も疲れる。少し間を空けてから、次の免許取得を目指したかった。


「また教習所ー? 高校生ばっかでしんどいー。それに疲れたし」


「急がないと、田起こしの季節も終わっちゃうじゃない。そうしたら『来年取るからいいや』なんて言い出すと思って。それに、今度は教習所じゃないわよ」


「確かに言いそう……。教習所じゃなければどこなの? 免許センターとか?」


「組合」


「クミアイ?」


「農家が入ってる組合よ。若い人たちへ農業を推進するために、そういう特殊免許の講習をやってるの。農家はお年寄りばっかで、すでに免許持ってる人多いから、ほとんど受ける人いないのよ。だから、講習が開かれるか不安だったけど、やってくれるって。値段も安いし、お互いよかったわね」


「うわぁ……マンツーマンだったらどうしよう……」


「よく教えてもらえるし、とっても勉強になるじゃない」


「なんかやだ」


 本格的に農業を始める前の免許という壁が大きく、すでに疲れが出てきていた。



 ☆



 美奈子の想像と同じように、大型特殊免許の講習はマンツーマンになった。おかげで詳しく教えられ、知識は深まり、運転操作も細かく学べた。そんな講習を終え、大型特殊免許を取ったときには、すでに二月へと突入していた。

 入院していた父は、退院し、松葉杖をつきながらの生活を余儀なくされた。昔ながらの美奈子の家は段差が多く、賢治は松葉杖の先が何度も段差にぶつけた。だが、一週間経たないうちに松葉杖の扱いに慣れ、ぶつけることもなくなっていた。

 そして今、松葉杖を壁に立てかけて食卓に座り美奈子に米作りをレクチャーしている。


「で、うちは二月の晴れの日にはトラクターで田起こし。天気を見つつやっていかないと、田植えに間に合わない」


「二月、田起こし……っと」


 父の退院後からは、夕食後に米作りの勉強会をやっていた。

 大学ノートを開き、流れを書いていく。季節ごとに何をやるかは、何となく知っている美奈子だが、父からの詳しい説明を聞くのは初めてである。


「田起こしって何するの?」


「田起こしは、稲刈りした後で固まった土を掘り起こす。肥料も一緒に混ぜて、次の米を育てる環境を作る」


「へぇー」


「これを三回やる」


「うわぁ……」


 どれだけ田んぼが広いか、田起こしするためのトラクターのスピードが遅いかを美奈子は知っている。普通自動車が四十キロの速度で走るのも遅いかなと感じるほどだが、田起こしの際のトラクターは時速約四キロである。人の平均的な歩行速度とほぼ同じ。これでも大昔は牛に引かせて行っていた作業だったので、今ではかなり効率は上がっている。徒歩と同じスピードで、広い面積を三回も他起こしをするとなると、かなり時間がかかることが容易に想像できた。


「稲刈り後に一回、寒いときに一回、春に一回だ。去年、ロータリーを新調したから調子がいい」


「ロータリー?」


「トラクターの後ろにつける機械だ。それで土を起こす」


「へぇー……」


 美奈子の頭の中に何となくだが、ロータリーと呼ばれる機械が思い浮かんだ。

 田んぼを耕す機械がトラクターというふわっとした認識だったが、トラクターの後部につけたロータリーでは田起こしを。他にも付けるものがあったような気がしたが、頭の中にぼんやりとしか浮かばない。


「田起こししたら、あぜを作る。畔ぬりだ。これは三月中旬ぐらいに」


「あぜ?」


 知らない単語が多く、言葉をそのまま繰り返す。


「畔は田んぼに水を入れたとき、漏れないようにするための土壁だ。トラクターに畔ぬり機を付けてやる」


 ロータリーは何となくわかったが、畔ぬり機の形が分からない。手元にあるスマートフォンで画像を検索する。大きな円盤がついていて不思議な形をした機械がいくつも表示された。


「これ見たことあるや。何に使うんだろって思ってた」


 画像を乗せていたのは農機具メーカーだった。画面をスクロールしていくと、「価格表」の文字に気付いた美奈子は、値段を見てみることにした。


「畔……嘘っ! たっか!」


 メーカー希望小売価格では畔ぬり機は四十万から百万円を超えるものまで載っていた。月に二十数万円の給料で生活してきた美奈子にとってみれば、桁が違う。一年に使う機会が少ない畔塗り機が、こんなに高いものだとは思ってもいなかった。


「そんなこと言ったら、他の機械の方がもっと高い」


「それ気になる……」


 次々と価格表から値段を見ると、先ほどの話に出てきたロータリーは、五十万から高いもので二百万円以上するものまである。それを新調したと言ったので、これだけお金がかかるものなのかと、父の顔をジッと見た。


「なんだ?」


「いや、お金があるんだなって……」


 一つの機械にこれだけのお金がかかる。ロータリーを引くトラクターは更に一桁多い値段。トラクターだけでは農家としてやっていけない。広い土地を鎌を使って稲刈りをする農家などいない。収穫するためのコンバインと呼ばれる機械を使う。これも一台一千万ほどする。もちろん他にも必要な機械があるので、新規で米農家を始めようとしたら莫大なお金がかかる。いかに農家にはお金がかかるものなのだと思い知らされた。


「金はない。米を作っても、気候に左右されて収穫量はぶれるから収入は不安定。それに近年じゃ需要が下がっている。それでも辞めないのは、受け継がれたものを守るためだ。土地も機械も。使わなければどんどん悪くなる。必要なものしか買わない」


 ドンと構える父の姿は、とてもかっこよく見えた。

 これだけ農家という仕事に誇りを持っているということは、美奈子には信じられなかった。自分が都会で仕事をしていたときに、誇りなんて全く持っていなかった。都会で暮らすという憧れだけで仕事をしてきたからだ。

 美奈子は思わずパチパチと手を叩いた。


「あらあら。お父さんたら、今日はずいぶん喋ってるみたいね。そんなに美奈子がやる気を出したことが嬉しいのかしら? いいことね」


 お風呂から上がり、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら晴美がやってきた。

 いつもより喋ったことが恥ずかしくなったのか、賢治は近くにあった夕刊新聞を広げて顔を隠す。


「まあ! 照れちゃって! どんなお父さんでも素敵よ!」


「う、うるさい……」


 照れる父と、嬉しそうな母。見ている美奈子の方が、恥ずかしくなるほど仲むつまじい。

 この場にいてはお邪魔だと思い、ノートを持って立ち上がった。


「あら? どこへいくの? もっと仲良しなところを見ていなさいよ。あなたもきっと結婚したくなるわよ。お父さんみたいな人と」


「見てはいたくないかな……こっちが恥ずかしくなるし。取り敢えずはお風呂に入るよ」


「あら、そう? お父さんは足が不便だし、たまにはお母さんがお父さんの体を洗ってあげましょうか?」


「結構だ」


「うふふ」


 美奈子は苦笑いをしながらその場を離れた。

 美奈子が去ったことを確認した母は、ぼそっと呟いた。


「あの子、本当に継ぐ気があるのかしらね……?」


 いつもよりも落ち着き、小さな声だったが、父は聞き逃さない。


「定職に就けなくても、俺たちが死んだとしても、米を作れれば生きていける。あいつはやるときはやる。ただ、農業を舐めていそうだが」


「それもそうね! 免許もとったんだもの。お父さん似の性格だから、やるときはやる子よね! 舐めてたら痛い目見るけど、そこはまぁ、頑張ってもらいましょうね! そうそう、覚えてる? 小学生のときに美奈子が――……」


 晴美は、賢治の言葉ですぐにいつも通りに戻った。そして晴美の長いトークが始まった。

 賢治は美奈子の先を案じながらも、長い話を静かに聞いていた。

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