第2話 お休みをいただきます
「部長。これ、昨日頼まれていた朝の資料です。それと、今日の午後と明日丸一日。お休みをいただきます」
まだ仕事が始まったばかりの朝だというのに、顔は脂でテカテカと光る部長の元へ。頭部がかなり薄くなり頭皮が見えている部長へ、残業して作った資料を渡し、休みの申請を告げた。
五十を過ぎた部長は、パラパラとめくり資料へ軽く目を通すと、ニヤニヤと気味の悪い顔をしながら美奈子を見る。
「ねえ、もしかしてデート? いいなぁ、私ともデートしてくれない? いいお店紹介するよ?」
小指を立てて言うその言葉に、ゾワっと全身に鳥肌が立った。
「いいえ、違います。申し訳ありませんが、お誘いはお断り致します」
「つれないなぁー。もっと気を抜いていかないと、すぐに疲れちゃうよ? ねえ?」
美奈子は、「誰のせいだと思っているんだよ!」と心の中で叫びながらも、顔では何とか笑顔を作った。
こんなセクハラ上司がいることも、美奈子に精神的な苦痛を与えていた。
男女比では圧倒的に男性の方が多い職場。そうなった理由は、この無能でセクハラしてくる上司に耐えることができなかったからである。男性部下には何も言わないため、男性部下が残っている。何人もの女性がこの部署へ配属されては、この上司を嫌い、耐えきれなくなって消えていく。唯一残った美奈子への執拗なコミュニケーションが気持ち悪かった。
しかし、笑顔とは裏腹に、声のトーンで怒りを表しながら言い放った。
「とりあえず! 私は、明日は休みますので!」
まだモゴモゴと何かを言いたそうにしている部長を放置し、自分のデスクへと戻る。自分の仕事は責任を持って行う。美奈子は午前中、しっかり仕事をこなした。
空腹が正午を知らせたとき、仕事のキリがよかったのですぐに、実家へと向かった。
都内から実家へは新幹線と電車を使って二時間かかる。会社から一度着替えに戻り、それから電車で実家へと向かった。
周りの景色がビルの暗い色から、木々の自然な色へと変わっていく。冬なだけあって、緑はない。代わりにうっすらと白い雪が見えた。
ダラダラとしていたわけではないが、実家の最寄り駅に着いたときには、夕方四時になっていた。
駅から家までは離れているため、事前に母親へは到着時間を伝えて迎えに来てもらうことになっている。
駅員が一人しかいない小さな古い駅の改札を抜けると、真正面に水色の軽自動車が一台止まっていた。
その車へ近づき、運転手の顔を見る。運転席にいるのは紛れもない美奈子の母親――
晴美は美奈子の顔を見るなり、ニコッと笑って手を振った。
美奈子はその車の助手席ではなく、後部座席の扉を開け荷物と一緒に乗り込んだ。
「あんた、えんらい髪伸びたわね」
「久々に会って言う言葉? それ」
数年ぶりの再会にしては、ツッコミどころがおかしかったことに少し苦笑いをしつつも、どこか安心した気持ちになった。
「それじゃ行くわよ」
「はーい」
晴美がアクセルを踏み込み、車は動き出す。
都会の生活では、移動手段はもっぱら電車である。しかし、田舎の生活には車が必須。電車の本数は少なく、バスが走っていないため、一家で一人一台ずつ車を所有していてもおかしくない。それだけ車が生活に欠かせないものになっていた。
都会暮らしではタクシーやバスにたまに乗る程度。久しぶりに乗った普通車に懐かしさを感じていた。
美奈子は街の景色も少し変わっていたことに気付く。今まで一面田んぼだった場所には、ポツポツと新しい家が建っており、空き地のようにだだっ広い土地にはショッピングモール建設予定地の看板が立てられていた。
「なーんか、変わったね。前と全然違う。田んぼがない」
「そりゃそうよ。みんな歳でやってらんないっていうんだもの」
「あー……なるほどね。少子高齢化がここまで来てるわけか」
「そういうこと。さ、もうすぐつくわよ」
「え? 家はこっちじゃなくない?」
道沿いを見ていても、明らかに自宅とは違う方向へ進んでいる。しかし母は目的地が近いと言うので、前方を見てその目的地がどこなのかを理解した。
目の前には古びた色をしている大きな白い建物――病院だった。
美奈子も父親がどうなったのかまだ聞いておらず、不安な気持ちが再びやってきた。
「お父さん、待ってるんだから」
広い駐車場に車を止め、晴美の後をついていく。
病院の中は独特の雰囲気が漂っている。すれ違う患者は車椅子だったり、歩行器を使用している弱々しい高齢者が多い。少子高齢化の影響が、病院内には顕著に表れているようにも思えた。
そんな中で入院している父。今にも死にそうになっていたらどうしようと、美奈子の心臓はバクバク音を立てていた。
「ここよ。お父さーん、美奈子お父さんに会うために帰って来たわよー」
まるで我が家の玄関を開けるように、病室の扉を開ける晴美。大部屋であったが、入口のネームプレートには父の名前以外なかった。美奈子は思わずツッコミを入れたくなったが、何とか堪え、中へと入っていった。
入って右側、入り口に一番近いベッド。そこに美奈子の父親である
ベッドの背を起こし、新聞を読んでいた賢治。見た目は元気そうであることを確認できた。ホッと胸をなで下ろしたのもつかの間、晴美が賢治の足下の毛布をバサッとめくった。
「うわっ……何、骨折でもしたん?」
賢治の右足は、白い包帯でグルグル巻かれていた。
「そうなのよー。でも、折れたんじゃなくて、ヒビが入ったらしいわ。他に悪いところがないか見るために念のための入院。お父さん、階段で転んでね。もうビックリよ。本人はこのくらいツバ付けとけば治るとか言うのよ? 動けないぐらいなんだもの、すぐ救急車呼んだわよ」
めくった毛布を直すことない晴美に代わり、厳格な賢治は何も言わずに自ら毛布をかけ直していた。
「階段って、うち、平家じゃん。階段ないじゃん」
「あるじゃない。玄関に上がるまでに段差が二つ。それで転んだのよ」
美奈子の実家は戸建てではあるが、二階はない平家だった。しかし、玄関の扉前に二段の段差がある。普段使い慣れているはずだが、たまたま転び、運悪く骨に段差が当たってしまったのだろうと推測した。
「昨日の電話でのお母さんの言い方だと、もう死んじゃうんじゃないかってすごい心配したよ」
「おいそれと死ぬものか。俺のことはいい。それより美奈子、話がある」
賢治がキリッと真剣な顔で、美奈子の顔を見る。
フワフワと話す晴美も黙っているため、ここは真面目な話なのだろうとベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「美奈子、継げ」
「……は?」
話の要点しか言わない賢治の言葉に、首をかしげた。
「もう、お父さんたら。それだけじゃ分かりにくいでしょう? 要するにね、お父さんがしばらく動けそうにないから、家の仕事をやってくれってことを言いたかったのよね? お父さん」
美奈子が理解できていないとわかった母が、更に詳しく説明をする。それでやっと美奈子も理解できた。
「で、家の仕事って何?」
「お米よ、お・こ・め! そろそろ始めるのにお父さんのこの足じゃ出来ないもの。田起こしをまだやる必要があるのに」
美奈子の実家は代々続く米農家である。定年退職した賢治は、専業農家として米作りに励んでいた。それを晴美が支えて今までやって来た。しかし、賢治の足が使えない今、農業をするのには大きな支障がある。車の運転も出来ないし、機械の操作も出来ない。収入源でもある米作りが出来なければ、生活が苦しくなることもある。それに、田を放置しておくのもいいことではない。
両親の言いたいことはわかった美奈子だが、他の問題があった。
「そんなこと言っても、私には仕事があるし出来ないわよ」
「あなたまだ仕事続けようとしていたの? この前の電話じゃ、辞めたい辞めたいってずっと言ってたじゃない」
「うっ……そうだっけ?」
かなり酒に酔って晴美と通話したために、何を話したのか覚えていなかった。つい本音がでてしまっていたのだろう。
都会への憧れだけで続けてきた仕事は、いつしか重荷になっていた。
「あなたもいい歳だし、せめて結婚してくれれば私達も安心なんだけどねぇ。ねぇ、お父さん?」
「ああ」
同世代は次々に結婚して、子供もいる。仕事に追われ、出会いすらない美奈子の心に、結婚という晴美の言葉が突き刺さった。
仕事のせいで、精神的に影響が出ているのならば、辞めるのもありかもしれない。美奈子の選択肢の一つに退職ができた。
「こっちへ戻って、仕事探してもいいんじゃない? 都会暮らしは大変でしょう?」
「そりゃ、まあ……」
退職を選択肢に入れたとしても、その後の収入がないとやってられない。残業に次ぐ残業で、お金を使う機会もないため貯金額は大きい。それである程度暮らすことはできる。しかし、不安はぬぐい切れてはいない。
「今すぐ仕事を辞めろとは言わないわ。自分でよく考えて決めてちょうだい」
「ん……わかった」
仕事を辞めるかどうか、考える時間はまだまだある。
すぐに決めてしまっては、後悔するかもしれない。この場で決断することは避けた。
「それにしてもお父さんも歳よねぇ。昔はあんなにかっこよかったのに」
晴美の昔話が始まる。
お喋りな晴美は、寡黙な賢治にひたすら喋り続けた。美奈子はそれを賢治と同じく黙って聞いていた。
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