農業女子はじめました

夏木

第1話 仕事は苦痛である

 太陽が沈み、月が顔をのぞかせた夜。ここ数日、日中もあまり気温が上がらなかったこともあり、夜は一層冷え込む日が続いていた。

 大きなビルが建ち並び、夜だというのにまだまぶしいほど光が多い都心。その光のせいで、星があまりよく見えない、

 いくつも並ぶビルの一つ。しかし他のビルとは少し小さなビルの中から一人の女性が早足で出てきた。

 グレーのチェスターコートに身を包んだ女性――奥野おくの美奈子みなこは、「はぁ」と小さく白い息を吐いた。

 上京してすぐに一目ぼれし、学生時代の貯金を切り崩して買った腕時計を確認する。何年も使い込んでいるので、傷も多いそれは午後九時を指し示していた。

 また残業してしまったと、再びため息をついて駅へと向かった。

 美奈子の会社では、終業時間は夕方五時となっている。終業時間には音楽まで鳴り、残業せずにそこで帰ることを促す意味で流れるが、その時間に帰宅できるとは限らない。その時間に帰ることができたのは、覚えている限りでは二回ほど。一度目は入社初日。入社式と説明を受けた日。二度目は上司が急病で休んだ日。たまたま金曜日だったので、上司は土日で体調を取り戻して、月曜日に復帰した。それ以外の日――つまり毎日、二時間の残業を行うことは当たり前だった。「上司が帰らないと、部下が帰れないだろう?」と言って、上司は毎日定時に退社していく。自分の仕事を部下に押しつけているから、定時退社できていた。そのダメな上司のせいで、部下の仕事が増え、定時に帰ることは叶わないことを本人も、更に上の立場の人達ですらも意識していない。

 今日もその上司にコピーしといてやら、発注しといてとあらゆる仕事から雑務までを押しつけられた。とどめは「明日の朝使う資料を作っといて」だった。明日使うものを、終業時間直前に押しつけるので残業せざるを得ない。何とか終わらせた結果、この時間となってしまった。

 美奈子がこの会社へ新卒として入社してから早七年が経とうとしている。三十を目前にし、そろそろ結婚を考えてもいい頃だが、今日のように残業をすることが多いこともあり、出会いが全くなかった。


「ただいまー……」


 電車に揺られ三十分。都心から近いが、古びたアパートの一室が美奈子が住む部屋だった。

 誰もいない部屋に入り、鍵を閉めると、そのままベッドにダイブした。

 生まれも育ちも田舎の美奈子は、高校生になったときキラキラした都会に憧れた。テレビで見る都会では、流行に敏感な人達がいっぱいいて、可愛いものがたくさんそろっている。そんな都会で働きたかった。そして今、上京し一人暮らしをしている。

 就職氷河期が過ぎたとも言われたが、美奈子の就職活動は難航した。保険の保険で受けた企業さえ落ち、やっと決まった会社が今の職場である。本来やりたかった職種でもないため、仕事が楽しいとは思えずにいる。就活中に仕事は夕方五時までと聞いていたが、現実は違うのだと思い知らされたのは、入社してから二日目だった。初日の歓迎会の際、先輩社員がぽろっと「うちはブラックだよ」という言葉。どういうことだろうと思ってはいたが、二日目に会社から解放されたのは午後八時。先輩の言うことはこういうことかと思いながらも、仕事を続けた。数少ない同期は耐えきれず、三年もしないうちにみんな退職していった。唯一残った美奈子には、同期の分まで期待を寄せられる。その期待に応えねばと思い、気張っていた。

 時には今日のように理不尽な仕事を押し付けられたり、上司の失敗を押し付けられたり、セクハラされたこともあった。

 そんなことがあっても退職しなかったのは、都会への憧れがあったからだ。

 しかし、七年も経つと都会への憧れよりも、都会で暮らすことの息苦しさを感じていた。

 都会には流行のものがたくさんある。しかし、都会には時間がない。どの人も忙しそうにしている。美奈子は平日の疲れが残ったまま休日に出かけられるほど、体力がなく、ショッピングにさえ行くことができていない。あんなにキラキラした都会で、着飾って出かけたいと思っていたのに、そんな時間もなかった。

 仕事は苦痛、リラックスできるのは帰宅してからの数時間だけ。こんな生活を続けてきて、肉体的にも精神的にも参ってしまっている。


 明日も仕事があると思うと気が滅入るなと思いつつ、体中の力を抜いて、ベッドで横たわっていた。

 そのまま五分ほど経ったとき、美奈子のバッグの中で、何かがヴーと音を立てた。

 美奈子はものぐさそうに、ベッドから起き上がることをせず、手探りでその音の原因であったスマートフォンを取り出した。

 画面には「お母さん」の文字。美奈子の母親からの着信であった。


「あー……もしもし?」


『お母さんだよ。あんた、ちゃんとやってるかい?』


「まあ、そこそこ……」


 美奈子はけだるそうな声で答える。


「で、何のよう?」


 普段、母親と連絡を取るときはメールを使っていた。急ぎの用でないのなら、メールで充分であった。

 しかし、今日はメールではなく電話をかけてきている。稀に声が聞きたいという理由でかけてくることもあるが、それは月に一度あるかないかだ。三日前に既に電話しているので、今回はその理由とは考えられなかった。


『美奈子。よく聞くんだよ。あのね、お父さんが倒れたの。だから早く帰っておいで』


「え!? 大丈夫なの?」


『どうだかねぇ……とりあえず早く帰ってきておくれよ』


「う、うん……。明日午後休もらって帰るね?」


『あいよ』


 電話は母の方が乱暴にブチッと切った。

 いきなり父親が倒れたと聞き、美奈子の頭はハッキリと覚醒した。

 ここ数年帰省していないが、父親は特に体が悪いということはなかった。むしろ何も薬を飲んでいないほどの健康体。母の食事の管理がいいのか、そういう体質なのか分からないが、定年過ぎてもピンピンしていた。それなのに倒れたと言うのだから、もしかしたら突然、脳出血とか心筋梗塞が起きたのではないか。それならば早く帰らないと。このまま死んでしまうのではないか。

 美奈子の頭の中を不吉な考えがよぎる。

 だが、母の話し方からして、そこまで深刻だとは思えない。死にそうならば、泣きながら電話をしてくるはず。母の声はどこか弾んでいた。

 母への疑念と父への心配。その両方を抱きながら、帰省の準備をした。



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