短編その他

凹辺凸々

揺らぐ


 夜を徹した。蒲団の中で神経質な芋虫の如く身を縮め、助兵衛すけべえで放逸な言の葉を紡ぐ一種の文学的創作業に身を投じていた私がふと我に帰り、賢明なる電話機スマアト・ホンの硝子盤に注ぐ視線を動かすと時刻は午前六時を過ぎていたのであった。これは完全なる失策である。いったい私は一晩じゅう何をていたと云うのか!勿論、助兵衛な言の葉を書き連ねていたのである。トホゝ。。。


 思えば、私の情熱は常に己の肉体と魂の低次の部分が渇望し追い求める低劣な欲望を満たさんが為、俗悪と云う他にない悪行を積み重ねることのみに向けられてきた。麗しき婦女への接近、ごますり、法に触れぬ程度の、それゆえ最も不快なセクシュアル・ハラスメントと云った具合に。


 私は二浪の悪たれ、手に職もなければ学もない鼻水垂らしの出来損ないである。私の二つの眼は女の穢れた部分を覗き見る為に冷たく濁り、二つの鼻穴は卑猥で淫雑なゴシップと残飯のにおいを嗅ぎ付ける為に醜くもひん曲がった。そしてたった一つの真っ赤な唇は、兄弟、姉妹、父母をも喰らい、その日暮らしの惨めさを誤魔化す為にささくれ立ち、苦虫を噛み潰すだけの腐った扉と成り果てた。


「あゝ、この私の生になんの意味が有ろうか!」私は毎夜うわ言のように自分に問いかけ、返事をしないのが己であると判っていながら、回答者の沈黙をシェイクスピアの悲劇の渦中にあるが如く嘆き憐れみつつ床につくのである。夢の中で即座に譫妄状態に陥り、下品で浅ましい夢魔どもと宴の席で語らい、口に出すのも憚られるような性的欲求を解放させ、開花したリビドーの皺くちゃの蕾から悍ましきにおいを放つスペルマを奔流の如く噴出する私がである!


「あゝ、この私の生になんの意味が有ろうか!」ある日、私は何時もの様に答えの無い問いを虚空へと投げ掛けると、嫌なにおいのする不潔なタオルケットを頭のてっぺんまで引っ張り身体を覆った。すると不可思議なことに私の脳裏にある言の葉が、パチリ、と──まるで文明から隔絶した寒村に初めて電球の明るい光が灯る様に──閃いたのである。「否、意味など初めから無い」意味など無い!


 これが私の最初で最期の天啓、神から授かりし本物の言葉、全ての選択からの逃避を決め込み続けた私ただ一人にとっての紛れなき真実なのであろうか!「だとすれば何と悲惨な──」私は言い掛け、止め、病に侵された山羊のように悲痛な呻き声をあげてから、「──何と悲惨な旅路か!否、旅では無い、旅ですら無いのだ!辛く厳しい行脚の役目すら私には課せられなかった、試練すら与えられずに朽ち果てる、それこそが父の望んだ私の命!省みられぬもの!わが定め!」


 意味の無い私は、継ぎと接ぎだらけの意味の無い戯言を腐った扉から撒き散らしながら、やはり意味の無い呪術民族的舞踊の、軽快だがどこか深刻な問題を抱えている性急なステップを踏んで街へと繰り出す(それはさながら詩人の身でありながら古式ゆかしき焚書坑儒と若者の市街地への暴力的進出を扇動した、かの男の痛快な評論戯曲のフレーズの様である)。暖かな太陽が燦々と照りつける五月のグロテスクな陽気に当てられて、私は蒲団の中に居る時の様に萎縮し、昼の終わりを待ち望む。


 すると、寄り目、鉤鼻、への字口をした奇妙奇天烈な中年男たちが何人も、灰色でないだけマシだと言わんばかりの厚かましさで手前の道を猛然と埋め尽くし、鼈甲飴の様に照り光るのっぺらぼうの顔を持つ市民の往来を妨げた。


「君を助けに来たのだよ」中年男の一人が私の側に近付き、ミントの香りがする黄色いハンカチイフで額に浮いた脂汗をそっと拭ってくれる。「我々は君をこの腐った五月の陽気から救い出す為に現れたのだよ。我々は君の様な人間を決して奴等の手に渡したくは無いのだよ。一度定められた〈運命〉は変えることは出来ない、しかしその到来を遅らせることは可能なのだよ。管理局オーソリティに全てを委ねなさい。さすれば我々には君の凡ゆる可能性を再分配する正当な権限が与えられるのだよ」


 私はミントの香り振り撒くハンカチイフの男の語りを傾聴すると、不思議と震えが止まって云った。「ありがとう、大分気持ちが落ち着きました。しかし助けは要りませぬ。〈運命〉とやらの行く末は、とうに知り得ていたのです。私が踠いて足掻こうが、〈やつ〉は変わらずあの場所で、大口を開き待って居る。ならば今有る昼が過ぎるのも、後来る夜を怖れるも、どちらも殆ど同じこと、初めから〈意味〉など有りませぬ。そしてそれこそが私の〈全て〉なので御座います」


 男は無言で、しかし哀しげな表情を向けると、ただ私に皺だらけになったハンカチイフを手渡して、他の連中と共に音も無く去ってゆく。風と共に去りぬと私は想う。これもまた意味無きこと。別れの言葉も意味は無し。故にそれは其処に有る。


 大路にはあっという間に顔の無い善良な市民が群がり、私に丁重で軽薄な挨拶を繰り出す。私は腐った扉を開きかけ、慌てて閉じる。意味を込めずに遣り過ごさねば。助兵衛な男だと思われてしまう。


 ハンカチイフを口に結ぶ。強烈な香りで世界が揺らぐ。

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