プールと夕立ちと幼馴染

使った単語:スイミング 頑張る ナチュラル 大使 厠 1時間半


 蝉の鳴き声というやつはどうしてこう人の気持ちを憂鬱にさせるのだろう。

「それはね、ひろちゃんが泳げないからだよ」

「あのさ凛花りんか、たまにそうやって僕の頭の中読むの、やめてくれる? 怖いから」

 そう答えると、学校指定の水着を着た凛花は隣でにまにまと笑った。

 7月始めの週末、僕は朝から幼馴染の凛花とは市民プールに来ていた。

 たまにこういうことを言うと『リア充め!』というような非難の目を向けられることがあるけれど、実際は全然おもしろくない状況だ。

 そもそも僕は泳げないから楽しくない。しかも同級生にもし見つかったら冷やかされるに決まっているから、違う意味でドキドキしながら過ごさなくちゃいけない。暑いし、雨降りそうな天気だし、家に帰ってゲームしたり動画でも見てゴロゴロしたい。

「だって今日はひろちゃんの特訓で来たんでしょ?」

 凛花は僕が水泳の授業で困らないように特訓をしに来てくれる体でいるので、別行動もとりにくい。小学5年生にもなって泳げないのもそれはそれで恥ずかしいし……。

 そんな僕の考えを見透かしたように凛花は「大丈夫だって、今日は午後から雨が降るってニュースで言ってたしさ。ほら人も全然いないじゃん」と言った。

 確かにプール開きしたばかりの週末だというのに人の姿はまばらだった。

 見渡すと小さい子を連れた母親や、大学生のような人たち、椅子に座ってスマートフォンの画面を見ている男性がいるぐらいだった。

 僕の気持ちは今の天気のような曇天だったけど、確かにこれは絶好の特訓日和なのかもしれない。

 意を決してプールに入ると、凛花はビート板を渡してくれた。

「いい? ひろちゃん。ここはプールではありません。ここはでっかいお風呂です。足もつくし、全然怖くありません」

「あのー、怖くないのは嬉しいんだけど、その『ひろちゃん』って呼ぶの、そろそろ止めようよ」

「いいじゃん他に誰もいないし。学校じゃ言ってないでしょ?」

「まぁ……そうだけど」

 なんかそれも、なんていうのか、嫌じゃないけど嫌というかなんというか。

「じゃあこうやってビート板を腕の下に置いて、地面を蹴ります、浮きます。こんな感じ」

 凛花の身体が重力から解き放たれたように水面に浮く。

「はい、やってみて」

 僕は言われた通りにやってみた。沈んだ。

「なんで!?」

「ぷはっ、それがわかったら苦労しないよ」

「ビート板ありで沈む人、私初めて見たよ。これは特訓しがいがありそうだね」

 こうして僕はどんどん彼女に弱みを握られていくんだろうなと、なんとなく思う。

 でも同時に、幼馴染が凛花のような奴で良かったとも思う。

 5年生にもなってくると、グループを作っている女子は4年生の時よりもさらに目に見えてその結束が固くなったように感じていた。だから、嫌味とか陰口のようなことを言うクラスメイトが増えていた。そういうのって、僕はなんだか、嫌だなと思っていた。なんとなく、どうしようもないことなんだろうというのは察していたけれど。

 そんな中、凛花は属するグループを転々としていた。というか、そもそもグループに属していなかったと言ってもいい。彼女はナチュラルで毒気がないため、いつも女子のグループ間を行き来していて、クラス内のグループの仲をとりもつ大使のような役割を果たしていた。

「次はこれしてみてよ」

 凛花はプールの縁を手で持って、さっきのように足を浮かせた姿勢をとった。

「おぉー」

 僕が拍手すると「いや全然これ、拍手するとこじゃないよ!」と少し笑った。

 凛花の真似をしてやってみたが、一向に浮かぶ気はしない……と思っていたら、凛花がスイミングスクールのコーチのように僕の足を持って引っ張り上げてくれた。

 人は殆どいないとはいえ、めっちゃ恥ずかしいぞ、これは。

「凛花は、なんで僕が泳げないの手伝ってくれるの?」

 黙って凛花に手伝ってもらう恥ずかしさに耐えかねて僕は話しかける。

「そりゃあ、あれでしょ、いろいろ助けてもらったからじゃん。持ちつ持たれつってやつ?」

「僕が凛花を? 助けたことなんてあったっけ?」

「えぇ、覚えてないの? ほら、3年生の時消しゴム貸してくれたりさ、4年生の時は男子にいじめられそうなところを助けてくれたじゃん、他にもいろいろ」

 そうだっけか。言われてみれば確かに、そうなのかも。

「というか、もっと前からだよ。幼稚園の時も、私が苦手なミニトマト食べてくれたじゃん。なんやかんやでいっつもひろちゃんが助けてくれるんだよ」

「うーん、そんなことあったっけ」

 僕は脳みその中をひっくり返して思い出してみたけれど、なかなか出てこない。

「あったよぉ、ほら、庭に園長先生が植えてたやつだよ」

「あぁ! 思い出した!」

 園長先生の顔を思い出して、そのミニトマトの事件を思い出した。

 そういえば凛花あの時、泣きそうな顔してたんだっけ。今ではもう考えられないなぁ。

 僕が思い出して少し笑った。

「何笑ってるの? あ、でもちょっと浮いてきたかも。手、離すよ」

 僕の身体は不思議なことに、凛花の手が離れても足が少しの間浮いていた。

「おぉ、やったじゃんひろちゃん」

 凛花は拍手をしてきたけれど、あまりに単純なことができただけに、その拍手は少し恥ずかしかった。


 その後、何度も凛花の教えるとおりにいろんなことをやってみるうちに、僕はビート板を持って水面に浮くことができるようになった。

「よーし、やったね。少し休憩しよ」

 僕たちはプールから上がってプラスチック製の椅子に座った。

 朝から曇り空だったけれど、その色はだんだん黒さを増してきていて、今にも降りそうな天気になってきていた。

「雨が降ってきたら帰ろうね」

「おっけーわかった」

 僕自身も、水中でできることが少しずつ増えてきて、手ごたえを感じていた。だから、今すぐ帰ろうとは言わなかった。

 まぁこんな天気だ、もう残っていた僅かな人も帰り始める姿が見える。

 そんな中。

 ふと僕はプールを挟んで反対側に座る男の人の姿が気になった。

 なんか、練習している時から気になっていたんだけど。

 あのスマートフォンの人、ずっとあそこで何をしてるんだろう。ゲームかな。

 誰かを待っている風でもなく、じっと座ってる。

 僕が男の人の方を向いていると、くるりと方向を変えた。今までそんなそぶりは見せなかったのに。

 もし僕があの男の人で、もしスマートフォンを持っていて、もしカメラを起動していたら、一体誰が写っていたのだろう。

 まさか、とは思ったけれど。僕はモヤモヤする気持ちを抑えきれなかった。

「よいしょっと」

 僕は何気ないふりをして立ち上がった。

「あれ、ひろちゃんもう休憩終わり?」

「いやちょっと、厠に」

 腰に手を当ててちょっとふざけたふりをして言った。

「厠? あぁ、トイレね、わかった」

「凛花、悪いんだけどさ、あそこの自動販売機あるだろ? オレンジジュース買っといてくれない? 凛花の分は奢るからさ。今日のお礼に」

「やった」

 凛花は今日の天気には似合わない眩しい笑顔を見せて、自動販売機の方に歩いて行った。

 さて。

 僕はトイレに行くふりをしてその前を素通りし、例の男の人の背後にこっそりと歩いて行った。

 そっと画面をのぞき込む。

 そこには自動販売機の前に立ち、ご機嫌な様子でジュースを選んでいる僕の幼馴染の姿があった。

 その瞬間、僕のお腹の底の方からどす黒い墨のような感情が煙のようにもくもくと溢れてきて、内臓を、肺を、心臓を包み込むのが分かった。

 ミニトマトを前に泣きそうになっていた凛花、3年生の時に消しゴムを忘れて困っていた凛花、今さっきまで僕に浮き方を教えてくれていた凛花。

 この男が凛花を撮っていた事実が、どうしても許せない。

 男の人の少し禿げかけた頭を見て、気付くと僕は殴るために右手をぎゅっと握っていた。それに自分でびっくりした。僕は人を殴ったことなんてなかったのに、黒い感情に飲み込まれてしまって、僕の意識していないところで僕の身体は暴力を振るおうとしていた。

 それでも思いとどまったのは、凛花が前に男子にいじめられそううになっていた時、仕返しをしかけていた僕を引き留めたことを思い出したからだ。

 『仕返ししたら、ひろちゃんも同じ悪い人間になっちゃうよ』そう言った凛花の声が僕の頭の中で響いていた。

 ここで手を出してしまったら、僕も悪い人間になってしまう。

 そうなったら彼女は、きっと、悲しむだろう……。

 僕は握りしめた手はそのままに、その場をこっそりと離れて監視台の上で座っている男の人に話しかけた。


「いやーでっかいのが出てて時間かかっちゃった」

 僕はトイレから帰ってきたふりをしてそう言った。

「もー、ひろちゃん。そういうの、デリカシーが無いって言うんだよ。モテないよーそれじゃ」

「ごめんごめん、よしじゃあ頑張って練習の続きを……」

 と僕が言いかけると、途端に堰を切ったように雨が降り出した。

「あー残念。特訓はまたこんどだね、次はビート板が無くても泳げるようにならないとね」

「あぁ、うん、そうだね」


 帰りのバスに乗ると、これも雨の影響か、僕たち以外に人は乗っていなかった。

「貸し切りだね」

 凛花は言った。僕たちは一番後ろの座席に座った。

 移動していく景色を背景に雨粒がバスのガラスに当たり、線を引いて落ちていく。

 僕はさっきの出来事を思い出していた。例の男の人が監視員さんに連れていかれるのを遠目で見て、僕は心底、自分の黒い感情に流されて殴らなくてよかったと思ったし、一方でそうなりそうになっていた僕自身が少し怖かった。もしあそこで、思わず行動してしまっていたら……。

「あれ、ひろちゃん」

「ん、何?」

「右手、どうしたの? 血が出てるよ?」

 見ると、さっき握りこんだ時に爪が手のひらに刺さって少しだけ血が出ていた。今やっと気づいた。僕はさっと右手を隠した。

「あーさっきこれ、あれだな、着替えてた時にチャックが挟まって……」

 僕の下手くそな嘘を遮って凛花は言う。

「あのさひろちゃん。トイレに行くって言ったたやつ、あれも嘘でしょ。どこ行ってたの?」

 僕はびっくりした。まさか凛花ってエスパーなのか。

「いやいや、ほんとだよ、すんごい大物だったんだよね、うんk……」

「ほらやっぱり。だってひろちゃん、嘘ついてる時は必ず腰に手を当てるんだもの」

 僕はさっと無意識に腰に当てていた手を放す。

「急いで手を放すってことは、嘘ついてたってことだよね」

 気付くと僕は墓穴を掘っていた。

 凛花に隠し事はできない。そう観念した僕は、事の始終を彼女に伝えた。

 凛花は怖がる風でもなく、怒る風でもなく

「私なんか撮ってどうするんだろね?」

 と笑っていた。

 僕が殴りそうになったことも遠まわしに言うと、凛花は言った。

「ありがとう、手を出さないでいてくれて。ひろちゃんのいいところだよ、そういうところ。ちゃんと踏みとどまれるでしょ、だから私も安心してられるもの。もしまた何かあったら、また助けてね」

 困ったような笑顔を向けてくる幼馴染を見て、僕は目の前にいるこの子を守らなくてはならないと思った。そしておそらく人生で初めて、他人を愛しいと思うことはこういう気持ちなんだ、と悟った。

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1話完結短編集@ランダム単語 園長 @entyo

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