漣のララバイ

橙野 唄兎

僕はいつだって、君の幸せを願っていたさ。

 妻が病気になった。



 妻の可奈子かなこから病気の名前を言われても、幼い頃から病気知らずで医療の知識や病気に疎い自分にはイマイチピンと来なかったが。

 いや、ピンと来ない方が自分にとっては幸せなのだろう。

 可奈子の身に襲いかかった痛みを生々しく感じなくて済むのだ。

 だが、わかる。分かってしまう。

 これだけは。医療の知識がなくたって。


「私、手術受けないよ」


 妻は、どうやら。


「もう私、生きることにすがり付きたくないの」


 






 僕は、言の葉を可奈子にかけようとしてやめた。

 うきうきとしながら退職の準備を始めるその手つき。

 純粋な子供の、宝石のようなきらめきで見つめる先には観光ガイド。きっと彼女にとっては宝箱のようなものだろう。

 その瞳を見て僕は確信した。「声をかけても無駄だ」と。


 可奈子は僕の言葉に耳を傾けようともしなかったのが見てわかる。こうなると可奈子はダメなのだ。

 昔から、一度心の底から愛していることは自分の限界を超えるまでやっていた。


 ──────それこそ、


 大学時代の研究だって、趣味の編み物だってそうだった。救急車を呼ぶ羽目になったこともある。

あれは何年前だったかな。可奈子は大学生の時に研究に夢中になりすぎて倒れてしまったことがあった。

ああ。懐かしい。

そんな魂を奪われそうになるほどに努力していた可奈子が、何もない僕には、輝かしく思えた。連続ドラマ主演の大人気の女優より、SNSで最近人気だという絶世の美女より、可奈子が良かった。

正直僕と可奈子は釣り合いはしないと思う。夫婦という関係が築けただけで、僕にはもう悔いがなかった。

大学の行けない分を取り戻そうと、入院していたのにも関わらず徹夜してたから、回復が遅いと言われてからお義母かあさんという逆らえない見張りをつけられてからはげんなりしていた。

目の前で愛しの恋人がベットで横たわっている、という状況にそれなりの性欲も煽られはしたが、流石に将来の義母にあたる人の前で性行為ができるほど僕は動物らしくはなかった。


 可奈子の入院していたあの時、二人で聞いた流行りの「さざなみのララバイ」はよく覚えている。


 自ら波に飲まれた旦那をいたみ、眠る暇もない現代社会から逃がすために、愛する人がこの波で彼岸花の向こうまで流れるように、祈りをこめた子守唄ララバイ。そんな悲しくも、微かに感じる幸せを歌った曲だ。


 その年は「さざなみのララバイ」を流しながら、ビーチやリゾートで結婚式を挙げる新婚夫婦がいっぱいいたらしい。何せ僕ら夫婦もその一組だ。

「死ぬときまで一緒だ」という願掛けらしいが、僕らは完全にリクエストの意味で流していた。

 今じゃ時代の流れもあって「そういえば流行ってたな」ぐらいになってしまった。あの時は誰もが口ずさんでいたのに。

事故や殺人事件というショッキングなものも忘れ去られゆくのだから、人が作った流行り物など、流星のようにすぐになくなってしまうのだろう。

 それでも、僕は未だにまだ聞くときがある。正確には、妻が歌ってくれていたり、結婚式の映像を見ている時に後ろで薄っすら聞こえるぐらいだが。



 そんな僕は、まだ恋人だった可奈子に言った。「僕が君に、この歌を歌おうか」


「努力と一緒に心中してしまいそうな、そんな君に」


 可奈子はこう言った。「まだ波に飲まれてはいけないよ」と。


「私の何もかもを奪われるまでにやりたいことがあるから」



「ねぇ、総くん」

 妻の言の葉には、心から幸せそうな色が、色づいていた。

「私、やっと死神の手を取れた。今、とっても幸せなの」

抱きしめたかった。抱きしめたかった。

抱きしめようと伸ばした手は、空を切り、虚無きょむ抱擁ほうようすることになった。

一心不乱に努力する姿が、煌めいていた彼女が、死という闇に踏み込んでしまう。

やめてくれ。

そんな場所に可奈子が踏み込む必要ない。まだ行くべきではない。

君は、輝かしい人生を送るべきなのだ、という言葉は内側の嗚咽おえつになっていくばかりで。

僕は妻どころか、自分の涙すら、掬うことができなかった。





妻の嗚咽おえつすら聞こえなくなるほどに時が流れていった。

沈黙の中、耳に流れてくるのはの事故のニュース。

それが、僕に「死」という存在を実感させることになった。





「海を拝みに行きたいな」

妻がそうつぶやいたのは、死の宣告から何十回か朝を迎えたある日の昼下がりだった。紐に抱きしめられていた観光ガイドには可奈子の気になったものはないようだった。


僕は何十回か夜のとばりが落ちるたびに、「何故死亡願望が妻に生まれていたのか」というのを考えていた。

会社、対人関係、死に興味を持った、人生そのものが嫌いになった……他にもいろいろ考えてみた。

でも可奈子の職場はホワイトで有名だ。それに対人関係に揺さぶられる人ではない。人生が嫌いになったり、死に興味を持ったなら可奈子はとっくのとうに死んでいる。

僕より良い人を見つけてしまい、駆け落ちやら不倫になるのが嫌で、そんなことになるなら、というのも考えたが、それならそれで別に僕のことなんて気にせずその人との、燃えるような愛欲あいよくに溺れてしまっていいのだ。

そんなこんな考えているうちに旅行にいきたいから、死にたいだなんて嘘をついて一人で世界一周でもする気なのだろう。と楽観的な、現実逃避に近い結論に至ってしまった。

頭の中ではありえないと思っていてもその考えしか生まれてこない。

きっと考えたくないのだ。「愛する妻が死ぬ」だなんて。


「よし、行こう。海。今から」

どこの海かは、言わなくてもわかった。

僕たちが「さざなみのララバイ」を流しながら、愛を誓いあったあの海だ。

ここからはそう遠くはない。

結婚式を挙げた後でも、頭を冷ましたい時や疲れた時。喧嘩して、愛をどこかにおいていきそうな夜だって、いつもあの綺麗な海で、もう一度愛を拾い直していたのだ。

子供のようにはしゃぐ妻の背中を、死から遠ざけたくて、死から守りたくて。

僕は少し遠くから妻について行った。




「いつ見ても綺麗だなぁ」

君のほうが綺麗だよ、なんてベタベタなセリフ。言えたらなんて幸せなのだろう。

生憎僕にそんなことを言う勇気も、口説きのテクニックもない。男として情けない。

いや、それ以前に人として情けないのだ。死の淵に立った大事な人の手すら、取ることができないのだから。

今ならまだ、間に合うかもしれない。しかし僕の「生きててほしい」というワガママで、妻の決意を邪魔することもできなかった。

妻の目線に合わせて、海を見つめた。

飲み込まれてしまいそうなほど、青。

青空とはまた違う、深く、深く、深く、どこまでも落ちていく。そんな青。

プラスチックのゴミやら、海の汚染やらで海という自然が人間の驚異に侵されている中、この海は盆提灯ように綺麗だ。

その青が、可奈子の、亜麻色の髪を際立たせている。結婚式で可奈子は、「この海にぴったりだから」と、当時少ない給料を限界までお色直しで青いドレスを着たものだ。今でも鮮明に思い出せる。この海を見たのなら、尚更。


「君に歌おう、明日への子守唄ララバイ

ぴちゃり、と深い青へと足を運ぶ妻が懐かしい歌を歌っていた。

そういえば、死の闇へと足を踏み込んでからは、さざなみのララバイを聞いていない。久しぶりだった。

可奈子がステップを踏むたびに、水面はそれにあわせてちゃぷん、ちゃぷん、という音を奏でていく。

「愛をおいていった、君に」

妻の声が心地良い。

その声が聞けるだけで、今にも天に昇ってしまいそうだ。

「ねぇ、総くん!」

そんな妻の声を聞いていたら、いつの間にか、空が橙色へと染められている頃合いにまで時が進んでしまった。僕の方は見てもくれずに、妻は小学生のようにはしゃぎながら夕方の海へと溶けていく。

「私ね、吐血しちゃったの!!こうなったらもう、もうすぐ死んじゃうんだって!」

僕のことなんか、見てはくれなかった。

夕焼けの海に浮かぶ二匹の海月くらげたちは、求愛のワルツを舞い始める。

「総くん!私、総くんのこと大好きだよ!」

もしも、まだ可奈子が生きられるのなら。

そしたら、もっと素敵な人に、恵まれているのだろう。




海月たちは、僕らには寄って来なかった。



 

可奈子が、あの時と同じ様に、べットに横たわっている。僕は動物にはなれやしなかった。そんな異常な性的感覚は持ち合わせていない。

それに、それ以上に。


僕は永遠に獣になれやしないのだ。


「ねぇ、総くん」

僕は、今になって。可奈子のことが一つ。ようやくわかった。

「夫婦は、健やかなる時も、病める時も」

 きっと、可奈子は。

「富める時も。貧しいときだって」

 可奈子は、最初から。

「一緒にいるものなんだよ」

 僕のことを「心の底から愛してくれていた」のか。






心電図の波が、ゆっくり、ゆっくりと、穏やかになっていく。






その波が、動かなくなった時。






僕は可奈子を抱きしめることができた。
















「ねぇ、怖い?」

「ううん全然。だって、そばにいられるから」


「それよりなにか、言うことは?」

「『愛してるよ』?」

「残念。はずれ。その言葉はもう少し前に聞きたかった、かな」


「歌おうよ、漣のララバイ。一緒に」

「ううん。あの曲の歌詞、もう忘れちゃったの?」


 君に歌おう 明日への子守唄ララバイ

 愛をおいていった 君に

 彼岸花の向こう側に行けるように

 流れに身を委ねて 眠りなさい


「もう、あの彼岸花を踏み締めてきたから」


 サヨナラの歌は、歌わなくていい。

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