家と職場と

「いかなくちゃ」


十数秒ほど扉によりかかっていた私だったが、覚悟を決め、体を自立させる。


大丈夫、別に彼は怒ってない。

ただ少し困らせてしまった。

その埋め合わせは帰ってからしよう。

今日は定時で帰れるようにする。


そう心に決めて、私は自宅を出発する。

駅まで歩いて、電車に乗って30分。

Webで見るニュースもなんだか頭に入ってこない。

駄目だ、集中できてない。

「こういうときは、アレかな」

会社の最寄り駅で降り、駅ナカのジューススタンドで飲み物を買う。

集中できてないときに、これを飲む。

社会人を数年続けてきて、自分を保つために決めて見つけた行動。


「ホウレンソウとリンゴ、野菜のミックスで」


「はい、400円になります」


「電子マネーで」


ちゃりーん。

カードをかざすと機械が音を立てて、支払いの完了を告げる。

少し痛い出費。

でも、1日会社を休んでしまうよりはずっとずっといい。


片手に飲み物の入ったカップを持ちながら出社する。

こういうのをむき身で持ってても、特に何も言われない、そういう自由な社風が私は好きだ。

私の会社は大きなビルの中にあり、このビルの中には大企業の研究所や、IT企業など様々な種類の会社が入っている。

この雑多な雰囲気も好きなポイントだったりする。


「あ、ノゾミ先輩。おはようございますー」


エレベーターを待っていると、いつも通りかわいらしい服装を来たユキちゃんがやってきた。


「おはよ、今日もかわいいね」


私は立場上スーツが多いが、基本通勤時の服は自由なのがうちの会社だ。ユキちゃんは服のセンスもよく、いつもかわいらしい服を着ている。


「ノゾミ先輩にそう言われると男の人に言われるより嬉しいかもです」


そう言って笑うユキちゃんと、片手間に飲むドリンクに癒されて私は少しずつ会社での自分を取り戻す。

家と職場と、一方で何かが起こったとしてももう一方には影響を出さないようにしていかなくては。


「それは光栄ね」


そう言って彼女に笑い返す。

大丈夫、きっとうまく笑えてる。


そうこうしているうちにエレベーターがやってきて、私とユキちゃん、他数人が乗り込む。

階が上がっていくごとに降りていく人々。

いろんな思考がエレベーターの中で混ざり合い、扉があくごとにふっと風が吹き込んで抜けていく。


朝からエンジンのかかっている人。

ぼーっとしている人。

考え事をしてうなっている人。

様々だ。


ちなみに私は朝は苦手だけれど、思考が鈍ることはない。


「さ、先輩いきましょうか」


風と思考について考えているうちに自分たちの降りる階に到達する。


いくつかの部署の扉の前を抜け、私たちに割り当てられている部屋の前に行くと、扉のセキュリティはかかったまま。

坂下君にも開け方は教えてあるので彼はまだ来ていないらしい。


って、まあいつものことだけれど。


セキュリティロックを解除し、私とユキちゃんは部屋の中へと入る。

デスクに座ってPCを起動。

また山のように届いているであろうメールを確認する前に、日次業務をこなす。お湯を沸かしたり、実験室2か所の鍵を開けたり、サンプルの温度確認、健康記録の記入などもろもろだ。

健康記録に関しては産業医が確認したりすることもあるので、実はあんまり正直に記入したくなかったりする。

痛みを覚えている部分はないですか、なんていう質問には本当に困る。


「覚えている、だから現在進行形なんだよね」


私は、昨日部長の部屋に行った後心臓が痛んだのを思いながら、問題なしにチェックを付ける。だって、今は痛くないし。

記入した健康記録表を所定の位置に戻して、自分のデスクにドカッと座る。

ちなみにユキちゃんは社内用のウェアに着替えるためにいったん席を外していた。


「あちゃー、またいろいろ来てるなこれ」


PCを立ち上げ、メールボックスを開くとともに思わず声が出る。

まあ、一人で部屋にいるときだけのちょっとした息抜き。

口から出すことでダメージを軽減させるの術。


私は、残っていたドリンクをぐびりと飲み干して、最後の苦みを楽しむと、受信メールの山に集中を向ける。


ああ、この人はどうして何度言ってもメールを斜め読みしてくるんだろう。直前のメールに書いてあることを質問してくる。

取引先からの連絡、検査依頼予定品の完成が遅れそうなのでという連絡。けど、検査完了日は変えないでほしい。最低所要日数を計算し、デッドラインを相手に提示、と。

二つのモニターの片方にメール、もう片方にスケジュール表を表示させてにらめっこ。

所要日数だけを考えて返信してしまうと、どうしても動かせない予定が入ってしまっている場合確実に残業になってしまう。

基本、部下も含め、自分も残業がないようにオペレートするのが上司の役目。

まあ、会社の利益のために少々無理しなくてはいけない場合もあるけどね。


「お茶どうぞー」


いつの間にかポットのお湯が沸いていたようで、着替えから戻ってきたユキちゃんが渡してきてくれる。

いい香りのするほうじ茶。

朝はカフェイン少なめのこれがいい。


「ありがとう」


いつも飲み物を使い分けて、相手の好みもしっかりと記憶するユキちゃんはどこかのカフェで働いたほうがいいのではないかと思うこともある。

まあ、現在の職場のメンタル的にユキちゃんにいなくなられたら困るのだし、本人も好きでこの仕事をやってくれているようなので何も言わないけど。

ちなみに仕事ではミスをなかなか起こしてしまうユキちゃんだが、飲み物の選定をミスったことは一度もない。


ほうじ茶にふーっと息を吹きかけながら、部署メンバーの今日の予定を見る。


『あー、こりゃまた面倒だ』


頭ではわかっていた予定を文字として見てしまって再認識する。

今日も波乱、起こるかもしれないなぁ。


それでも絶対、定時で帰るぞ。


私は心の中で大きく目標を掲げる。


「おはようございます!!」


一度だって遅刻したことはないけれど、一度だって早く来たこともない坂下君が出社してきた。


時刻はちょうど9時を告げてる。


今日は、坂下君とユキちゃんが共同で実験作業を行う日なのだった。

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頑張らない系女子ノゾミ 篠騎シオン @sion

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