85 「花束みたいな恋をした」の山音麦の未来が「これだけは真実だよなって」僕が思えること。

「花束みたいな恋をした」の冒頭でヒロイン、八谷絹は以下のような独白をしている。


 ――これだけは真実だよなって思えることが一つある。

 トーストを落としたら、必ずバターを塗った方から床に落ちる。だから私はだいたいひそやかに生きていて、興奮することなんてそうそうあるもんじゃない。


 このシーンのはじめに「2015」とあって、八谷絹は21歳の大学生だと独白の前に言っている。

 2015年に21歳の女の子が八谷絹だった。

「花束みたいな恋をした」は2015年から2020年までの5年間を描いていて、予告編では「人生最高の恋をした、奇跡のような5年間」とテロップが出ている。


 21歳からの5年間なので26歳までの恋愛を「人生最高の恋」って言っていいのかな? 人生ってその先も続くよ? と思わないでもない。

 この違和感を小説家の山本文緒が「結婚願望」というエッセイの中で、以下のように記載している。


 ――若い時の結婚恋愛は、沈むわけがないと信じきって豪華客船に乗り込むようなものだ。けれどある程度年齢がいけば、もうみんな「タイタニックは沈むもの」と知っている。なのに、やはりそれに乗ってみたいという願いは消せないでいる。


 まず、どうして僕の本棚には「結婚願望」なんてタイトルのエッセイがあるのか、という疑問はある。二十代前半くらいに山本文緒の本があったら買う時期があったから、その辺だと思うし、今回エッセイに引用する為にぱらぱら読んだら覚えている部分もあった。


 当時から僕は結婚願望があったのだろうか。

 あった気もするし、なかった気もする。

 何にしても、僕の恋愛観の一部は山本文緒、唯川恵、山田詠美といった直木賞を受賞した女性作家たちが作っている。


 二十代前半の僕は恋愛ないし結婚の豪華客船がどのように沈んで行くのかを知らなかった。

 今も知っていると言い切れないけれど、タイタニックは沈むし、沈むとなった時の豪華客船が如何に悲惨かは分かる。

 そして、それでも「それに乗ってみたいという願いは消せないでいる。」のも分かる。


 例えば、豪華客船がどのように沈んで行くかの一つの指標として、「花束みたいな恋をした」を見ることはできる。

 ただ、そこで描かれたのは「沈むわけがないと信じきって豪華客船に乗り込」んだ二人の物語であり、「「タイタニックは沈むもの」と知っ」た後に「人生最高の恋」をする人だっている。


 それが本当に「人生最高」のものだったかは、人生が終わるその時に遡行的にしか分かり得ないものだと僕は思う。

 とはいえ、本人がこの恋が人生最高のものなんだ、と考えた時、そうであって欲しいと思えるくらい特別な体験だったと窺えることはできる。


 ジブリ映画の「耳をすませば」が聖司くんが最後「雫、結婚してくれ」と言うのに、少し似ている。

 実際に彼らが本当に結婚できるか、と言うと少し年を重ねていくと難しいのでは? と思えてくる。けれど、それ同時に聖司くんの言う「結婚してくれ」は今この瞬間、彼が好きな女の子に伝えられる最大の好意の証でもある。


 つまり、「花束みたいな恋をした」二人が「人生最高の恋をした、奇跡のような5年間」だったと思うのは、この5年間の終わりに対する感謝をまとめる言葉だったんだとするなら、まさにそれは花束みたいだ。

 綺麗な花を切ってまとめて一つの形にする。

 その花たちは次第に枯れていくけれど、花束だった事実は残る。「人生最高の恋」と思えたし、口にさえできたかも知れない瞬間があったことが残るのなら、それは間違いなく素敵なことだ。


 けれど、繰り返しになるけれど豪華客船は沈むし、花は枯れてしまう。僕たちはそれでも、恋愛をするし「「タイタニックは沈むもの」と知っ」た後の恋の方が「人生最高の恋」だと思う人だっているかも知れない。

 そんな可能性を示したのが、同じ脚本家が担当し同時期に放送されたドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」だったのではないか、と僕は思う。


「大豆田とわ子と三人の元夫」はまさに「「タイタニックは沈むもの」と知って」というか、実際に沈んだ豪華客船を体験した三人の元夫たちとの関係性を描いていた。

 という仮説のもと最近「大豆田とわ子と三人の元夫」を少しずつ見直している。


 白状すると僕は最後まで「大豆田とわ子と三人の元夫」を見れていないので、この時点で断言できない部分がある(だから、「大豆田とわ子と三人の元夫」に関しては別の機会で論じたい)。

 ただ、そうだとすると、二つの脚本を担当した坂元裕二は本当にすごい人だなと思う。


 そんなことは24歳で「東京ラブストーリー」を書いている時点で自明だと言うこともできるけど、歳を重ねても変わらないクオリティの作品を世に送り出せているのは改めてすごいと言っていいし、幾らだって言いたい。


 ちなみに僕は以前、「東京ラブストーリー」は主人公の永尾完治は東京で出会ったヒロイン、リカよりも故郷の愛媛で出会った友人や常識を大事にし続けた青年の物語だったというエッセイを書いた。

 東京ラブストーリーとタイトリングされながら、完治は最後まで愛媛の田舎の常識を捨てられず、その違和感を疑うことさえなく物語を終える。


 今回の「花束みたいな恋をした」も山音麦にも、そういう部分がある。彼は新潟県長岡市の出身で、ヒロインの絹と出会った頃はイラストを描いて、それが仕事にできたらと思っている。

 けれど、絹と一緒に住み始め、父親から仕送りを止められて就職活動に苦戦した結果、麦はイラストを描くことを止めてしまう。

 仕事一辺倒になり、絹と共有していた映画や小説、ゲームに漫画と言った大量のサブカル文化の積み重ねを忘れ、スマホのパズルゲームにしか心が動かなくなった、と映画の後半で麦は語る。


 ここで気になるのは絹だけれど、彼女は電車で東京の主要の駅に行ける距離に実家があり、それなりに裕福な家の子供であることが映画の中で窺える。

 映画の後半で分かるけれど、麦は絹と付き合う前の会話で読んでいない本を分かると言い、全然わからないミイラ展を面白いと話を合わせていた。


「花束みたいな恋をした」の二人はサブカル文化を共有し、話が合って一緒にいて楽しいから惹かれ合っていく。しかし、その根底には麦の背伸びがあった。

 この背伸びが僕は本当によく分かる。

 二十代前半、僕の周りにいた年上の友人たちは本当に豊かなサブカル文化を持っていた。映画、小説、ゲーム、漫画。僕は勧められるままに触れていき、よく分からないものでも分かったような顔をして話に加わった。

 その背伸びが今の僕を支えていると思う。


「花束みたいな恋をした」の最後、麦は絹を思い出す時に、二人で共有したサブカル文化をきっかけに、今の絹に思いを馳せる。

 麦が絹に合わせた背伸びが、この先の彼の人生にどのような意味をもたらすのか分からないけれど、それは決して無駄ではなかったと言う結論に至っていたら良いなと思うし、同時に誰に頼まれてもいないに、ふとペンを握ってイラストを描きだす未来が麦にはあって欲しい。


 八谷絹の冒頭の独白ではないけれど、「これだけは真実だよなって」僕は思いたい。

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