86 不快という紙幣を使って世界を思い通りに動かす人を前にして。

 7月に入ってから僕は一つの懸念事項を抱えていた。

 昔からの友人と2年ぶりに会ってお茶をした際、僕の発言が気に食わなかったらしく、長文のメッセージが届いた。

 友人の許可をとっていないので、内容については触れないけれど、受け取った僕からすると批判的な内容に読めた。

 最後に友人は「返信はあってもなくてもいいや。怒っているわけではないから」とメッセージを終えていた。


 自分が怒っているんだと意思表明をしたら相手は返信をしないといけない、と思っていることが少し怖かった。

 そこそこ昔からの友人だし、仲良くできるならしたいと思っていたけれど、送ってきたメッセージを読み解くと冷静な会話は難しいと思わずにはいられなくて、頭を抱えてしまった。


 返信はしないと決めた。今後、友人と関わるかは保留にした。

 僕の発言が気に食わないのであれば、友人は僕と会うのをやめれば良い。わざわざ僕に長文のメッセージを送ってきて、更に「怒っているわけではないから」と強調することに、自分の気持ちに忖度しろという意思を感じてしまった。

 仮に友人が自分のことを分かって欲しいと思ってメッセージをしてきたなら、今後はこういう風に接してほしいと言えば済む話だ。

 

 結局は言い方の問題に帰結するのかも知れない。

 僕は可能な限り人間関係を健全に保っていたいと願っている。

 相手を一人の人間として扱い、自分を一人の人間として扱ってくれる人と関係を築きたい。

 他人を思い通りにしたいと考えている人や人間関係で常に勝っていないと気が済まないような振る舞いの人とは、どうしたって健全な関係は築けない。

 今回の友人がそうだと言うつもりはないのだけれど。


 そんな風に考えてしまうのは、まだ僕が30代だからなのかも知れない。あるいは、僕自身が未熟で未だに相手にとって触れたくない話題を無頓着に選び取ってしまっているのかも知れない。

 少なくとも2年ぶりに会った友人から長文の批判的なメッセージが届くくらいに、僕は未熟だった。

 友人の前で十分な社会性を発揮できず、大人であり続けることもできなかった。今回の件から僕が考えるべき点はそこだろう。


 というように僕は7月を反省と共に過ごす中で7月8日を迎えた。

 朝、普段通り出勤して昼の12時に休憩へ向かった。

 休憩室で弁当を電子レンジで温めている間にスマホを開くと、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲がツイッターで

「えっ、そんなバカな。。回復してほしい。。 【速報】安倍元総理が銃で撃たれ心肺停止 奈良・近鉄「大和西大寺駅前」で演説中(MBSニュース)」

「元首相が狙撃されるなんて、そういう「戦前回帰」はほんとうに勘弁。。」

 と立て続けに呟いていた。


 日本で発砲事件? しかも、元首相?

 そこからは安倍元総理が回復されることを祈る他ない数時間になり、ツイッター上でもあらゆる人たちが容体を心配する声があったものの、午後5時3分に死亡が確認された。

 2020年に入ってからコロナという感性症があり、2022年の2月からロシアがウクライナへ軍事行動を承認し戦争が始まって、5ヶ月経たずに選挙の2日前に元首相が白昼堂々と背後数メートルのところから銃を撃たれ死亡するというニュース。


 令和になってから感性症、戦争ときて、まだ世界の底は抜けていく。

 安倍元総理が亡くなられてからツイッターの反応はあらゆる感情が渦巻いたていた。

 好きな文章を書くなぁと思っていた方が論理的な基準ではなく、感情的な内容を剥き出しの言葉で呟いているのを見て、気持ちが沈んだ。

 僕は友人からの長文メッセージを読んだ時から、人の感情について考えていて、一部のツイッターで渦巻いているものも、そうだった。


 人間には感情がある。それを素直に表現することは良いものだとされる。喜怒哀楽を表現すること、それを僕は決して悪いことだと思わないし、むしろ良いことだと基本的には思っている。

 ただ、感情を表現することで他人を自分の思い通りに動かそうとする人を僕はどうしても良いとは思えずにいる。


 内田樹の「下流志向 学ばないこどもたち働かない若者たち」の中で以下のような一文がある。


 ――狩猟者の父親が獣の肉を持ち帰ったように、農耕民の父親が穀物や野菜を持ち帰ったように、現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に過酷な労働に従事していることを誇示しているのです。


 この不機嫌を持ち帰ることを内田樹は「不快という紙幣」と書いている。そして、世界には自分が不快であるから他人はその不快を解消するために動くべきだと考えている人がいる。

 僕は不快という紙幣を示すために感情的な主張をする人を苦手としてしまっている。

 それは過去に実家で父が酒に溺れながら家族を自分都合で振り回そうとしたことと大差がないように見えてしまうからなのだろう。


 少し話が逸れるのだけど、二十代の僕は自分が苦手なことを仕事にすれば環境に慣れて、ちょっとはマシになるんじゃないか? という考えから仕事を選んでいた。

 人と関わるのが苦手だから接客業をして、喋りが苦手だからコールセンターで働いたり僕はしていた。

 お酒に関しても十代の頃は父親のせいもあって、ほとんど憎んでさえいた。

 けれど、今は好んで飲んでいるし、エッセイでもお酒の話題を選ぶことが多い。


 僕という人間の命題は苦手意識を如何に攻略していくか? だったんだと思う。十代の僕はこの世界の底辺の更に底辺にいて、そんな自分が嫌いで仕方がなかった。だから、僕は僕が苦手とするものを攻略したいと思っていて、それは今も続いている。

 つまり、今の僕は不快という紙幣を示すためにツイッターで剥き出しな言葉使いで他人を責めている人を苦手だと思えば思うほど、観察しに行ってしまっていた。

 見れば絶対に気持ちが沈むと分かっているのに。

 丁度、そんな時に恋人と会って、一緒に映画を見たりしたので、ふいにそんな話をしてみた。

「ツイッター見ない方が良いんじゃない?」

 という至極真っ当な答えが返ってきて、その通りだなと思った。


 二十代の僕だったら、いやそれでも見るべきだと思うんだよなぁと考えていた。苦手なものこそ克服すべきだと考えているのだから、そりゃあそうなる。

 けれど、三十一歳になった僕は素直にまぁ確かに見ない方が良いかとなった。


 年を重ねて僕が素直になったのか、なんとか「すべき」ということに疲れたのか、なにかは分からないけれど、自分でも不思議なくらい恋人の真っ当な答えに納得してしまった。


 そんな訳で、ツイッターのタイムラインから離れるために放置気味なインスタを意識的に開くようにしました。

 全然フォロワーがいないので、よければフォローしてください。


https://www.instagram.com/satokura49/


 という突然の宣伝で終わらせるのは、オードリーのオールナイトニッポンの春日のフリートークリスペクトということで(何人がこのネタが通じるのか……)。

 フォローしてくだされば、僕もフォロー致しますのでよろしくお願いします。

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