71 マニュアル恋愛論とポルノ的ファンタジーを戯曲「うさぎひとり」から考える。

「戯曲デジタルアーカイブ」というサイトがあります。

 こちらは「一人でも多くの方に、末永く戯曲を味わってほしい、また適切な方法で演劇作品として上演してもらいたい」というコンセプトで運営されており、また2つの目的で設立されたとも記載されています。

 それが、


 1.未来の演劇人のために、戯曲のアーカイブを残し、貴重な戯曲の散逸を防ぐ。


 2.読者が上演したい場合の上演許諾に対するアクセスやルールを明文化し、上演につながる生きたアーカイブとする。


 というものです。

 戯曲とは言わずもがなかも知れませんが、「演劇の脚本・台本。 人物の会話や独白、ト書きなどを通じて物語を展開する。 また、そのような形式で書かれた文学作品。」なんだそうです。

 ちなみに、僕が生で見たことがある演劇はヨーロッパ企画の舞台『夜は短し歩けよ乙女』のみです。


 最近、舞台『夜は短し歩けよ乙女』を見たという人と知り合って、少し喋る機会がありました。お互い同じものを見ているはずなのですが、小説や映画の感想とはまた少し違って、一つの祭りに参加した時の感想を互いに言い合うような妙な感触がありました。


 その妙な感触はもしかすると、今回知り合った方が学生時代に演劇をされていて仕事もそれに関するものなので、演劇を語る言葉をいっぱい持っていたというのもあったかも知れません。

 何にしても、ちょっと楽しい出会いもあったので、今後はもっと演劇を見て行きたい所存です。


 そんな演劇初心者の僕ですが、「戯曲デジタルアーカイブ」を知ってからは、ちょこちょこ戯曲を読むようになりました。

 今回、取りあげたいのは「うさぎひとり」という戯曲です。しろうさぎの会という劇団が2018年に上演したものです。


 あらすじは「自分に自信がないために初めてできた恋人ともうまく関われない37歳の幹子。幹子は性欲を持ち始めた過去の自分“12歳の幹子”と語り合いながら、“真のマスターベーション”を探求しようと決意し……。」というもの。


「真のマスターベーション」ってパワーワードですね。

 僕はここ最近、文學界の「私の身体を生きる」という女性が自身の身体性を語るリレーエッセイを熱心に読んでいる人間なので、「うさぎひとり」が扱うテーマは気になる部分ではありました。


 個人的にこの手の女性自身が自らの肉体や欲望について語ろうとする物語は、その過程で男性に対してもスポットが当たり、男性の根幹にある弱さみたいなものをあぶり出す気がしています。

 例えば、島本理生の「red」や窪美澄の「よるのふくらみ」は主人公の女性を描きながら、その裏で弱く、成熟しきれない男性を描いてもいました。


 僕はこの女性の目から見た男性の弱さや成熟しきれなさに対し、目を背けたい気持ちもありつつ、どこか愛おしくもあって、この複雑な感情に折り合いをつけたくて、性描写のある小説を書こうとした部分があります。

 だから、実は僕が書こうとしているのは官能小説ではなく、性愛文学なんだろうな、と言うのがあるのですが、その辺は今回は割愛いたします。


 そんな訳で、「うさぎひとり」にも幹子が性について考えるように、彼女が付き合った男性、中村も自らが抱える性の悩みや葛藤を語ります。

 中村は性行為の全てをマニュアル通りに行なおうとする男性でした。女性に嫌われたくないから、マニュアル通りの正しいことをしていれば良いんだ、という思考停止した男の子。

 うわぁ、絶対ダメって分かる! と思うと同時に、けど、そういう考えになってしまうのも分かる。


 というのも、恋愛系やセックス系のマニュアルって調べてみると、とんでもない数出てくるんですよね。

 ユーチューブとかで、実際に配信されている方もいて、幾つか見てみると、「悪用禁止 セフレの作り方」「20代女子が本気で思うモテ男の共通点が~」「女性の欲求のスイッチを強制的にオンにする方法」etc.もう永遠でてくるんです。

 これから恋愛していく人たちって、この情報の氾濫状態が常な訳ですよね?


 ある程度、正しい立ち振る舞いはあるにしても、絶対に正しいものってないし、大前提としてマニュアルに頼ることが、まず間違いだ、という共通認識はあるべきでは?

 少なくとも、「うさぎひとり」の以下の内容は素朴ながら、そうだよなとなります。


 ――幹子 もうちょっと、中村さんの好きなようにしてもいいんじゃないかなって。

中村 え?

幹子 あ、いや、本とかも大事だと思うんですけど、自分の欲求?みたいなものにもっと素直になってもいいんじゃないかなって。

中村 ええっと・・・それは、どういう意味ですか?

幹子 えっと・・・ほら、なんか中村さんが性的に興奮するポイントとか、そういうのにもっと忠実になる・・・というか。

中村 はあ・・・

幹子 勿論、基本は大事です。でも、こういうのはほら、人それぞれ、みたいなところがあるし。

中村 あの・・・やっぱり良くなかったんですか?

幹子 あ、いえ・・・そういうことではなくて・・・

中村 やっぱり、僕はほとんど女性経験もないし・・・幹子さんのような方を満足させるには・・・

幹子 だから、そういうこではなく・・・ほら、どうしたら気持ちがいいとか・・・それは、ひとりひとりが違って、本だけではどうしようもない・・・

中村 すみません。

幹子 あ、いえ、別に謝ることじゃないんです。


 戯曲って、小説と違うのは絶対に声に出して読まれるからか、台詞がリアルというか、文字だとちょっと薄く感じるんですが、声に出して読んでみると、会話ってこうなるよね、という納得が得られるので面白いです。

 さて、自分の「性的に興奮するポイントとか、そういうのにもっと忠実に」なったら?と言われた中村の正直な心な気持ちを吐露が、ラスト付近で語られます。

 それが「何もしたくないかなあ」でした。「何もせずされるがままになってたいなあ」と。


 すかさず、「“真のマスターベーション”を探求しようと決意し」ている幹子は、「たくさんの女の人に囲まれて?」」と返します。

 これに対し、中村は「あくまでファンタジーです」と結論づけます。


 つまり、中村という男は自分が参加する現実のセックスにおける欲望を想像することしかできなかったんです。

 んー、これがAVとかのポルノ的なファンタジーに触れすぎた弊害って結論付けることは簡単なんですけど、なんとなく、そんな感じでもない気がする、と言うのが僕の肌感覚でした。


 僕が永遠に言及し続けている文學界のリレーエッセイ「私の身体を生きる」の第八回が、朝吹真理子のタイトルが「てんでばらばら」でした。

 冒頭は以下のように始まります。


 ――ひとの性愛の話は好きなのに、ひとりでおこなう快楽も好きなのに、誰かとじぶんの体験となると、おどろくほどぼんやりしてしまう。


 朝吹真理子はエッセイの中で、「BL、男女変わらず」自分の好みのシチュエーションや台詞を人に伝えることはできるが、自分のセックスとなると「突然、ああ、うう、と言葉にならない。」と書きます。

 その原因として


 ――何か嫌な思いをしたわけでもないのだけれど、逆にいうと、何か素晴しい思いもしていないのかもしれない。自慰とBLはすばらしい体のよろこびだとはっきり言える。でも他のことはまだよくわからない。


 と書きます。朝吹真理子は三十六歳。「自慰とBLはすばらしい体のよろこび」で、「他のことはまだよくわからない。」と言っていて、なんだか、それで良いじゃないか、と僕は思うんです。


 中村のマニュアルで自分の弱さとか、自信のなさを埋めるのではなく、「まだよく分からない。」と自覚しておくこと、そちらの方がずっと大事な気が僕はするんです。


 朝吹真理子のタイトルの「てんでばらばら」に書いてある通り、てんでばらならに自分の欲望を自覚していくことに僕は意味があると思っています。

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