70 グラスを割って死にたくなった夜に読んだ、金原ひとみ「パリの砂漠、東京の蜃気楼」。
本日は休日だった。買い物をして、冷蔵庫の中をいっぱいになったので、冷やしていたグラスを外に出した。
その横に2リットルの水をとくになにも考えずに置いて、すっかりそんなことも忘れて、部屋の雑事をこなしていった。
キッチンに用事がある際に、何気なく水のペットボトルを手にした瞬間、グラスに当たった。グラスが床に落ちていくのをスローモーションで僕は見つめていた。
そして、ガラスが派手に割れる音が響いた。
百均で買った何気ないグラスだが、気に入っていた。
割れてしまったものは元に戻らない。
部屋の雑事に掃除がプラスされて死にたくなった。
生活をするって本当に面倒臭い。
今日の僕は気持ちが沈んでいる。良いことがなく、この先悪いことが起こるんだろうと、思っていた矢先のグラスを割るという失敗。
気持ちは完全に底へと落ちていった。
今考えると、全部自業自得だった。
今日が休日だからと僕は前日に人とご飯へ行き、帰りに飲み友達と合流して駅のホームで缶ビールで乾杯し、終電まで飲んで、帰り道一駅分を学生時代の友人と電話しながら歩いて、部屋に辿り着いたのが深夜。
そこから寝て起きたら昼過ぎで、だるい体を起こしてご飯も食べずにシャワーだけ浴びて買い物へ出て、夕方近くに戻ってきて、みたらし団子とアイスカフェラテだけ飲んで、また寝た後に起きたのが、グラスを割るという失敗。
どうして僕はみたらし団子しか食べてないのだろう。
最近、甘いものをまったく食べていなくて、ふいに食べたくなった。本当にそれだけだった。
アイスカフェラテは残った牛乳があったから、それを消費したくて作ったが、痛んでいたのだろう。その後、僕はずっとお腹を下していた。
全部、自分が悪いのに(悪いから?)、本当に最悪な気持ちになった。
割れたグラスを片づけてからトマトスープとトースト、マカロニのサラダを用意した。
これは朝ごはんでは? と思いつつ、海外ドラマを見ながら食べた。
それから明日の為に弁当と朝食用のサンドイッチを作って、洗濯物をした。
別にしたい訳じゃない。けれど、しなければ明日の僕が困るからやっているだけだ。
なんだか全部が投げやりで、気持ちは荒んでいる。
しかも、気づけば深夜だった。
本当に何もしていない一日だし、何も上手くいかない絶望的な気持ちが首までせり上がっていた。吐こうと思えば、吐ける気がした。
けど、そんな気持ちの横で、もう一人の僕が「グラスはただ割れただけ。物はいつか壊れるし、それが自分の手で起きたってだけ。嫌な気持ちとグラスを結びつけているのは僕でしかない」と言う。
まぁ、そうか。
そう考えていくと気持ちは落ち着いていき、最近買った金原ひとみのエッセイを手に取った。
「パリの砂漠、東京の蜃気楼」という金原ひとみのエッセイ集は一切の説明が成されない。
ただ、金原ひとみがその瞬間に感じたこと、考えていたことが書かれている。前後が分からないから、読者であるこちら側が状況を想像する他ない。
一見すると不親切なエッセイに思える。
けれど、ちゃんと考えてみると、一人の人間の人生や考えを分かり易くまとめても、それは書き手がそう見られたい、という欲望を晒した一面に過ぎない。
そういう点で、金原ひとみは読者にこう思われたい、という欲求が一切ない。小説もエッセイも、そして、おそらくインタビューも。
僕は金原ひとみのそういう部分に最近強く惹かれている気がする。もしかすると、もっと別の理由かも知れないけど、確実なことは金原ひとみの文章をもっと読みたいと思っている僕がいる、ということ。
ちなみに、「パリの砂漠、東京の蜃気楼」の本編には以下のような一文がある。
――帰宅すると、ネットでピアスを検索し、サイズ違いのセグメントリングとサーキュラーバーベルとラブレットを二つずつ買った。とにかく何かをし続けていないと、自分の信じていることをしていないと、窓際への誘惑に負けてしまいそうだった。
金原ひとみの書く「窓際」とは「死」と同義だった。
死への誘惑に陥る瞬間がどういうシチュエーションかは人に寄るだろうけれど、厄介な状況、どうしようもない環境に陥った時こそ「自分の信じていること」をするのは大事であるのは間違いないように思う。
それこそ、村上春樹の主人公がどんなに厄介で絶望的な状況になっても、丁寧な食事をとって、シャツにアイロンをかけるのに似ている。
海外で村上春樹の「僕」が受け入れられた一因には、サマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学がある」に倣ったように「日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれる」と自らの丁寧な日常貫いた姿勢になるのではないか、と思う。
さて、僕はトドメのようにグラスを割って気持ちが落ちていった。
今考えると、グラスを割る前に立ちこめていた、モヤモヤや悩みの要因を僕は一つ一つ冷静に考えていくべきなのだろう。
そうすることで僕は少し楽になる気もする。
けれど、今は金原ひとみが書く「自分の信じていること」をしたい気持ちだった。
それがこのエッセイで、僕は僕を癒すために今この文章を書いている。
とはいえ、僕は幾つものエッセイを書きながら、書き終えて数日で忘れていっている。この文章が僕にもたらすものは、今を乗り越えることだけ(もちろん、それだけでも凄い有難いことだ)。
ここでエッセイの他に何か別の「信じていること」をしたい。それくらい今の僕は参ってる。
最近ふと思うのだが、ここが夢か現実か分からないとなった際、ほっぺを抓って痛いかどうかを確認する、というシーンが色んな物語で確認できる。
人は自らの「痛み」は現実だと信じられるから、ほっぺを抓るのだろうか。
本当にそうかどうかは置いて、少なくとも僕は「痛み」は現実を生きている証だと信じられると思う。
リストカットが生きるためにする行為だ、と言われることに納得ができるのも、僕がそういう認識を持っているからかも知れない。
金原ひとみはピアスをあけることで「窓際」から遠ざかろうとしていた。
僕のパソコンの横にある木箱の中には、丁度ピアスをあける為のニードルが入っている。せっかくなので、この後、ピアスをあけようと思う。
ニードルが肉を突き刺す痛みで、ここがどうしようもなく現実であることを確認しよう。
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