35 自分が存在するという不快に耐える「犬も食わない」を読む。

 前回、日記の中で岸政彦の「断片的なものの社会学」を読み終わったと書きました。その中で好きな話を一つ紹介させてください。


「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」

 という章で「架空の話を書く。」とあって若い夫婦の話が挟み込まれます。

 若い夫婦が一週間の温泉旅行へ出かけることになるのですが、妻が心配性なため空き巣対策として夫婦二人の自然な生活音を録音します。

 その内容を引用させてください。


 ――朝や夕方、二人でいるときの、足音、炊事や洗濯、掃除の音、電話の呼び出し音、宅配便、近所の小学校から流れてくる運動会の練習の声、窓の下で騒ぎながら帰る中学生たち、市のゴミ収集車の音。そして、二人の他愛もない会話、会話、会話。実家の母が送ってきた荷物が、隣の旦那さんがこの前、あそこに新しくできたカフェに犬がいて、最近テーブルに花を飾っていないね、そろそろこの電子レンジも買い替えかな。


 旅行に出かける時に妻はこの音声がエンドレスで流れるように設定し、部屋の灯りも点けたままにして、一週間のあいだ部屋に人が住んでいるように装います。


 ――誰もいない部屋のなかで、穏やかで静かな暮らしの音が、エンドレスに再生されている。


 人が生活をしていれば音は出るし、埃も溜まって、ゴミが出る。水も電気も欠かせない。それは自然なことで、抗い難いものです。

 人は存在している時点で何かを消費、ないし排出し続ける他ないのです。

 

 そういった事実について家族単位で語られた本があります。内田樹の「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」です。


 ――現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。

 (中略)

 たいへん悲劇的なことですが、現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。彼の口臭や体臭に耐え、その食事や衣服の世話をし、その不満や屈託を受け容れ、要請があればセックスの相手をする。これは妻たちにとってすべて「不快」にカウントされます。


 内田樹は「多くの妻たち」と書いているので、これがすべてという訳では決してないと思います。

 ただ、家族という社会では、気をつけていないとお互いの「不快」に耐え、それを訴えあって如何に自分が相手よりも我慢しているかを主張し、自らの意見を通すかという世界になりかねないのではないか、と考える次第です。


 さて、今回はそんな他人が存在するという不快に対し、一種ポジティブな結論を導き出した小説「犬も食わない」について書きたいと思います。

 著者は尾崎世界観と千早茜で、男女それぞれの視点を書いています。

 本編の中で、生活に対する印象的な文章があったので、まずは引用させてください。


 ――玄関にだしっぱなしだったスニーカーやヒールを靴箱に入れ、流しで雪平鍋を洗い、食器を拭いて戸棚にしまい、寝乱れたベッドを整え、ローテーブルの上を片付け、床にクイックルワイパーをかけて、念のためカーペットにもコロコロをかけた。白い粘着面に陰毛を見て気が重くなる。人間の体から落剥したものってどうしてこう汚らしいのだろう。生活は幻滅のくり返しだ。ふと、奈津子に言った愚痴を思いだし、子どものだったら汚く感じないのだろうかと改めて考える。恋人のは無理だ。そう思うと、恋人への愛情の限界点が見えた気がした。


 恋人への愛情の限界点を感じたのは千早茜が書いている福で、サイトなどのプロモーションPVを確認すると「めんどくさい女」と紹介されています。

 ちなみに、尾崎世界観が書いていた大輔は「だめな男」です。


 僕は二十二、三歳の頃に大輔が悩んだ自分の中の無気力というか、現実と向き合えない自己嫌悪というか、上手く言葉が出てこない煩わしさというかを感じていて、正直読んでいて苦しかったです。

 同時に今は「めんどくさい女」である福の自分の中で沸き起こる感情を如何に受け止めて言葉にするか、という姿勢に共感しながら読みました。


 ――問いかけても、大輔からの答えは多分ない。いままでだってそうだったし、これからもそうだろう。大輔だけではない、誰とでもそうだ。向かい合う相手の本心なんかわからない。言葉をもらっても百パーセント信じられるわけもない。あたしは犬の真意すら疑ってしまうような人間なのだから。だとしたら、自分の問題だ。結局、あたしにとっての恋愛は、自らの期待との戦いなのだ。


 恋愛は「自らの期待との戦い」であり、生活は「幻滅のくり返し」だと「犬も食わない」には書かれている訳です。

 凄いなぁ。

 恋愛や誰かとの生活を安易に良いものだってパッケージングしていない。けれど、だからこそ人は恋愛をし、誰かと生活をすべきなんでしょう。


「犬も食わない」で繰り返されているのは「自らとの戦い」なんです。恋人がいて、彼/彼女へ向けた感情や言葉が、そのまま自分に刺さる。

 内田樹が「他人が存在するという不快」と書いていますが、その前提には「自分が存在するという不快」もあるはずなんてです。

 そして、その「自分が存在するという不快」と向き合うためには、自分の顔を鏡で確認するように「他人が存在するという不快」を通して見る必要があるのでしょう。


 自分の存在の不快感を他人を通して確認することで、僕たちは何を知ることができるのでしょうか?

「犬も食わない」に則して言えば、自分の中にある本音です。福も大輔も恋愛や一緒の生活を通して、自らの本音を見つけ、それと向き合っていきます。

 自分の中に自分では気付けなかった言葉があった。


 福で言えば、それは「あたしは犬の真意すら疑ってしまうような人間」であり、「あたしにとっての恋愛は、自らの期待との戦い」でした。

 それに気付く為には誰かと恋愛し一緒に生活する他なかった訳です。

 であるならば、人生で一度くらいは恋愛や一緒に生活をしておいても良いのかも知れません。

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