31 世間一般を覗く時、世間一般もまたあなたを覗いている。
最近、以前のエッセイでコメントやエピソードに応援をいただくことが続き、返事をする為に昔の自分の文章を読んでみました。
一年以上前の文章ということもあって、読むと顔を覆いたくなる内容が大半で、今更に誤字を直したりしました。
なんとなく、直さなかった誤字もあります(やり出すと全部、直しちゃいたくなるので)。
そんな文章の中で、遠藤周作の「愛情セミナー」という本から引用している部分がありました。
今読むとまた違った考え方ができるなと気付いたので、今回はその話をさせてください。
――だから私は繰り返して諸君に言う。今日ほど不信の時はないゆえに諸君たち若い者にとって恋愛が大事な時もないのだ。なぜなら、諸君たちはこの何もかもが信じられぬ時代に、人間を信ずる行為を君の恋愛を通して恢復しようとしているからだ。
若い頃の恋愛は大事で、なぜなら恋愛を通じて人間を信じることができるようになるからだ、と言うのが遠藤周作の考えでした。
そういう側面はあると思いますが、人間を信じるプロセスに必ずしも恋愛が必要な訳ではないでしょう。
考えてみれば当然のことで、どれほど不信な時代だったとしても、恋愛だけが人間を信じる行為になるはずがありません。
友情や、親や兄弟との関係において、人間を信じる気持ちを恢復することは可能なはずです。
遠藤周作が「愛情セミナー」内で恋愛が大事な理由として、他人を愛する時に、自分を信じてくれと伝えるところにありました。
誰かが自分を信じてくれている、という経験が人間を信じる行為と繋がっていくと遠藤周作は考えていたようです。
遠藤周作はカトリックの洗礼を受けており、小説でもキリスト教を題材に小説も書いています。
おそらく、キリスト的な思想を伝えやすい方法として「愛情セミナー」という本はあったのでしょう。
遠藤周作という作家の回路で考えれば、彼が恋愛をしよう(誰かに信じてもらおう)と言うのは納得ができます。
それが最も身近な宗教的な体験だと、遠藤周作は考えていたのだろうとも予想ができます。
そのような内容に納得した上で、僕が思うのは「恋愛をすることが人間を信じる気持ちを恢復できる」と言ってしまった場合、恋愛ができない人間を蚊帳の外にしてしまっている、という事実です。
岸政彦の「断片的なものの社会学」で、その感覚を的確に書いてくれている部分があります。
引用させてください。
――私たちは、好きな異性と結ばれることが幸せだと思っていて、そして目の前に、そうして結ばれた二人がいる。この二人は幸せである。だから祝福する。
つまり、ここでは、好きな異性と結ばれることは、その当人たちにとってではなく、世間一般にそれは幸せなことである、という考え方が前提になっている。この考え方、語り方、祝福のやり方は、同時に、好きな異性と結ばれていない人びとは、不幸せであるは、あるいは少なくとも、この二人ほど幸せではない、という意味を必然的に持ってしまう。
そうすると、ある二人の結婚を祝う、ということそのものが、たとえば単身者や同性愛者たちにとっては、呪いになるのである。
世間一般に幸せである、という考え方が、そこに属せない人を蚊帳の外にして呪いにしているという考え方は、一面で正しいと思います。
その結果、今回引用している遠藤周作の言う「恋愛によって人間を信じる気持ちの恢復」ができない自分は誰も信じられないのかも知れない、と誰かは思ってしまうかも知れません。
確かにそれは呪いです。
同時に、岸政彦が書いた「好きな異性と結ばれることが幸せだと思って」いる側にも、また別の呪いがかかってきます。
世間一般に結婚した状態は幸せであり、自分は好きな異性と結ばれた人間であると言う振る舞いを世間から求められてしまう訳ですから。
もちろん、その好きな異性と結ばれて結婚した幸せな状態である時は、それで良いのでしょうが、マリオのスター(無敵)状態みたいに、それはずっと続く訳ではありません。
村上春樹の雑文集に結婚のメッセージが載っているのですが、そこでも似たようなことが書かれています。
――結婚というのは、いいときにはとてもいいものです。あまりよくないときには、僕はいつもなにかべつのことを考えるようにしています。でもいいときには、とてもいいものです。いいときがたくさんあることをお祈りします。お幸せに。
それは当然のことですが、世間一般はあくまでイメージとして存在していて、実体はありません。
実体がないものは内情を考慮してくれません。
ここで僕が思ったのは、ニーチェの有名な言葉です。
「深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いている」
例えば、これを「世間一般を覗く時、世間一般もまたあなたを覗いている」と言い換えてみましょう。
世間一般とあなたは確かに目を合わせているのでしょう。
しかし、その実、互いを理解はできていません。
さきほどの「恋愛によって人間を信じる気持ちの恢復」ができない自分は誰も信じられないのかも知れない、と思っている誰かは、結婚というものについて世間一般を通してしか見つめることはできません。
ここに大きな乖離が生まれます。
世間一般というフィルターを通すことで、個人やその人が置かれている環境を理解できなくなってしまう瞬間があります。
もちろん、それは極端な話ですし、互いに理解し合わなければならないというのも一種の呪いです。
ただ、世間一般が誰を理解する上で、邪魔になるというのも一つの事実です。
舞城王太郎の小説に「裏山の凄い猿」という短編があります。
その主人公は同級生の女の子に絶対に結婚できない、と言われてしまいます。
理由は以下のようなものでした。
――優しさより正しさが先行するような感じ。結婚て、奥さんと二人で話し合ったりしながらやってくもんやろ?そのとき奥さんにたいしてじゃなくても、誰かに対する優しさより在り方としての正しさを求められたら辛くなっていくんでないかな」
世間一般がイコール「在り方の正しさ」なのかは、少し考える部分ではありますが、多くの人が認識しているもの、であることは間違いありません。
その多くの人が認識しているものを優先したり、求めたりすることで、辛くなってしまう人はいるし、僕自身そういう部分で傷ついたことはありました。
だから、正しさよりも優しさを先行できる人間になりたいと僕は思います。
同時に、「裏山の凄い猿」には以下のような台詞もあります。
――「ほんまやって。やっぱ頭のいいもんは優しいの」
誰かに優しくする為には頭が良くないといけないようです。
となると、僕が望む正しさよりも優しさを先行できる人間になるには、あと十年くらいの時間は見ていただきたいですね。
三十九歳。
うん、それくらいには優しい人間になっていたいと思います(願望)。
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