30 「ノルウェイの森」のキズキはなぜ自殺を選んだのか。②

 庄司薫は徹底的にセックスを書かないことを目指した作家でした。

 その関係性として採用されたのが幼馴染であり、お姫様と用心棒という契約関係です。


 これを書くと、個人的に懺悔しないといけないことがあります。

 僕がカクヨム内に書いている、ある作品内で「お姫様と用心棒」の関係を結ぶシーンがあります。

 庄司薫に丸ごと影響を受けた時期が僕にはあったんです。

 習作ということで、お許し下さい。

 申し訳ありません。


 という個人的な懺悔は置いて、庄司薫が書いたお姫様(由美)と用心棒(庄司薫)の契約のシーンを引用させて下さい。


 ――小学六年生の春のことだが、或る夜十時すぎてから(小学六年生にとっちゃ真夜中もいいところだ)彼女はうちへやってきて、ぼくを呼び出して、わざわざ門のかげまでひっぱっていったことがあった。その日彼女は初めてメンスがあって、それでぼくに教えにきたわけなんだ。そして彼女は、寒さとびっくりしたのとでブルブルふるえているパジャマ姿のぼくに、あたしはもう一人前の娘なのだから、男のひとにいつ強姦されるか分からない、あなたはそういう時に、必ずあたしを守ってくれる? なんてきいた。


 ぼく(庄司薫)は、これにうんと頷いて、「明日から柔道を習おうと思った(そしてほんとうに始めたんだ)。」と用心棒の役割を引き受けます。

「ノルウェイの森」にも同様のシーンがありますので、引用させて下さい。


 ――はじめてキスしたのは小学六年生のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちはとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」


「赤頭巾ちゃん~」と照らし合わせて、「ノルウェイの森」を読むと直子とキズキの関係がお姫様と用心棒の役割で結ばれていることが分かります。


 キヅキは十七歳の時に自殺します。

 どうして彼は自殺してしまったのか。


 これは「ノルウェイの森」を貫く一つの主題であり、今回その部分について詳しく書ければと思うのですが、その前に庄司薫と古井由吉の話に戻らせてください。

 庄司薫はお姫様と用心棒という関係性を結ぶことで、セックスをしない物語世界を作りました。


 そんな物語世界の否定として「杳子」はありました。

 前々回(28 「杳子」アイデンティティを失わない為の戦い。)に書きましたが、それは庇護者の否定です。

 杳子は心の病気にかかっています。

 そんな彼女が後半で「病気の中で坐りこんでしまいたくないのよ。」と発言しています。


 もしも、杳子が庇護者(用心棒)を認めてしまったとするなら、その瞬間に「病気の中で坐りこんでしま」うことになります。

 用心棒は対象者を甘やかし、自立心を奪う側面があります。

 それは危うい関係性です。


 こちらに関しても「ノルウェイの森」の直子が明快な言葉で語っているので、紹介させてください。


 ――「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねえ、もしもよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの? あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの? 私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょ?」


 直子がこの台詞を伝えたのは「ノルウェイの森」の主人公、ワタナベトオルでした。

「ノルウェイの森」を読んだ読者は承知していることですが、直子はワタナベトオルを愛していませんでした。

 本文にしっかりとそう書かれている以上、それは逃れられません。


 直子が「もし私があなたと結婚したとするわよね」と過程の話をするとすれば、それは自殺してしまったキヅキであったはずです。

 しかし、キヅキが相手だった場合、さきほどのような台詞にはならなかったのではないか? と僕は想像します。


 なぜキズキが自殺してしまったのか、その原因を僕はお姫様と用心棒という関係性に求めたいと考えました。

 直子の言う「対等」な「人間関係」を結ぶ為には、お姫様と用心棒(庇護者)であってはいけません。


 誰かが誰かをずっと永遠に守り続けることは不可能な訳ですから当然です。

 あるいは、もしも永遠に守り続けることができるとしても「私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃない。」と直子は言います。

 その通りです。


 しかし、直子は「赤頭巾ちゃん~」の女の子、由美のように、はじめて生理(メンス)になったときにキズキのもとに行って、泣いてしまい「誰かが誰かをずっと永遠に守りつづける(お姫様と用心棒)」の契約が成立してしまいます。


 少なくともキズキの中で、それを引き受ける部分があったからこそ、どこまで行っても「対等」な「人間関係」が直子と築けないという理解があったのだろう、と僕は考えます。

 直子はキズキに対し「(彼は)ただ弱いだけなの」と言います。

 更に、「でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんて殆ど興味すら持てなかったのよ」と続けます。


 先ほどの「だって誰かが誰かをずっと永遠に~」の直子の台詞を思い返すと、今回の台詞は盲目的すぎる上に、それを「ただ弱いだけ」の男の子に押し付けてしまうのは、如何なものかと思います。

 とは言え、僕はキズキの自殺はそういった直子の盲目的な態度にあったと思っている訳ではありません。


 まず、キヅキは直子と対等な関係を結べず、また用心棒にもなりきれない自分(ただ弱いだけ)に対する苛立ちがあったと予想します。

 これを「杳子」と「赤頭巾ちゃん~」の文脈に落とし込むと、キヅキは直子と対等な関係を結ぶのであればセックスをする必要があり(庇護者の否定)、用心棒になるのであればセックスを求めてはいけなくなる(庇護者の肯定)、という曖昧な場所に彼は立っていました。


 その曖昧さが

「N360の排気パイプにゴムホースをつないで」

「死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕(ワタナベトオル)にはわからない」

「遺書もなければ思いあたる動機もな」い自殺へと繋がったのではないか、と僕は考えます。


 彼は「ただ弱いだけ」であり、その曖昧さや何処にも行けなさに耐えられなかった。

 直子がキヅキとの関係を以下のように表現しています。


 ――私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならいし。


 まるで、それは楽園です。

 キヅキは「いつまでもつづかない」「どんどん大きくなっていく」ことにさえ、耐えらなくなってしまったのではないか。


 もしも、直子と対等な関係ないし、お姫様と用心棒の関係性が結べていれば、キヅキは自殺を選ばなかったのではないか。

 と同時に、キヅキの前にワタナベトオルが現れなかったら、彼は自殺を選ばなかったのではないか、とも考えます。

 自殺前のキヅキの唯一の意思表示は、主人公ワタナベトオルにビリヤードで勝つことでした。


 なぜ、キヅキは自殺前にワタナベトオルにゲームで勝つことにこだわったのか。

 それは直子の台詞から窺い知ることができます。

 先ほど引用した内容も含まれるのですが、書かせてください。


 ――私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならいし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」


 キヅキも直子と同じ考えを持っていたとするなら、外の世界へと自分たちを繋いでくれる存在はワタナベトオルでした。

 逆に言えば、ワタナベトオルさえ居なければキヅキも直子も外の世界から背を向けて、楽園のような無人島でゆっくりと不幸になっていくことができました。


 しかし、ワタナベトオルという外の世界と自分たちを仲介する存在を知ってしまった以上、キヅキは以前のように直子と無人島で無邪気に戯れることはできなくなってしまったはずです。


 キヅキの中で、どのような葛藤があったのかは分かりません。

 いつか直子がワタナベトオルと無人島を出て行き、一人残されると思ったのか、あるいは逆に直子を無人島に一人取り残してしまうと思ったのか……、全ては闇の中です。


 ただ、分かるのはキヅキにとって外の世界へと仲介してしまうワタナベトオルという存在に対し、愛憎入り交じる思いを抱いていただろうことです。

 そんなワタナベトオルにビリヤード(ゲーム)で勝つという、ちっぽけなことがキヅキにとって重要な意味があったはずです。


 前回、僕は庄司薫の「ぼくの大好きな青髭」という小説に言及しました。この小説の帯には以下のようにあります。


 ――若者として死ぬのか、大人になって生きるのか。


 キヅキがなぜ自殺をしたのか、それはどこまで考え尽くしても憶測の域はでません。

 だから、あえて無責任な書き方をします。


 遺書もなく、ただワタナベトオルにビリヤード(ゲーム)で勝つことにこだわったキヅキは若者として死ぬことを選んだのではないか。

 若者という定義は曖昧ですが、直子の言葉を借りるならキヅキは「ただ弱いだけ」の男の子です。


 当たり前ですが、若者が「弱い」ことの全てを許される訳ではありません。

 ただ、大人になったら、間違いなく「ただ弱いだけ」でいられるはずがありません。

 キヅキは「ただ弱いだけ」の存在として、若者らしい意地、ゲームに勝つというささやかな意地を張って死んで行ったのではないか、と考えます。


 最後にキヅキの幼馴染である直子も自殺しますが、彼女は「ただ弱いだけ」の存在としても、若者としても死にませんでした。


 では、なぜ直子は自殺を選んでしまったのか。

 それはまた別の機会に書きたいと思います。


 今回、非常に長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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