29 「ノルウェイの森」のキズキはなぜ自殺を選んだのか。①
前回は、古井由吉について書いたのですが、まず今回は庄司薫という作家を紹介させてください。
庄司薫は古井由吉と同じ一九三七年生まれで、共に日比谷高校を卒業しています。更に、庄司薫は「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を受賞し、その一年後に古井由吉は「杳子・妻隠」で芥川賞を取っています。
今回はこの二人の作家の話を交えつつ、村上春樹の「ノルウェイの森」について書きたいと思います。
僕は前回、「杳子」という物語の中で、年の離れた姉の姿が妹の未来を予言している部分を「杳子」と「ノルウェイの森」の共通点としました。
杳子の姉は心の病気を患っていたことがあり、妹の杳子も同様の病に罹ります。
「ノルウェイの森」の直子の姉は高校三年生の頃に暗い部屋で首を吊って自殺し、直子もまた暗い森の中で自殺します。
それ以外の共通点として庇護者の否定と歩行小説というものがあります。
まずは、「杳子」と「ノルウェイの森」の歩行の役割の一致について書かせてください。
古井由吉の「杳子」は小説の半分以上が男女の歩行です。
女の子が少し後ろを歩いたかと思えば、前に出て歩きだしたりする歩行の関係を結びます。そして、その後に肉体関係を結びます。
村上春樹の「ノルウェイの森」は、男の子が常に女の子の後ろを歩きます。
――「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。
「駒込」と僕は言った。「知らなかったの? 我々はぐるっと回ったんだよ」
「どうしてこんなところに来たの?」
「君が来たんだよ。僕はあとについてきただけ」
そして、直子の二十歳の誕生日に「僕」はセックスをします。
歩行することがセックスに繋がっていると断言できる訳ではありませんが、あくまで物語の構造上、男女の歩行の後にセックスはあるようです。
他に歩行による関係でセックスへと繋がった小説はないかと考えたところ、吉行淳之介の「星と月は天の穴」が浮かびます。
一部、引用させてください。
――「どうだ、ぼくの散歩用の女にならないか」
「散歩用って、どういう……」
「街を一緒に散歩してくれればいい。きみが綺麗だから、みんなに見せびらかして羨ましがらせてやる。部屋の中でのつき合いは、いらないというわけだ」
そういう言い方をしても、結局は愛の告白をしているのと同じ状況ではないか、とAはおもう。
僕は吉行淳之介を尊敬していますし、ちょっと憧れている部分もあるんですが、この部分はトロフィーワイフ化(女性を人に自慢するための道具にする)っぽくて嫌いです。
もちろん、時代もあると思うんですが(「星と月は天の穴」は群像に掲載されたのが一九六六年)、現代において、これに近い発言をする方がいたら普通に軽蔑します。
話を戻して、歩行、共に散歩をするという行為は物語的な意味合いで、セックスに繋がっています。
おそらく、その根源は川端康成の「伊豆の踊子」なのですが、この小説にセックスシーンはなく、歩行によって女の子から好意を向けられて、そのまま別れることが、なんだか気持ち良い小説となっています。
男女が歩行することは、言わば好意の交換であり、その先に望めばセックスがある(というか自然の流れであれば、ある)と考えて頂ければ幸いです。
そして、好意の交換は済ませているにも関わらずセックスをしないことの心地良さ(自然の流れに対する抵抗)を徹底的に書き尽くした作家が、庄司薫です。
どういうことか説明する前に、庄司薫という作家について詳しく書かせてください。
庄司薫は以前、福田章二(しょうじ)という本名で中央公論新人賞を「喪失」で受賞しています。その後、総退却と言って、表舞台から消えます。
数年後に庄司(しょうじ)薫という名義で「赤頭巾ちゃん気をつけて」を発表し、芥川賞を受賞します。
名前で分かるように「福田章二(しょうじ)」→「庄司(しょうじ)薫」と本名を引き継いだ形となっています。
乙一と中田永一も、これくらい分かりやすくしていれば、論争も起こらなかったでしょうね。
ただ、ここで不思議になるのは「庄司」は前の名前から引き継がれているとして、「薫」にはどんな意味があるのか、です。
と言うのも、「赤頭巾ちゃん気をつけて」「さよなら快傑黒頭巾」「白鳥の歌なんか聞こえない」「ぼくの大好きな青髭」の赤、黒、白、青(今は、赤、白、黒、青の順番になっています)の四部作の主人公の名前が著者と一緒である「庄司薫」です。
著者と物語世界の名前が同一である以上、何か意味があると考えるのは当然です。
評論家の川田宇一郎いわく、薫は「伊豆の踊子」の踊子の名前なんだそうです。
つまり、庄司薫は「伊豆の踊子」の「歩行によって女の子から好意を向けられて、そのまま別れること」の心地良さを徹底的に目指した作家と言うことができます。
その心地良さを庄司薫の小説から探すとするなら、以下のような部分になります。
――つまりぼくは、平たく言えば「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がするなどということになっては、これはちょっと、たとえば「フリー・セックス」の現代においては許しがたいほどのいやったらしい優等生ぶりではあるまいか。
あえて、長々と引用しましたが、このシーンの前にある女医のシーン(「女をモノにする」絶好のチャンス)は本当に官能的で、どちゃくそエロいんですよ。
庄司薫はあとがきにて、安部公房が「(女医のシーンではなく、終盤の幼馴染の女の子と手を繋いで歩くシーンで)オレタッチャッタ」と感想を貰ったエピソードを語っています。
「壁 - S・カルマ氏の犯罪」や「砂の女」を書いた第二次戦後作家で、今でも本屋に行けば絶対に置いている作家の感想がそれで良いのか?
と思わないでもないんですが、幼馴染の女の子と手を繋ぐだけで、性的興奮してしまう瞬間って確かにあるように思います。
少し話はずれますが、お笑いタレントの「バカリズム」がラジオで「性に奔放な女の子と部屋で二人きりになって、どう考えてもセックスする空気の中で、絶対にしない。それこそがセックスだ、ざまあみろって思っちゃうことがあるんですよね」と発言をしていました。
どういうこと?
って言いたいんですが、すみません。
その気持ち、すっごく分かるんですよね。
むしろ「据え膳食わぬは男の恥」の方が分からないんです。
精神医院の斉藤環いわく、男性は九十秒に一回セックスのことを考えるんだそうです。
個人の感覚として、そんなに頻繁に考えている気はしないのですが、もしもそれくらい頻繁に考えているなら、「セックスをしないことこそセックスだ。ざまあみろ」に行き着く男性は多い気はするんですけどね。
僕の周囲ではあまり、この手の意見は聞きません。
言わないだけかも知れませんが。
長くなっているので、一端区切りたいと思うんですが、もう少しだけ続けさせてください。
まず、古井由吉の「杳子」は半分が彼と杳子の歩行で占められています。
村上春樹の「ノルウェイの森」もワタナベトオルと直子の関係性は歩行によって支えられています。
二つはその後に自然の流れとして男女のセックスへと至ります。
庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にも印象的な歩行のシーンがあります。
それが、安部公房が「オレタッチャッタ」と言う幼馴染の女の子と手を繋いで歩くシーンです。
物語的な自然な流れとして、男女の歩行は好意の交換であり、その先に望めばセックスがあります。
しかし、庄司薫は川端康成の「伊豆の踊子」を意識した「「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がする」小説である為、セックスを書きません。
むしろ、バカリズムが言うところの、「どう考えてもセックスをする空気の中で、絶対にしない。それこそがセックスだ、ざまあみろ」を庄司薫は貫いています。
それを村上春樹は小説の中で別の言葉で表しています。
最後に引用させてください。
――鼠の小説には優れた点が二つある。まず、セックス・シーンが無いことと、それから人が一人も死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
庄司薫の小説は鼠の小説のように、セックスと死が巧妙に回避されています。
それは自然に逆らった人工的な小説とも言えます。
主人公が著者と同じ名前である「庄司薫」である部分などは端的に、そういう在り方を表しています。
そんな人工的な小説シリーズの完結編(?)が「ぼくの大好きな青髭」という小説で、これが殆ど奇蹟みたいな完成度と強度を誇っています。
この小説の帯には「若者として死ぬのか、大人になって生きるのか。」と書かれています。
では、次のページから本格的に若者として死んで行くことを選んでしまった人たちの物語「ノルウェイの森」について言及したいと思います。
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