28 「杳子」アイデンティティを失わない為の戦い。
作家の古井由吉が2月18日に亡くなりました。
ネットニュースなどを読むと「内向の世代」と紹介されていて、その名称が未だに有効であることに驚きました。
というのも、古井由吉に関する文章、解説や対談を読んでいて、内向の世代と言う単語にぶつかった記憶が僕にはありませんでした。
同じ世代に属していた大庭みな子に対しても同様の感想を抱いていますが、単純に僕の勉強不足なのかも知れません。
何にしても、ある世代に属しているから、その人が偉いということにはなりません。古井由吉は一人の作家として日本文学史に残る作家です。
そんな古井由吉の「杳子・妻隠」の杳子(ようこ)について今回書ければと思います。
ただ、その前に古井由吉が亡くなる前に、僕はエッセイを書き始めていました。
なんとなく、「杳子」と繋がる気がしたので、そちらから書かせてください。
昔、お付き合いしていた方に「自分のことを知らない人」と言われたことがあります。
当時の僕は友人たちからも「自分がない奴」とよく言われていました。
二十代前半の頃のことです。
懐かしい。
当時の僕は「自分のことを知らない人」でした。
そのような理解を持っていた頃に、僕は以下の文章にぶつかりました。
「アイデンティティとは『自分とは何か』という問題である」
石原千秋「謎とき 村上春樹」の中の一文なのですが、少々引用させてください。
――アイデンティティは二つの側面から成り立っている。
一つは自己の空間的側面で、「他者や社会から自分が自分であるということが承認されていることを自分自身で信じられている状態」である。他者から「承認」されていることを自分が「信じ」ているのだから、二重に「信頼」がなければならないという意味で、メタ・レベルの自己を前提としていることになる。
(中略)
アイデンティティのもう一つのポイントは自己の時間的な側面で、「過去の自分と現在とが同一の自分であるということを自分が確信していること」である。これは先ほどのアイデンティティの第一の側面が「現在」」に関わっているのと比べて、より多く「過去」の問題である。
なるほど。
まとめると周囲の他者や社会が認めている自分と、過去の自分も自分と信じることが、アイデンティティになるようです。
『自分とは何か』を引き受けることはつまり、現在と過去を積極的に認めていく姿勢にあるのでしょう。
という部分までが、エッセイの書き出しで残っていました。
さて、古井由吉の「杳子」に戻りたいと思います。
あらすじが難しい作品ですので、文庫本の三木卓の解説を頼りたいと思います。
――『杳子』を外面的に読めば、精神に若干病んだところのある杳子という女子大生と、その娘を理解し庇護者たろうとする同年の男子大学生のやさしいものがたりということになる。しかし『杳子』の書かれた理由はそのようなところにはない。なぜなら〈彼〉なる男子大学生は、自分が本質的な意味で杳子の庇護者ではない、ということを知っているからである。
まず、「杳子」の冒頭は「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」とはじまります。
小説の半分以上がこの坐っていた杳子が彼なる男子大学生と歩行しているだけです。
つまり、この物語は「坐っていた女の子が男の子と出会って歩き出す」話と理解することができます。
杳子が一人で坐っていた理由は心の病気です。しかし、この病気が具体的に何なのかは本編に明確な記載はありません。
あえて、本編から引用するなら以下になるかと思います。
――「そうね、方向音痴ね」と杳子は細い甲高い声で言って、いつもの少女めいた細いからだを左右にくねらせた。
その変容ぶりに、彼は呆気に取られた。
「というよりも、選択音痴だな」と彼は無意味にも言いなおした。
「そう、選択……音痴」と杳子は嬉々として飛びついてきた。
この後に、「すこし鍛えなおしてやろうか」と彼が言い、「ええ、鍛えなおしてちょうだい。お願いよ。このままじゃ困るわ」と杳子が答え、庇護関係が成立したように思えます。
しかし、三木卓は彼は杳子の庇護者ではない、と書きます。どういうことか、また解説から引用させてください。
――〈彼〉は、杳子を自分の同類者としてとらえている。〈彼〉は失調に陥っている杳子の姿を見るといてもたってもいられない気持ちになる。〈心配からではなかった。そうではなくて、その姿が彼自身の恥辱にじかにつながって来るように思えるのだ〉と〈彼〉は告白するのである。
失調に陥っている杳子の姿に、自分自身の恥辱に繋がっている感覚は彼だけのものでなく、『杳子』を読んでいる読者にも向けられています。
少なくとも僕は他人事として、杳子の失調の姿を読むことはできませんでした。
さきほど、杳子を「坐っていた女の子が男の子と出会って歩き出す」話と僕は書きました。
彼が杳子に対し、「鍛えなおしてやろうか」と言うように、彼女の心の病気は歩行することで治っていきます。
重要なのは治ってきたと思ったら、失調に陥ってしまう、行ったり来たりする心の病気の不安定さにあります。
そして、杳子は以下のように悩みます。
――「病気の中で坐りこんでしまいたくないのよ。あたしはいつも境い目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいにふるえて、それで生きていることを感じているの。お姉さんみたいになりたくない」
「姉さんは健康になったのだろう。今では一家の主婦で、二児の母親じゃないか」
「それが厭なの。昔のことをすっかり忘れてしまって、それであたしの病気を気味悪そうに見るのよ」
「それでいいんだよ。健康になって病気のことを忘れるのは、しかたないことじゃないか」
「病気の中にうずくまりこむのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ」
杳子には年の離れた姉がいて、姉も昔は心の病気だったようです。
余談ですが、年の離れた姉の姿が妹の未来を予言する、という形は村上春樹の「ノルウェイの森」でも描かれています。
「ノルウェイの森」の直子にも年の離れた姉がいて、高校三年生の頃に暗い部屋で首を吊って自殺します。
直子もまた暗い森の中で自殺してしまいます。
実は「杳子」と「ノルウェイの森」には他にも共通点がありますが、その部分については次回に譲って、「杳子」です。
杳子の姉の姿が未来を予言するのなら、杳子もまた病気のことを忘れてしまうのでしょう。
「杳子」とは、その未来を否定する物語でもありました。
今回、エッセイの冒頭付近で僕はアイデンティティの話をしました。
その一つに、「過去の自分と現在とが同一の自分であるということを自分が確信していること」というものがあります。
過去の、病気であった自分も自分であると受け入れ、決して忘れないと決め、その狭間で戦う杳子の姿に、僕は僕の恥辱を見ました。
昔、お付き合いしていた方に「君は自分のことを知らない」と言われていたように、僕は十代後半の自分をそっくりなかったことにして、健康な人間として振る舞おうとしていました。
十代後半の僕の生活は杳子の言う「病気の中にうずくまりこむ」ような状態でした。
坐って、体を丸めて耐える方が楽な日々でしたし、そこから何かを学ぶよりも、すっかり忘れてしまった方が精神的にも楽でした。
結果、「自分がない」や「自分のことを知らない」と言われてしまうにしても、心の病気の自分を知って、どんな良いことがあっただろう? と今でも思います。
もちろん、僕の想像がつかないよな人間的に素晴しいことがそこにはあったのかも知れませんし、良いことがあるから自分を知る訳ではありません。
僕は十分な成熟をせず大人になったのかも知れません。
その可能性は十分にあります。
だとしても、十代後半の自分をなかったことにして、「自分のことを知らない」二十代前半を過ごした日々は決して悪いものではありませんでした。
愚かだし、恥ずかしい奴だとは思います。
杳子のような葛藤を抱え、自分のいる内側と他人がいる外側の両方で戦った訳でもありません。
ただ、時間が過ぎ去って、何となくそれっぽい形になってきた今、振り返ってみると悪くない人生を歩いているなと思うだけです。
可能であれば、このままうずくまることなく歩き、過去の愚かな自分を抱えていられれば、良いのではないか? そのように考えています。
さて、今回、アイデンティティの話をしたのは、新しい小説の宣伝をエッセイでもしようと考えたからでした。
あまりその方向にはなりませんでしたが、宣伝だけさせてください。
「西日の中でワルツを踊れ」という記憶喪失の青年が主人公の小説です。
冒頭付近で紹介したアイデンティティの二つの側面を失った人間はどうなるのか? という興味から書きました。
まだ序盤ですが、お時間ありましたら読んでやってください。
郷倉四季がやたら喜びます。
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