24 「ビジランテ」むごたらしく、救いがないことが唯一の救い。

 最近、やたら映画を見ている郷倉です。

 少し前ですが、入江悠監督の「ビジランテ」という映画を見ました。

 タイトルの「ビジランテ」は自警団の意味で、入江悠監督はインタビューにて、以下のように答えています。


 ――地方都市には“自警”意識が根強くあるんです。「町を守るために! 治安のために!」という大義があるんですが、どこかそこに気持ち悪さもある。

 僕も青春時代を地方都市で過ごす中で、田舎のコミュニティの閉鎖感はずっと感じていました。


 僕も十八歳まで広島の田舎で過ごしていました。

 入江悠監督の言う「気持ち悪さ」はなんとなく分かります。

 あくまで僕の印象ですが、自警意識(大義)の裏には徹底した想像力の欠如があります。

 コミュニティが閉鎖的なせいか、想像力の幅が狭いんです。


 その想像力の幅の狭さを前提に「ビジランテ」を見ると、キャラクター一人一人の行動の理由に納得ができます。

 映画のレビューで、登場人物の行動が中途半端で何がしたいのか分からない、というものがありました。

 それはそうでしょう。


 というか、「ビジランテ」の登場人物の大半が中途半端な行動しかできないことが良いんです。

 それに関しては別の角度から話をさせてください。


 東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」にて以下のような文章があります。


 ――フロイト的な意味での「意識」と「無意識」の対比に、あるいはさらに低俗に、「上半身」と「下半身」の対比に重ねてみる。上半身は思考の場所、下半身は欲望の場所である。


 この対比で言えば、「ビジランテ」は間違いなく無意識(欲望)の物語です。

 同時にこの物語は、ある三兄弟の物語でもあります。


 彼らは政治家の息子として生まれていて、名前は一郎、二朗、三郎です。

 入江悠監督が意識されたのかは分かりませんが、似た設定の小説があります。


 舞城王太郎の「煙か土か食い物」です。

 こちらは四兄弟の物語ではありますが、親が政治家で名前が一郎、二朗、三郎、四朗と名付けられています。


「煙か土か食い物」の主人公は四朗で地方都市から抜け、アメリカに留学しました。

 そんな彼が地元に戻ってきた時、他の兄弟に対し、「自分たちのキャラクターに応じた振る舞いを続けて」おり、そこに自由がない、と感じます。


「ビジランテ」で言えば、地元に残ったのは二朗と三郎で、彼らに自由はありません。

 父が亡くなり、残された土地は大型商業施設の為に使用されることが決まっています。

 それを二朗と三郎は何の抵抗もなく受け入れていましたが、家を出て行方不明になっていた一郎が、父の死をきっかけに戻ってきて、土地は売らないと言いだします。

 祖先の思いが残った土地だから、と一郎は主張します。


 正直な話、行方不明になっていた一郎が突然、祖先の思いを大事にしようとする理由は明確に説明されません。

 ただ、その祖先の思いを守ろうとする行動のみが、東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」で言うところの、意識(思想)を垣間見ることができます。


 一郎自身にも多くの問題があるにせよ、彼は一貫して兄弟である二朗と三郎に自由であることを求めます。

 しかし、二朗は市議会議員であり、三郎はヤクザの下でデリヘルの雇われ店長であり、二人とも所属するコミュニティ(政治家とヤクザ)に縛られ、そこから抜け出すことができません。


 二朗と三郎は自らの所属するコミュニティから一郎に土地を売るよう説得を求められます。

 数十年の期間が空いた兄弟間でまともなコミュニケーションや交渉がおこなえる訳もなく、一郎を説得できなかった後は、悲惨な現実しか待っていませんでした。


 この世の中において、自分の力で守れるものは僅かしかないし、自警団という集団を作れば、人間は行き過ぎた暴力を他人に振るうことになる。

 暴力は人を幸せにはしないが、他人を不幸のどん底に落としはします。


「ビジランテ」という映画は詰まるところ、そういう物語です。

 良いことなんて何も起きないまま終わります。


 入江悠監督は「ビジランテ」をノワール作品を目指したとインタビューで答えています。


 ――僕が10代の頃、生きることの残酷さや、主人公が報われることのない現実を描いた作品に救われるものがあったんです。自分の苦しさを映画が引き受けてくれているような気がして。

 (中略)

 お客さんにどう受け取っていただけるかは分かりませんが、この映画が誰かの救いになれば嬉しいです。


 これを読んだ時、僕の頭に浮かんだのは坂口安吾の言葉でした。


 ――(物語)最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。

 (中略)

 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。


 救いがないことが誰かの救いになる物語。

 僕はそういう物語を特別支持しません。しかし、そういう物語に救われた経験は確かにあって、無視できないのも確かです。

 

 よしもとばななが「ハゴロモ」のあとがきで、「弱っているときにしか価値がない」そういう小説だと思う、という類のことを書いていました。

 人は体調や精神状態によって物語の受け取り方は異なってきます。


「ビジランテ(あるいは救いのない物語)」を多くの人に薦めようとは思いませんが、それが必要になった時があれば、手に取ってみるのも良いかもしれません。

 それがどんな時なのか、僕には少し想像できませんが。

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