22 「寝ても覚めても」あなたが見える世界はぼやける。

 最近、仕事終わって部屋に戻って食事を終えた後の一時間、コタツに入ってぼーっとする癖ができてしまいました。


 年始のあれこれの忙しさの反動かな?

 と思ったりもしたのですが、一週間ほど続くと勿体ないと感じるようになってきました。


 そんな訳で、僕は食事の最中から映画を観るようになりました。

 最近、観た中で最も印象的だった「寝ても覚めても」という映画について書きたいと思います。

 監督は濱口竜介で、原作は柴崎友香という芥川賞作家です。


 僕は一時期、評論家の佐々木敦が発表する文章を追っていた時期がありました。

 その中で佐々木敦が保坂和志に影響を受けた作家たちを「保坂スクール」と名付けていて、柴崎友香もその中に含まれていました。


 僕は保坂和志文学の熱心な読者ではなく、むしろ邪道で「書きあぐねている人のための小説入門」だけは何度も読む読者でしたが、「保坂スクール」のメンツは好きな作家が多くいました。

 そんな「保坂グループ」のメンツが芥川賞を受賞していく流れがあり、そんな折に柴崎友香が候補に上がりました。


 発表の日、僕は島根県のホテルに一人で泊まっていました。

 ホテルの最上階に大浴場があって、そこに行って汗を流した後、島根の地ビールなるものを飲みながら、芥川賞の発表を待ちました。


 芥川賞と直木賞の発表を待つ時間の緊張感が僕は好きです。

 ホワイトボードに名前が貼られて、大量のフラッシュが焚かれる中、柴崎友香という名前を認めた時、僕は一人でガッツポーズしました。


 翌朝、ホテルの部屋に朝刊が差し込まれていて、そこに柴崎友香の記事があり、それを鞄に忍ばせて仕事へ行きました。

 受賞作である「春の庭」は単行本が出た時、サイン本があって買いました。


 そんな柴崎友香の「寝ても覚めても」なのですが、話題になっているのは知っていました。

 購入し、読もうと挑戦もしました。


 しかし、その時の僕は読書をする心の余裕がなかったのか、ちっともページは進まず、結局は本棚に並べて満足する結果となってしまいました。


 映画化され、それが評価されても、僕は観ようという気持ちにはなりませんでした。

 文芸誌の新潮で蓮實重彦が「濱口竜介監督『寝ても覚めても』論」なるものを書いていて、それも購入しましたが、読もうとはしませんでした。


 僕は時々そういうことをします。

 まだ観ていない映画や、読んでいない小説の評論を用意しておく。未来の自分がそれを観て読んで、戸惑ったり首を捻って理解できないと思った時に頼る指標にします。


 つまり、僕は柴崎友香の文学性をちゃんと理解できる自信がありませんでした。

 庄司薫が書く

「偉い人にはうかつに近づくな。こっちに十分の力がないうちは、むしろ逃げて逃げて逃げまくれ。」

 というものに近い感情です。


 とは言っても、そんなに逃げてもいられないので、向き合う時が来たら潔く覚悟を決めます。


 我ながらトンデモない心持ちで「寝ても覚めても」を観はじめた訳です。

 天井まで上がった期待値を「寝ても覚めても」は軽々と越えていってしまいました。


 感想としては、予告編も何も事前情報なしで観て本当に良かった、でした。


 観てない方には伝わらないかも知れませんが、後半のレストランのシーンで僕は「え? え、え? え。え……、え?」となりました。

 ものすごく混乱しました。

 おそらく50回を超える「え?」を言いました。


 坂口安吾が「文学のふるさと」で、モラルのない突き放された気持ちになる事実にこそ、文学の根底(ふるさと)はある、という意味のことを書いています。


 まさに僕は「寝ても覚めても」の後半に突き放された気持ちになりました。

 そこにモラルはなく、人間は時にこんなにも救いのない選択ができてしまう事実に震えました。


 映画が終わった後、僕は新潮の蓮實重彦「濱口竜介監督『寝ても覚めても』論」を読みました。

 この論のタイトルは以下のようなものでした。


 ――選ぶことの過酷さについて


 今回、その選ぶことについて詳しく書くことはしません。


 現時点で結構な量も書いていますので、モラルのない突き放すような選択をした主人公、朝子(唐田えりか)が、どういう人間かに絞って書かせてください。


 ちなみに「寝ても覚めても」の舞台は大阪→東京→大阪と移り変わっていきます。


 映画の序盤は大阪です。

 朝子は大学生で、麦(ばく)という彼氏ができます。

 出会い方が奇妙で、川辺で目を合わせた麦が朝子に名前を聞き、その流れで突然、キスをすると言うものでした。

 キスされた朝子はあっさりそれを許します。


 次のシーンで麦の友人に彼女として紹介されます。

 そんな朝子の危うさを目の当たりにした女友達は心配し、忠告めいたことも言います。


 朝子は友達の言葉に耳を傾けながら、具体的な行動には移しません。

 常に受動的な存在のような朝子ですが、幾つかのシーンでは積極的な行動を見せます。


 東京での生活の中で、東北へ行き復興イベントを手伝うシーンが出てきます。

 3・11を受け、朝子は「確かなことをしたかった」のだと説明します。


 朝子は常に確かなものを求めている存在に思います。

 そして、その「確かなもの」が定められた時、一点に集中した視点のように、周囲がぼやけてしまう。

 ぼやけた視点の世界を彼女は夢の中の出来事のように振り返ってしまいます。


「寝ても覚めても」という映画は、主人公の朝子が確かな現実を探し求めた物語でした。

 そして、その確かな現実にたどり着く為には夢の中のような現実へと足を踏み入れる必要がありました。


 この夢の中のような現実の世界に突入してからは、何が事実で、何が幻なのか分からなくなってしまいます。

 それを現しているのが、終盤で朝子が着ている白いブラウスです。

 物語時間的に二、三日は経っているはずなのですが、この白いブラウスは一切汚れません。


 夢、ファンタジーの象徴として白いブラウスはあるのですが、最後に朝子はそれを脱ぎます。

 単純に考えるのなら、ファンタジーの象徴である汚れない白いブラウスを脱ぐのであれば、朝子は現実を正確に捉え、確かなものを手にしたように思えます。


 しかし、朝子が映画の最後、目にするものは部屋の窓から覗ける川です。

 常に流れ、光を反射させ続ける川を前に「きれい」と彼女が言って、映画は終わります。


 蓮實重彦が「選ぶことの過酷さについて 濱口竜介監督『寝ても覚めても』論」で、朝子は「類似」の「反復」に対して、まったくもって無力な存在だと書きます。


 朝子はある意味、その「反復」の運動によって、現実の確かさを確認する他ない存在です。

 類似した片方を選ぶことでしか、もう片方の大切さに気づけない。


「寝て」「覚めて」を繰り返さなければ人は生きていけないように、朝子はそのようにしか生きていけない。

 そう示されて終わる映画を僕はどのように受け止めれば良いのか、未だに判断できずにいます。

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