11 存在に耐えれない重さと軽さ、そして、めまい。

 前回、吉行淳之介の話を書きました。


 コメントで「読んでみます」という有難い内容をいただけたので、オススメする作品を近況ノート(青年の四季についての創作報告書⑨)にて考えてみました。


 そこで「星と月は天の穴」という中編小説を挙げました。

 昭和41年に発表された作品で、後の「暗室」や「夕暮まで」に通じるモチーフも散りばめられているので、吉行淳之介の入り口としては良いんじゃないかな? と思っています。


「暗室」や「夕暮まで」は完成形な部分があって、個人的に勧めるのなら、まだ余白があって柔らかい頃の吉行淳之介にしたかったのもありました。


 そんな感じで近況ノートで「星と月は天の穴」を紹介したのですが、その文庫の「作家案内」というページに以下のような文章がありました。


 ――(いまの日本に)「とにかく必要なのは重々しいコワモテ風の姿勢ではなく、鋭い軽薄さである。軽薄さがそのまま批評につながり、重厚コワモテにたいしての破壊力を持つ、というような意味合いである。」


 そして、このような姿勢を持っていたのは、戦後の織田作之助、太宰治、坂口安吾らであるが、かれらのように「自滅」しない方法はないか、と自問し、そして、自答する。


「日本古来の軽みの思想につなげたらどうか。」と。

 吉行は「自滅」することなく、「鋭い軽薄さ」の文学を成功に導いた。


 引用に関して、少々手を加えましたが、内容に変わりはありません。

 僕はこの文章を読んだ時に浮かんだものがありました。

 こちらも、また引用させてください。


 ――死は生の対極存在なんかではない。

 死は僕という存在の中に本来的に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。

 でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも事実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。

 しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。


 少々長かったですが、「ノルウェイの森」のキズキの死後に主人公であるワタナベトオルの独白の部分です。


 先ほどの吉行淳之介の文章とぴったり重なる訳ではありませんが、先人の坂口安吾らが「自滅」する中、そうしない方法を吉行が自問したように、

 ワタナベトオルも唯一の友人であるキズキの自殺を前に、自分もキズキが捕えた死に捉えられていると感じ、深刻になるまいと努力しました。


 重さからも軽さからも逃げ切らない。

 中途半端な場所で留まっておくこと。

 それが死から逃げられる有効な手段だとワタナベトオルは判断したように、僕は思えました。


 その結果なのか判断はつきませんが、ワタナベトオルは他人に心を開けなくなります。


 ――直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。

 僕は別れた女の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、どうしてか心を動かされるということがなかったのだと僕は言った。


 この女の子と出会って、関係を持ったのはキズキが亡くなった後の高校を卒業するまでの十ヵ月の間でした。

 ワタナベトオルが(女の子に対し)心を動かせなかった理由とキズキの死が無関係とは思えませんでした。


 重さからも軽さからも逃げ切らず、中途半端な場所で「自滅」することを回避し続けるが故に、ワタナベトオルは心が開けなくなってしまった。

 そう僕は読み取りました。


 ちなみにですが、重さと軽さについてはどちらが良いと一言では決められない部分があると、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」で語られています。


 ――あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。

 もっとも重い荷物というのはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より現実味を帯びてくる。

 それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。


 中略


 確かなことはただ一つ、重さ――軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。


 長い引用で申し訳ありません。


 より現実味を帯びる重さと自由であると同時に無意味になる軽さ。

 吉行淳之介は「鋭い軽薄さ」によって重厚コワモテを破壊しようとし、それに成功しました。しかし、その根底では半ば現実感を失っていることを意味します。


 ワタナベトオルは深刻にならないよう努めながら、キズキの死はどうしたって深刻な事実だと認めます。

 その結果、心が動かなくなってしまいます。


 吉行淳之介とワタナベトオルは重なる部分が多い訳では決してありません。

 ただ、どうしようもない現実と向き合う時、「軽さ」を選択しようとする人間(もしくは「重さ」を選択しない人間)であることは共通します。


「ノルウェイの森」を例にすれば、キズキの死という現実を前に重さを選択することはより、死に近付くことを意味します。


 そして、その重さを選択したのが、キズキの幼なじみである直子だったのだと僕は考えています。

 あるいは直子は重さを選択する他なかったのかも知れません。

 その点については別の機会に考えたいと思います。


 そういえば、「ノルウェイの森」の冒頭は飛行機に乗っていて、ドイツに着く間際にBGMの『ノルウェイの森』を聴くところから始まります。


「存在の耐えられない軽さ」で言うと人生の重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的になるとあります。

 とすると、「ノルウェイの森」は随分と現実から離れた場所から始まります。


 ザ・ビートルズの『ノルウェイの森』を聴いたワタナベトオルは激しく混乱します。

 そこにスチュワーデスが現れ「気分がわるいのか」と聞き、「大丈夫、少しめまいがしただけだ」と答えます。

 めまについても「存在の耐えられない軽さ」に記述があります。

 最後にこちらを引用させてください。


 ――めまいとは、われわれの下にある深みがわれわれを引き寄せ、誘い、われわれが恐ろしさに駆られて身を守ろうとする落下への憧れをよびおこす。


 これをワタナベトオルに当てはめるとどうなるのか、それについては別の機会に語りたいと思います。

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