10 「他ならぬこの私」を承認してくれた貴方を語る私。

 吉行淳之介って知っていますか?


 僕が彼の名前を初めて見たのは、村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」でした。

 その本で一番最初に紹介されているのが吉行淳之介の「水の畔り」でした。

「若い読者~」でも書かれているのですが、「水の畔り」は吉行淳之介が残した短編小説の中で代表的と言われるものでは決してありません。

 しかし、村上春樹は


 ――吉行淳之介という作家の文学的生理なり、小説的視点なりに接近し、それを理解するためには、かえってこういった「完成しきっていない」ものの方が有効なのではあるまいかと感じたからです。


 と書きます。

 その後に村上春樹は個人的に「水の畔り」が好きというのも理由の一つだと書きます。


 僕はこの部分を読んだ時点で、吉行淳之介の「水の畔り」を読みたいと思っていました。

 問題はこの「水の畔り」が収録されている本を置いている本屋がないことにありました。


 ちなみに、村上春樹の「若い読者~」で紹介されているのは戦後の日本作家で「第三の新人」という世代でした。

 この世代の作品を本屋で買おうとする場合、大型書店の講談社文芸文庫という値段が少々高い文庫を買う必要がありました。


 と言っても講談社文芸文庫で出版されている吉行淳之介の本に「水の畔り」が収録されているものはありませんでした。

 その為、「水の畔り」を読む為には古本屋か図書館を頼る必要がありました。


「若い読者~」を読んだ方は分かると思うのですが、村上春樹は結構深いところで「第三の新人」という世代の作品を読み込んでいます。


 それは周辺の作家の書評などからも窺い知ることができます。

 村上春樹が「若い読者~」を連載していたのが、1996年1月から1997年2月までで「本の話」という雑誌でした。

 当時、池澤夏樹が連載中の「若い読者~」の丸谷才一の回(だったと思います)を、書評の欄で取り上げて褒めていました。


 池澤夏樹も僕は結構好きな作家で(書評をまとめた本を図書館で読むくらいには)、彼は丸谷才一の全集を編んだりしていたので、彼が村上春樹の丸谷才一論を認めるのなら間違いない。


 そんな思いと同時に、村上春樹がなぜ「第三の新人」に心惹かれて作品を読み込んだのか、理解してみたい欲求が芽生えていました。

 今で言う「推し」の好きなものを自分も理解していみたいという思いに近いのでしょう。


 長くなりましたが、そんな訳で僕は村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」をマップとして、第三の新人という密林に足を踏み入れようと決めたのでした。

 最初に訪れたのが吉行淳之介です。


 と言いつつ、村上春樹が紹介した「水の畔り」は普通の本屋にはありません。

 最初で躓きたくなかった僕は講談社文芸文庫の棚を見て回り、「第三の新人名作選」という本を見つけました。


 吉行淳之介以外にも、そこには「若い読者~」で紹介された作家、小島信夫、庄野潤三、安岡章太郎の作品も載っていました。

 これは買うしかないと1500円の文庫を僕は購入しました。


「第三の新人名作選」で載っている吉行淳之介の作品は「驟雨」という芥川賞を受賞した作品でした。


 まず、驟雨という言葉を僕は知りませんでした。

 調べてみると、「急に降りだす雨、にわか雨」とありました。


 作品のあらすじは汽車会社に勤める男が娼婦を突然降りだす雨のように愛してしまう、というものでした。

 娼婦を愛した時、彼女の身体を交わす客たちを自分の中で、どう折り合いをつけるべきか、という問題にぶつかります。


 最後、彼はどうにか折り合いをつけようとするのですが、その客の中にもし友人がいたら?

 という不快な想像を振り払えず


 ――もぎられ、折られた蟹が、皿まわりに、ニス塗りの食卓の上に散らばっていた。脚の肉をつつく力に手応えがないことに気付いたとき、彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った。


 と締めくくられます。

 蟹があらゆる男性に身体を許す娼婦だとすれば、それに加担する自分を杉箸に例え、愛してしまったが故に折れかかっている。


 のかな?

 と僕は単純な読みをした訳ですが、この辺に吉行淳之介の根本的なものが潜んでいるように感じます。


 あるライターの方がツイッターで

「吉行淳之介の作品を読んで分かるのは女性のことではなく、吉行自身のことだ」

 という意味のツイートをしていました。


 吉行淳之介は実生活において非常にモテた人物です。

 彼の死後、四人の女性が吉行淳之介についての本を出版しています。

 他にも吉行淳之介の作品を論じる本ではなく、吉行淳之介という人間について語る本を幾つか見かけたことがあります。


 彼の周辺にいる人間はなぜか「吉行淳之介」を語ることで、自分を語ろうとしている部分が見受けられます。


 吉行淳之介を通して自分を語ろうとする彼らは、「他ならぬこの私」を吉行淳之介が承認してくれたという感覚を持っていたのではないか。

 というのが今回、僕の考えてみたいことでした。


 恋愛において正しい相手、間違っている相手という分け方があるかどうか分かりませんが、僕はあると過程します。

 少なくとも小説の世界にはそれがあると考えています。

 そして、恋愛の正しい相手は石原千秋いわく「他ならぬこの私」を承認してくれる人です。


 吉行淳之介の小説やエッセイ、対談を読み漁り、吉行淳之介を語る人達の文章も読んでみて僕が思うのは、少なくとも彼は他人から「他ならぬこの私」を承認してくれていると錯覚させる人だったのでしょう。

 あるいは、誰にとっても正しい相手として振る舞うことができたのかも知れません。


 山本容郎の「人間・吉行淳之介」という本で、吉行淳之介の小説は「女、セックスそのよりも関係を書いている」とありました。

 恋愛における正しい相手は「関係」によって形成される部分が強くあるのは頷ける部分でもあります。


 恋愛に正しい相手がいるとすれば、定義上「他ならぬこの私」を承認してくれた人になります。

 しかし、そうなると吉行淳之介のように「他ならぬこの私」を承認して回る人間が現れると、そのような人間を恋愛において正しい相手と言う訳には行かなくなってしまいます。


 それでも僕は恋愛における正しい相手と間違った相手という分け方を続けたいと思うのですが、これはあくまで小説世界における定義だと付け加えておきます。

 正確には「ノルウェイの森」を語る為の定義です。

 もう少し踏む込むなら「直子」を語る為のものです。


 と言いつつ、僕はこの先のエッセイで便利に使っていく場合があるかと思います。

 その場合はご容赦いただければ幸いです。

 最後に一番最初の問いに戻らさせてください。


 吉行淳之介って知っていますか?

 

 今回の(そして、今後書くだろう)文章で吉行淳之介を知らない人に少しでも届き、興味を持っていただければ幸いです。

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