4 遠い過去と未来をつなぐ知性の戦い。

 書いてみたい物語ってありますか?


 僕は小説を読んでいて、こんな物語を自分でも書いてみたいと思うことが多々あります。

 世の中には本当に凄い小説で溢れています。


 可能であれば、その凄い小説の中に自分の名前を連ねたい。

 そんな夢とも妄想ともつかない想像を僕は何度となく繰り返してきました。


 2014年の11月から「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」の刊行が始まりました。 

 例えば百年後にそういった日本文学全集が編まれる時、その中の片隅に自分の名前が載っているのなら、小説家としての到達点に達したと言っても良いのではないでしょうか。


 小説家志望の戯言ですから、実際の到達点はもっと別のところにあるのかも知れません。

 ただ、全集に載るということは、遠い時代の人に読まれるべきだと判断されてのことです。

 光栄なことに間違いはありません。



 僕は前回、二十一歳の頃の自分を振りかえって下劣な人間と評しました。

 そんな僕が下劣な自分から抜け出す為に、「時の洗礼をうけ」た古典小説を読もうとしたところで前回は終わりました。

 我ながら意味は分かりませんが、当時の僕は古典小説を読むことで自分は変われると信じていました。


 問題は何を読むか? でした。

 ここで読み切れない古典小説(例えば、『失われた時を求めて』とか)を選んで挫折してしまった場合、僕は更なる下劣な場所へと沈み込む気がしていました。


 そんな僕が見つけたのは商店街の中にある小さな本屋の既刊が並ぶ棚の片隅でした。


 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」。


 手にとって見ると、真っ赤な表紙の中にブーツが二つあって、その一つずつに男の子と女の子が入っていました。

 男の子はこちらを見ていて、女の子は左の方を向いていました。


 庄司薫という作家は、ある評論家の文章で知っていました。

 奥付を見ると「赤頭巾ちゃん気をつけて」は1969年8月に中央公論社から刊行された、とありました。

 新潮文庫で刊行されたのは2012年3月でした。


 単純計算で43年前に刊行された小説が新しいあとがきと解説を収録されて出版されていました。

 古典好きからすれば、43年は甘く見積もっても準古典作品でしょう。


 しかし、2012年に刊行する意味を誰かが見出して出版され、小さな本屋の片隅にこの文庫本は並んでいるのです。

 その意味を知ってみたいと僕は思いました。


 読んで何も変わらないとしても、それは僕がまだ準古典作品を読み込む力を持ち合わせていないからでしょう。

 ここは一つ気軽な気持ちで読んでみよう。

 そんな心持で手にした庄司薫の小説に僕は見事にハマりました。


「赤頭巾ちゃん気をつけて」の後に続く「白鳥の歌なんか聞こえない」「さよなら快傑黒頭巾」「ぼくの大好きな青髭」も全て新潮文庫から出版されているものを買い求めて読みました。


 43年もの時間が経過していても、庄司薫の小説はまったく古びていませんでした。

 むしろ、下劣な自分から抜け出せずにいる今の僕にこそ必要な小説でした。

 その感覚を言葉にするのは難しいので、新潮文庫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にある解説の冒頭を引用させていただきます。


 ――これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの。

 そう言い切ってしまうと、ほかのさまざまな魅力をそぎ落すことになるかもしれない。だが、「赤頭巾ちゃん気をつけて」というやわらかな表題と、一見(あくまでも「一見」)聞き手に甘えるかのような話し言葉風(ここも「風」をゴシック体にしたいところ)の語りの奥に見えるものをとりだすと、そんな具合に呼べるだろう。


 僕に必要なのは戦うことでした。

 可能であれば知性のために。

 その先にあるのは最終巻である「ぼくの大好きな青髭」の問い。


 この社会を好きになることはできるのか、です。


 僕は自分が生きる社会を好きになりたいんだと庄司薫の四部作を読んで気づきました。

 それは前回の「ノルウェイの森」の永沢さん的な権力を手に入れる類の社会参加とは異なったものでした。


 庄司薫はどちらかと言えば権力を否定します。

 彼が否定する権力とは、現実の比較競争関係で他人の力を弱め傷つけることです。

 社会を生きる上で権力を否定しきることはできませんが、それでも安易に権力を肯定しないように庄司薫は知性を働かせます。


 僕は庄司薫の四部作を読み、確実に権力的なものへの憧れを薄れさせ、漠然とした知性のための戦いへとシフトしていきました。


 二十八歳になった現在の僕は依然として知性のための戦いの途上にいます。

 戦いと言うのは、どこか照れ臭さを感じますが、それは戦いと言うしかないものです。



 さて、こうして書いていくと僕が本当に紹介したい庄司薫のエピソードが書けていないので、やや無理矢理ですが、一つ話をさせてください。

 僕は前々回、童貞を書かせたら天才(?)の藤沢周の話をしました。藤沢周の「奇蹟のようなこと」は最強の童貞小説なんです。


 そんな藤沢周とは異なる意味で、庄司薫も天下の童貞小説を書きます。

 藤沢周の書く童貞はセックスがしたいと思いながら、できない。

 庄司薫の書く童貞はセックスのチャンスが訪れるのに、それを拒否します。


 顕著にそれが現れている話は二作目の「白鳥の歌なんか聞こえない」です。

 ちなみにですが、村上春樹が「風の歌を聴け」で以下のようなことを書いています。


 ――鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も死なないことだ。放っておいても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。


 庄司薫の小説は鼠の小説のように優れています。

 彼の小説はセックス・シーンが無く、人は死にません。


 ただし、グレーゾーンの小説もあります。

 それが「白鳥の歌なんか聞こえない」です。

 主人公は顔を合わせない、ある老人が「白鳥の歌なんか聞こえない」でゆっくりと死に向かっていきます。


 その過程で、幼馴染の女の子が主人公に「抱いて」と言います。

 ゆっくりと死に向かっている老人の姿に感化されての発言であることは間違いなく、それ故に主人公は実に六ページ近くの思考を繰り返した後に、自らの性器に触れることなく射精します。


 これが恐ろしく感動的なんです。

 好きな子に好きだと伝える為にセックスを否定するんですから。

 これが知性の為の戦いかどうかは分かりませんが、読んだ当時は呆然としたのを覚えています。


「白鳥の歌なんか聞こえない」の新潮文庫版のあとがきで当時の帯に触れていました。

 紹介させてください。


 ――「女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子はいかに生くべきか」


 如何に生きるべきなんだろう。

 今でも答えはでません。


 今回はざっくりとした庄司薫の全体像のみを語らせていただきました。

 一冊一冊丁寧に解説したい気持ちもありますので、その辺はまた別の機会に致します。


 最後にオマケのように付け加えるなら、僕は庄司薫の四部作を読む間、お付き合いしている人がいました。

 今考えればですが、僕はその人にちゃんと好きだと伝えられなかったような気がします。

 人に自分の想いや感情を伝えることは本当に難しいんだなぁと安直な感慨を書いて、今回は終わりにしたいと思います。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

 次回もよろしくお願い致します。 



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