3 神様になれば誰かに認めてもらえる。

 憧れの人っていますか?


 僕は憧れの人がいます。

 いっぱいいると言っても良いです。


 けれど、その人達と僕は顔を合わせたことはありません。

 僕は遠くの生涯、会うことがないだろう人たちに憧れています。

 逆に言えば、顔を合わせる人には憧れないよう生活をしています。


 理由を前回、幻滅した時が辛いからと書きました。

 それは間違いではないのですが、補足させていただくと他人に憧れを抱く時、人は少なからず盲目になります。

 ならない人もいるのかも知れませんが、ひとまず僕はなります。


 他人を盲目的に憧れる状態を冷静とは言い難いと僕は感じています。

 誰かと関係する時、僕は可能な限り他人を人間扱いをしたいですし、されたいです。


 憧れて、まるで神様のように他人を扱いたくありませんし、誰かにそのような扱いを受けたくもありません。

 もちろん、僕をそのように扱う人はいませんし、今後もなければ良いと思っています。


 僕にとっての憧れるは相手を神様にしてしまうものでした。

 そして、僕は十代の頃から多くの神様を信仰してきました。

 一例を挙げさせてください。


 ――「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」

 中略。

「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない」


 そう言ってのけたのは「ノルウェイの森」の永沢さんでした。

 フィクションの人物ですが、「他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。」という言葉は憧れに足る発言でした。


 十代の僕は他人と同じ考え方をして、多くの人たちの輪に入りたいと願っていました。

 けれど、それと同じくらいの熱量で他人と違う考え方を持って生きたいとも感じていました。


 僕は多くの人間とは違う特別な人間なんだ。

 そう思いたかったのでしょう。

 我ながら痛い人間です。

 そういえば、永沢さんは以下のような発言もしています。


 ――「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」


 僕が十代後半の頃、父親が殆どアルコール依存症みたいな状態に陥り、毎日夜中に電話越しで誰かと喧嘩したり、母親を怒鳴ったりしていました。

 そんな環境下にいる自分に僕は同情していました。

 僕は痛い人間で下劣な人間でした。


 永沢さんの言葉には深く突き刺さる鋭さがありますね。

 とは言え、僕は永沢さんの全てに憧れていた訳ではありません。

 彼の人間性には文句を言いたいところが数限りなくありますし、彼のような人間になれるチケットを貰ったとしても今の僕は受け取りもしないでしょう。


「ノルウェイの森」を読んでいない方には申し訳ないのですが、永沢さんには付き合っているハツミさんという女性がいました。

 僕はそのハツミさんというキャラクターがとても好きでした。

 おそらく「ノルウェイの森」を読んだ読者で彼女を嫌った人間は一人もいないんじゃないかと思います。


 そんなハツミさんのことに関して永沢さんには山のような文句があります。

 ハツミさんには幸せになってほしかった。


 という話は置いておいて、僕は痛い人間で更に下劣な人間であることが嫌いで仕方がありませんでした。

 十代を終え、二十歳になっても、自分の根幹の部分にはカビのようにそれは張り付いていました。


 あるものはある。

 望んでいなくとも、その方向に行ってしまったのだから仕方がない。

 現実は結局、変わらない。

 そう思えるようになったのは二十一歳の頃でした。


 嫌な自分から変わる為には今とは違う行動をするしかない。

 考えてみれば当たり前の結論の後に浮かんだのも、永沢さんの言葉でした。


 ――「時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」


 僕が好きで、凄いなぁと思っている作家の読書歴などを調べてみると、殆どの方が古典を読み、影響を受けたと公言されていました。


 ひとまず自分が永沢さんの言う「俗物の世界」にいるとして、そこから一歩出てみる為に「時の洗礼を受け」た小説を読んでみようと思いました。

 そうすれば嫌いな自分から離れられるんじゃないか、と微かな期待も持っていました。


 二十一歳になった頃の僕が古典として読んで面白いと思っていたのは志賀直哉の「城の崎にて」やフランツ・カフカの「変身」でした。

 当時の僕は本当に本を読んでいませんでしたね。

 というよりも、十八歳から二十一歳までの三年間、僕は読書が嫌いでした。


 小説家になりたいと思っていながら、本を読みたくない。

 けれど、凄い小説は書きたい。

 まさに下劣な人間です。

 そんな僕が「時の洗礼をうけ」た古典小説を読み、自分を変えようとしていました。



 実は今回、古典小説を読んで好きになった二人の作家について書こうと思っていました。

 けれど、想定以上に前フリが長くなってしまいました。

 ということで以下次回にします。


 今回、長くなった原因について書かせてください。

「ノルウェイの森」の永沢さんは自覚を持って権力的な振る舞いをする人間です。

 今の僕はそういう人間をどちらかと言えば、嫌悪する側に立ちます。

 しかし、十代の終わりから二十代最初の頃、権力さえあれば誰かに認めてもらえる。

 どこかで本気で思っていたのでしょう。

 本当に痛い人間です。


 ちなみに他人を神様のように信仰してしまって、他人と対等に関係を築けなくなった男の子の小説をカクヨムにアップしています。

 矢山行人という男の子が主人公の小説で、「あの海に落ちた月に触れる」と「南風に背中を押されて触れる」です。

 よろしければ、こちらもお願い致します。

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