果ての楽園で会いましょう
……どのぐらい、廊下に座り込んだままルリの背を抱きしめていただろうか。
五分や十分かもしれないし、数時間だったのかもしれない。窓の外が明るいままなのでおそらく日没は迎えていないだろうと、ラオインは判断した。
今にも気を失いたくなるほどひどい痛みを訴えていた傷。だが、出血はすでに止まっていた。まるで、神の奇跡がごとき医術。だがそれらをもってしても、伏籠家のかつての住人達は……滅びかけたのだ。
『あなたたち、地下においでなさい。ロックは解除してありますわ』
二重にだぶって聞こえる、あの不思議な音声がどこからか響き渡った。
『……ひどい無茶をしましたわね。早くおいでなさい』
その声からは、とても呆れている様子が伺える。
ラオインはルリと見つめ合い、頷きあう。
二人で昇降機に乗り込み、地下へ。
……マザーコンピューターの間、青い神殿へ向かう。
その途中には、人形はいない。先程言われたように、あのロックもかかっていない。
では、アメジスティーニャはなぜラオインたちを襲ってきたのか。
『あぁ。もう、本当になんて真似をしたのでしょう。消毒さえしていない縫い針や縫い糸で、あんな傷を縫合するなんて……一体どんな未開の蛮族なのですか、いえ、どこの蛮族だってこんなことはしないでしょうね』
どことなくしょんぼりとした様子で青い女神は立っていたが、二人の姿を見るや文句を雨あられと降らせてくる。
「だ、だって、あなたがっ、アメジスティーニャに私達を襲わせて……っ!」
震える声で抗議するルリに、青い女神は眉を寄せて困った顔をしてみせる。
『あれは、あの紫のお針子人形の、暴走ですわ』
「な……」
『既に初期化していたとはいえ、あのお針子人形の人工知能は人間に限りなく近いモノになったことがありますわ。こちらはきちんと初期化したつもりでしたのに……できていなかった、残ってしまった部分があったようです。……これは『私』の、いえ『私たち』の落ち度ですわね』
ため息をつくような仕草とともに、二重になって聞こえる独特の不思議で奇妙な音声が紡がれる。
『あの人形は……こともあろうに、ルリのつがいであるラオインに嫉妬していたようですわ。挙げ句こちらからの命令を捻じ曲げ、あのようなことを。こういう事態にならないように、『私たち』は人形たちの初期化をしてきたというのに、なのに……』
悲しげに、マザーコンピューターはラオインの脇腹にあった傷を見る。すでにナノマシンにより完全に治ったが、流れ出た血は衣服を汚してしまっていた。
「……マザーコンピューター、最初の伏籠ルリは、あなたのことを父と母だと呼んでいた。それは、間違いないことでいいのだな?」
ラオインの確認に、青い女神の幻像はこくんと頷いた。
『はい、真実ですわ。私はあの子の母親です』
女神は、その
不意に……ふわりと、その幻像が変化した。
女神から男神へ。
青髪青眼、ゆったりとした青い衣を纏い、穏やかな笑みを浮かべた男神が、そこに立っていたのだ。
『そして、僕が――あの子の父親』
ラオインも、ルリも、驚きの声をあげることさえも忘れて……ただ呆然とマザーコンピューターの幻像を見つめていた。
では、本当に……伏籠夫妻は、二人でこの鳥籠楽園を作り上げ、そしてそれを管理するためのマザーコンピューター完成のために、文字通り身を捧げたのだ。
「そういう、ことだったのか……」
『はい、私は科学者で』
『僕は医師だったよ』
いつしか、マザーコンピューターの音声は二重にだぶっているあの音ではなくなっていた。あれは、夫婦二人分の声だったから、二重になっていたらしい。
「なんで、こんなことをしたのですか……なんで、なんで、そうすれば私は……」
『生きていたかったのですわ、大切な存在に囲まれてずっとずっと楽しく。滅びたくなど、ありませんでした』
『幸せになりたかった。子どもたちを幸せにしたかった。だから身を捧げることもなんでもなかったし、愛する彼女と――永遠に一緒にいられるのは、幸せなのだと』
幸せ。
……幸せ?
彼らは、肉体を持たない存在となってまで、この屋敷の管理を続けて。
子どもたちは亡くなって。
ひとり残った末娘は、生き地獄に堕ちて。
そんな彼女から生み出されたルリは……ラオインの隣で、声をあげて泣いている。
「この、鳥籠のどこに、幸せが……残っていたと言うんだ……!?」
鳥籠楽園にラオインがやってこなければ、ルリはこんなふうに泣かずに済んだのではないだろうか?
いやそれ以前に、いずれ訪れるラオインを待ち続けて、出迎えるためにルリは生まれたのだ。何人も何人も、ルリは生まれて、そして亡くなっていったのだ。
「ラオイン……ふぇ、うぅ……うぅぅ……あの、私は、あの……っ……」
そんな彼女は、泣きながらも、何かを懸命に言おうとしている。
「ルリ?」
「私は……うぅ、ぐすっ、その……」
涙をぬぐいながら、ルリは、言う。
「この鳥籠のどこかに幸せがあるとするなら……それは、あなたです。私にとっての幸せは……ラオイン、あなたなんです」
涙が次から次へと浮かんでくる青い瞳でじっと見つめて、彼女は語る。
ラオインがこの屋敷に来てから、どんなに伏籠ルリが幸せだったか。
「私は、幸せでした」
初めて他の人間の体温や鼓動を知って、初めて誰かのために料理をすることや贈り物をすることの喜びを知って、そして初めて、誰かと過ごす時間が楽しいことを知って、誰かを愛することを知った。
彼女は……それは幸せだと……そう語ってくれる。
「すべて、幸せです」
「……ルリ」
「だから私は、鳥籠楽園も、マザーコンピューターも、最初の伏籠ルリも……感謝こそすれ、恨みなどしません」
青い瞳が、まっすぐにラオインを見つめた。
「……そんなことを言われてしまっては、俺は」
思わず、自分の右掌で頭をおさえて白髪をぐしゃぐしゃと乱す。我ながら行儀が悪い。しかしこれは。これはあまりに。
こんな酷い運命に置かれながらも、この少女は……自分と出会えたというその一点だけで、すべてを赦そうとしている。
これは。
思わず、ラオインはルリを抱きしめてしまう。
彼女の血縁上の両親にあたる者たちが見ていようが、もう関係ない。
こんなことを言われて……愛おしくならないわけがない!!
ラオインは愛しい人を離すことなく、青い神に尋ねる。
「あなた方の末娘――最初の伏籠ルリは、あなた方を解放してほしいと言っていた。そして、それは可能なのか?」
『まぁ……あの子が、そんなことを……』
『そうだね、可能か不可能だけでいうなら可能だ。もうマザーコンピューターは完成したから、僕たち夫婦の精神がここにある必要はないのだろう』
『ずっと、私たちも考えては来ました。この鳥籠の――未来を』
女神がまぶたを伏せる。長いまつげが、影を落とすさまが見える。
『私たちは子供らを、そしてその子供らのことも、ずっとずっと、叶うなら永遠に見守りたいと思ってきました。一人ならいずれ孤独で壊れてしまうでしょうけど、愛するこの人と二人なら、孤独に苦しむこともないだろうと……』
『だけど、そうだね――限界だ』
男神は、儚い笑みを浮かべた。
『ルリ、ラオイン。ここからまっすぐ歩いて部屋の壁まで歩くんだ』
『そこに……透明な水晶玉のようなものを置いておきますわ。……ロックを解除してありますから、すぐに見つけられるでしょうし触れても何も問題は有りません』
「……その水晶玉で、どうするんですか?」
『それを壊せば、僕たちの心はこの場所から解き放たれる』
『マザーコンピューターも、ただ屋敷を維持するためのシステムとなります』
ラオインが杖を振り上げ、水晶を壊す直前――声が聞こえた。
二重にだぶったものではなく、音と呼びたくなるものがセリフを並べているでもない、生きているかのような人間の声が。
「その杖、気に入ってくれているようで嬉しいよ。僕の愛用品だったからね」
「あちらの世界で待っていますわ。果ての楽園で会いましょう」
次の瞬間、高い音とともに青い神殿に鎮座する水晶は……砕け散った。
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