貝の口と、文庫結び
夏も盛りを迎えようという頃。
「ラオイン、ようやく仕立て上がりました!」
ルリが待ち望んでいた品が、ついに届いた。
二人の部屋に、アメジスティーニャが恭しく平たい箱二つを運んできて、それらを丁寧な手つきで開ける。
中に入っていたのは、浴衣。もちろんそれぞれ男物と女物だ。
ルリの分は、藍色で白い朝顔があざやかに咲いている浴衣。帯はごく淡い黄色と薄紅色との格子縞模様。くすんだ薄紅色のお花飾りがついていて、帯にさしてもいいらしいし、髪飾りにしてもいいようだ。
ラオインの浴衣も藍色にした。こちらはごく細い白の縦縞模様が入ったもの。帯は濃いめの灰色の地だ。薄い灰色でなんだかありがたそうな鳥が大きな羽根を広げた模様が入っている。
「ラオイン、これが浴衣です。本当、今年の夏に間に合ってよかった……」
「ふむ……これが和服なのか……」
「えぇ。和服の一種ですよ。元々は湯上がりに着るものだったようですですが、夏のお祭りなどで着用されるようになっていったようです」
「この前見た映画でも、主人公たちが祭りで着用していたな」
ラオインは箱の中にある畳まれた浴衣に、そっと触れて口元をほころばせた。
ルリも、自分の浴衣にふれて大きな朝顔の模様をなぞる。真新しいそれは少しひんやりとしてさらさら。その感触が、指先に心地良い。
これは映画の主人公らが着ていたような本当の浴衣じゃない。
スクリーンの中で女性が着ていたのはたしか――雪花絞りとかそういう可愛い名前で呼ばれていたものだった。どうやら染め方の技法の名らしい。しかし、この目の前にある浴衣は、そもそも本当に藍で染めたものなのか、まずそこからだろう。
でも、いい。
ルリたちがしたいのは、あくまでごっこ遊びなんだから、本物じゃなくていいのだ。
「それじゃあ。せっかく誂えたのですし着ましょう着ましょう!」
「……着方が、わからないのだが」
困ったような瞳で見つめてくる彼に、にっこりと微笑みを返してあげる。
「そこは大丈夫です。アメジスティーニャ、ラオインの着付けをお願いしていいですか?」
「かしこまりました。帯結びは、どういたしますか」
無表情なままでこくりと頷いて、お針子人形はラオインを見ることもなくルリに問う。
「そうですね、では……ん、貝の口の結び方で」
ほんの少しの間考えてから答える。片ばさみという結び方とも迷ったのだが、どちらがよりラオインに似合うかを頭の中で描いてみた結果、貝の口に軍配が上がった。
「……かしこまりました」
あまりにも人形らしい無表情のまま、アメジスティーニャは仕事を始める。
ラオインも服を着せてもらうのには慣れた様子だが……ルリはどうしてか、彼が大人しく袖のボタンを外して貰っているのを見ているのは、いけないような気がした。なので、部屋を仕切るついたての向こうに移動する。
「……どっちに嫉妬してるんでしょう、私」
自分の足音に紛れるようなとても小さな声で、そうつぶやく。
ラオインだって、誰かに服を脱ぎ着させてもらうことはこれまでにいくらでもあっただろう。 アメジスティーニャも仕事なのだ。それも、ルリが命じた仕事なのだ。
そのことにどうしてこんな想いをするのだろう。
「……はぁ」
ルリは深く深くため息をつく。
ああ。いけない。
今のうちに、体の中のもやもやを吐き出してしまわねば。
「……着付け、終わりました。お疲れ様です」
最後にルリの襟元を整えて、彼女は直立不動の姿勢で抑揚のない台詞を紡ぐ。その、紫水晶のような
「ありがとう、アメジスティーニャ」
だけどそんな思いなど、彼女に伝わってくれるわけがない。彼女は人形なのだ。かつてのように、ルリの友だった頃の彼女とは違う。
だけど――大切な、友人だったのだ。
「ありがとう」
そっとその細い指先を握りしめて、もう一度だけ彼女に礼を言う。
アメジスティーニャはゆっくりと丁寧なお辞儀をして、部屋から出て行った。
人を学びすぎて、人に近づきすぎて、人になろうとして、そしてすべてを忘れてしまった紫水晶の人形・アメジスティーニャ。
けれど、それでも彼女は――ルリの友人だ。
さらさらさら。
彼の優しい手が、ルリの黒髪を梳いてくれている。今日の髪型は、編んでからお団子にまとめてもらうことにした。
鏡の中には、藍色の浴衣を纏ったルリとラオインが映っている。どんな浴衣にしようかとても迷ったが、やはり藍色にして良かった。彼には、こういう王道ど真ん中まっすぐな格好良いものがとてもよく似合う。
彼の、浴衣の合わせ目から覗く鎖骨だとか、長い袖から見える腕。それらに妙に色気を感じてしまう。鎖骨や腕ぐらい普段着でも見える箇所なのに、不思議だ。
「今日はモルガシュヴェリエが焼きそばやお好み焼きを作ってくれるのだったな」
「えぇ。ラムネも用意してくれるんですよ。……さすがにあの硝子玉の入った瓶は、できないみたいでしたけど」
今日は夏のお祭りみたいな、ごはんを食べられるのだ。
映画や物語の主人公が、人でいっぱいの賑やかなお祭り会場で食べる焼きそばやお好み焼きやたこ焼き。
あの、ソースがいっぱいかかった不思議な食べ物たち。それは伏籠ルリにとっては、美しき妖精が作った糧食や、仙女が育てている桃や、神話に出てくる不老不死になれるお酒――そういう類のモノと同種の存在だった。
「楽しみですね、ラオイン」
「そうだな」
これは、ごっこあそび。
今日はさしずめ『お祭りごっこ』といったところだろう。
「モルガシュヴェリエも、随分と張り切っているようだったぞ」
「……ふふ。えぇ、そう……でしたね」
ルリは、彼に悟られないようまばたきのふりをして、少しの間だけ瞳を伏せた。
モルガシュヴェリエは……あの人形は、人に近づきすぎている。
かつてのアメジスティーニャと同じだ。あの人形の人工知能は、あまりにも学びすぎた。
その果てに待つのは――初期化。
きゅうっ、と……ルリは胸のあたりが絞られるような、そんな痛みを覚えた。
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